7 榎本夏彦

文字数 5,424文字

 図書室警察事変(と那由多先輩が命名した)が終わり、平穏な日常が戻ってくるはずだった。しかしそれ(・・)は気づかないうちに近づき、突如として僕の前に姿を現した。
 七月の悪魔、期末考察だ。
 僕の心の暦の上ではまだ二、三週間ほど余裕があるはずだった。しかし現実のカレンダーは考査開始日まで一週間しか残っていなかった。
 完全に図書室警察の活動に意識を奪われていたせいだけど、過ぎてしまったものは仕方がない。
 僕は早急にクラスメイトの夏彦に声をかけた。
 幸いなことに彼と僕は得意な科目と苦手な科目が異なっている。
 頼み込んだ末、週末に勉強会を開くことになった。土曜日の午後一時からで、場所は夏彦のマンション。おやつと飲み物は僕が途中のコンビニで調達した。一応、こちらからお願いしたわけだし、これくらいの負担は安いものだ。
 最初の三十分は悪くないペースで進んだ。苦手な教科を教え合いながら、互いに勉強をする姿を前にすることで、意識を高く保つのだ。
 このまま行けばテスト勉強は過去最高の仕上がりになりそうだった。
 ただし集中力が有限でなかったら。
「奏汰。お前、夏休みの予定は?」
 一時間後、すっかり腑抜けた夏彦が訊ねてきた。
「テスト前に、テスト後の話をするのってどうなんだろう?」
 一応は苦言を呈した僕だったけれど、本気で反対することはできなかった。
「目標を立ててモチベーションを高める作戦なんだよ」
「はいはい。でもあいにく僕は何も予定はないよ。まあ、読書じゃないかな。まとまった時間でないと読むのが難しい大長編とかに挑むと思う」
「大長編って、ドラえもんの映画原作のことか?」
「それも悪くないけど、活字の話だね。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』とか」
「ドスとエス……? ちょっと何を言ってるのかわからない。日本語で頼む」
「まあいいよ。で、夏彦は? どうせUMA探索旅行とかなんだろ?」
 夏彦はオカルト研究会に所属している。今いる彼の部屋の本棚にもその手の本がひしめいている。
「ああ、それは去年の話な。今年の夏、俺は未確認生物よりも存在が既に確認されているものを対象にすることにしたんだ」
「ふうん? そっちこそ何言ってるのかわからないんだけど」
「日本語で言ってやるよ。今年の夏、俺は人間を追いかけることにしたんだ」
「人間ってホモ・サピエンス?」
「そうだ。特にホモ・サピエンスの女子を」
 ホモ・サピエンスの女子、と僕は心の中で繰り返した。
「ところで奏汰。お前、今年の夏って、どういう夏か知っているか?」
「なにか急に禅問答みたいなのが来た」
「俺は真面目に訊いてるんだから真面目に答えてくれよ」
「高校二年生の夏だろ?」
「わかってないな。お前、平成最後の夏じゃないか!」
「……それは知ってるけど」
 今年は平成三十年。来年になると元号が変わることが決定している。そのためSNS上では最近やたらと「平成最期の夏」という言葉が乱用されているのだった。
「なんでも元号が変わるのが事前にわかっているのは今回だけらしいじゃないか。終わりがわかっている夏。エモいと思わないか?」
「いや、別に」
 夏彦は喋っているうちに気持ちが高まったのか、次第に言葉が熱っぽくなっていた。勉強からの逃避も含まれているかもしれないけれど。
「奏汰。夏といったらなんだ?」
「いきなり古今東西ゲーム? とりあえず、ラムネ?」
「悪くないな。他には?」
「海。そうめん。冷やし中華。スイカ。スイカバー」
「スイカがかぶってねえか? まず、いいや。他にももっとあるだろう?」
「プール。蚊取り線香の豚。花火」
「豚? いや、そう、花火、花火だ! 夏休みといったらやっぱり花火大会なんだよ!」
「まあ、花火は悪くないけど、そこまで力説するようなものかな。だいたい去年、一緒に行ったじゃないか。地元の花火大会」
「地元の花火大会? そんなのはもう卒業したんだ。中学生じゃあるまいし」
「去年、僕らは高校一年生だったけど……」
 夏彦は僕の指摘を頭からスルーして、高らかに宣言した。
「俺は今年の夏、大灯花火大会に行くんだ! ホモ・サピエンスの女子とともに!」
「大灯? それってうちの県で一番大きな花火大会のこと?」
「そうだ。ちなみに全国的にも一位、二位を争うほどの知名度を誇ると言われている。正確には大灯花火競技大会。花火師たちよる見本市なんだよ」
「すごいってはよく聞くよね。あれ? でもそういえばどこでやるのかちゃんと知らないな」
「まず電車で大灯市まで片道五十分。そこから会場の河川敷まで徒歩で二十分ってところだな」
「うーん。行けなくもないかもしれないけど、地味にしんどくない?」
「去年までは俺もそう思っていた。花火なんて近場で済ませばいいんだって。だけど気づいてしまったんだ。どうして未だに俺に彼女がいない理由を」
 ドン、と夏彦は机を強く叩いた。
「ん? なんか話が飛躍してないか?」
「全然飛んでねえよ! わかんないかなあ。花火だよ、花火。女子と花火に行ってないから、俺もお前も未だに彼女がいないんだよ。高校生活を普通に送っているだけじゃ駄目なんだ。花火のような劇的な場に女子を連れていかないから異性交際ができないんだよ」
「別に花火に一緒に行ったからといって必ずしも付き合うことになるわけじゃないと思うけど。っていうか、その理屈だと別に地元の花火でもいいんじゃないか?」
「花火は規模が大きければ大きいほどきっと成功率は上がるはずなんだ」
「いや、そんな、大きいほどコスパが良くてお得、みたいな話をされても」
「お前、クラスメイトのO田とN木って知ってるよな?」
「ほとんど話したことはないけど、顔と名前は一致してるよ。一応」
「あの二人はどっちも彼女持ちなんだ」
「ふうん。そうなんだ。まあ、モテそうな顔だよね、二人とも」
「前からいたわけじゃないらしいんだ。去年の夏、去年の大灯の花火で初めて彼女が出来たらしいんだよ」
「それ、もともと仲が良い相手がいて、花火をきっかけに付き合い出しただけじゃ……」
「そんな揚げ足取りは今はいいんだよ。大灯の花火にはそういう力があるんだ。あるんだよ! これにあやからずして、何にあやかるって言うんだ?」
 夏彦にかかれば花火でさえ都市伝説扱いだ。流石はオカルト研究会といったところか。
「でも、問題はどこか、よりも、誰と、なんじゃないかな?」
「まさにそれだ!」
 夏彦はギラリと眼光を光らせた。
「実は俺、狙っている女子がいるんだ。SNSで知り合った他校の女子なんだけど、これがなかなかガードが固くてさ。一対一だと会ってくれないんだよ」
「難攻不落だ」
「だから今回は友達を含めたグループで誘おうと思っているんだ。将を射るにはまず馬から、って格言があるらしいからな」
 まるで他の女子を馬扱いしているみたいに聞こえる。まあ、つっこんでいたら切りがないので言わないけれど。
「で、頼みがあるんだが、お前も一緒にそこに加わってくれな……」
「ただいま!」
 唐突に玄関のドアが開く音と、女の子の声が響いた。
 その途端、話の途中だったはずの夏彦はアプリが固まったみたいに動きを止めた。
「どうしたんだよ?」
 僕の質問に対し、夏彦は口に指を当てながら首を忙しなく振った。どうやら声を出さない方がいいらしい。
「兄貴! いるの? いないの? いるなら返事! いないなら返事して!」
 いないなら返事はできないのでは?
 と思ったけれど、声を出すわけにもいかない。
 しばらくその声と足音は近づいたり遠ざかったりしていたが、やがて僕らのいる部屋へ向かってきた。
 居留守を諦めたのか、夏彦は急に参考書を開き直した。
「ここか、愚兄!」
 蝶番が外れそうな勢いでドアが開け放たれた。
 いまいち状況が飲み込めない僕だったが、とりあえず夏彦に合わせて勉強をしているポーズを取っていた。
 ドアを開けたのはジャージー姿の小柄な女の子だった。そういえば前に中学生の妹がいる、と夏彦から聞いたことがあった。
 まさか
「……すいません。お邪魔しています」
 沈黙して固まっている女の子に僕は素早くあいさつをした。初対面で気まずくなったらあいさつをしておけばとりあえずどうにかなる。
「えッ? あッ? お客さんッスか? こ、こっちこそすいませんでした!」
 女の子は身を翻して部屋から出ていった。しばらくバタバタという物音は続いたが、玄関のドアが開閉する音を最後に、それ以降は静かになった。どうやら出かけていったようだ。
 フーッ、と夏彦は潜水から上がってきたみたいに息を吐いた。
「さっきのは妹?」
「のような形をした異形の生き物」
「流石にそれは言い過ぎじゃないかな。見た目はれっきとした人間だったよ」
「目に見える範囲ではな。中身は鬼っ子だ。悪鬼だ」
「そんな言葉を日常会話で使う方に驚きを感じるよ。で、なんで急に黙り込んだわけ?」
「花火の話をしてるのを聞かれたくなかったんだよ。あいつ、俺にくっついて大灯の花火に行きたがってるんだよ」
「ああ、そういえばさっき、一緒に行くメンバーを探してるって言ってたっけ。なんで? 別に妹に好かれてるのなら連れていけばいいじゃないか」
「お前、人の話を聞いてたか? っていうかさっきの妹の言動で察しろっての。あんな妹と一緒に行ったら彼女作るどころじゃなく、百鬼夜行になっちまうっての」
「よくわからないけど、妹から好かれているんじゃないの?」
「冗談きついぜ。ぺんぺん草も生えねえ。あいつは中学生だから、親から友達同士で遠出することを禁止されてるんだ。だから俺を利用しようとしてるだけだっての。いいか? 世の中には妹萌えなんて言葉があるようだが、現実にはそんなものは一切ない。わかったか?」
「……ま、まあ、そこまで嫌なんだったら仕方がないけど」
 夏彦の異常な剣幕に押されて、僕はそれ以上、妹の話題には触れないことにした。人間、どこに地雷が潜んでいるかわからないものだ。
「で、話を戻すけど、お前は一緒に来る気はないか?」
 中断していた大灯花火大会の話が再開された。
「いや、僕はいいかな」
 夏彦には悪いけれど、知らない他校の女子と一緒に遠方の花火大会に行きたいと思えるほど、僕は開けた精神構造をしてはいないのだ。
 案の定、夏彦は食い下がってきた。
「別にお前だけでなくていいんだぜ? 要は頭数を用意して、本命の女の子を連れ出すシチュを作れればいいんだから。なんなら集合場所だけ合わせて、後は別行動でも全然OK!」
「なんだよそれ。集合した後に僕一人で行動しろってこと?」
「希望するなら、ってことだよ。それに一人とは言ってないだろ。図書委員のパイセンとくればいいじゃないか。えっと、名前はなんだっけ? ゆら? なゆら?」
 僕は驚いて思わず声が裏返った。
「なんで急に那由多先輩が出てくるんだよ!」
「は? だってお前、そのパイセンのこと憎からず思っているんだろ? っていうか、普通に好きなんだろ?」
「いや、ちょっと何を言ってるのかよくわからないんだけど」
 それまでずっと夏彦の話を他人事として聞いていたのに、急に矛先が自分の方を向いたものだから驚いた。体育の授業で球技をしていたら、思ってもみないところでパスを回されたような気持ちだった。
「なにしらばっくれてるんだよ。これまでさんざんパイセンの話を聞かせておきながらさ」
「いや、これまで聞いてもらったのは先輩のことなくて、図書委員の話のつもりだったんだけど。あと、パイセンって呼び方やめてくれないかな。なんか嫌なんだけど」
「あ、言葉尻をとらえて話を誤魔化そうとしててるな?」
「どっちにしろ先輩は誘わないよ。そもそも大灯の花火に僕自身、行く気もないんだからさ」
「じゃあ地元の花火は?」
「大灯だろうと地元だろうと、花火に誘うつもりはないんだって。那由多先輩は図書委員の先輩ってだけなんだからさ」
「図書委員の先輩ねえ。あんな逸材が近くにいながら、そんな朴念仁みたいな反応しやがって。お前、そんな奥手でこれから先やっていけるのか?」
「え、なんかいきなり説教されてる? っていうかこれから先ってなんだよ? あと朴念仁って何?」
「いいか、奏汰。パイセンってのはな、先輩なんだぞ!」
「え? ごめん。意味がまったくわからない」
「わっかんねえかなあ。俺たちにとっては高校二年生の夏だけど、パイセンは先輩だから、高校生最後の夏なんだよ」
「…………」
「平成最後の夏にして、高校生最後の夏。これ以上、エモい夏は他にあるか? いいや、ないね!」
「…………ないと」
「もちろん三年生は大学受験で忙しくなるかもしれない。だが、来年になったらパイセンは卒業して学校からいなくなってしまうんだぞ。一時が万事だ。行動するなら今しかないんだ」
「……テスト勉強、しないと、いけないだろ!」
 僕は絶えきれずに声を荒らげた。
 それでもヒートアップした夏彦を止めることはできなかった。その後も彼の演説は続いた。
 この日、僕は一つの教訓を得た。
 テスト前に友人と勉強はするべきではない。
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登場人物紹介

湊 奏汰(みなと そうた)


主人公。高校2年生。図書委員。

那由多 宇宙(なゆた そら)


高校3年生。図書委員の先輩。

榎本 夏彦(えのもと なつひこ)


高校2年生。湊奏汰のクラスメイト。オカルト研究会。

榎本 夏鈴(えのもと かりん)


高校1年生。湊奏汰の後輩。図書委員。

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