8 夏休みN日前
文字数 2,649文字
期末考査の最終日が終わった。
明日からは誰もが心待ちにしていた夏休みだ。
机の中の荷物を鞄に入れていると、清々しい表情の夏彦がやってきた。
「よう。テストの出来はどうだった?」
「おかげさまでスリリングな体験ができたよ。特に土曜日の勉強会で教えてもらうはずだった古文の解き応えといったら。で、夏彦の方は?」
「俺は過去は振り返らない主義なんだよ」
「カッコイイな」
「まあね」
皮肉も相手に届かなければ効果はない。もっとも僕もそこまで根に持つつもりはなかった。とにかく今は終わったことを素直に喜ぼうと思う。
僕は荷物をまとめて夏彦と一緒に教室を出た。
「ん? 奏汰。お前、帰らないのか?」
昇降口とは反対の方向に向かう僕を見て、夏彦は首を傾げた。
「うん。図書委員の仕事があるんだ」
夏休みの間、図書室は基本的に閉鎖になる。その前に蔵書点検が行われることになっていた。別に図書委員会として義務付けられた仕事というわけではなかったけれど、盗難事件で司書の先生には便宜を図ってもらったので、個人的に手伝おうと思ったのだった。
そのように説明したにも関わらず、夏彦は「はっはーん」と訳知り顔で頷いた。
「そうか、そうか。やっぱりパイセンを誘うつもりになんだな。いや、いいんだよ。パイセンと二人で行きたいのに、俺がグループで行こうなんて言ったから嫌がってたんだな。気持ちを汲んでやらなくて悪かった。俺のことは気にするな。俺は俺でがんばる。だからお前もがんばれ!」
「いや、だから本当に蔵書整理が……」
「健闘を祈る!」
夏彦はサムズアップしながら昇降口への階段を降りていった。
教訓その二。人は思った以上に人の話を聞かない。
気を取り直して僕は図書室に向かった。
未返却本の盗難事件に加え、直後に期末考査が続いたせいか、ずいぶん久しぶりに図書室に来たような感覚だった。
中に入ると司書の先生が貸出カウンターに座っていた。
「もしかして手伝いに来てくれたの? 助かるわ」
普段は閑散としている図書室だったが、夏休みの中の暇つぶしや読書感想文のために本を借りていく人はそこそこにいる。激務というほどではないけれど、人一人分の手があるかどうかでずいぶんと違ってくる。僕がカウンターで貸出業務を行い、司書の先生は閉架の蔵書整理をすることにした。
貸出をしながら、僕は図書室の中を定期的に伺った。
那由多先輩も来ているだろうと思っていたので、彼女の姿が見えないことに少し驚いていた。まあ、そういうこともあるだろうけれど。
三十分ほどで利用者の足が絶えた。思ったよりも早かったけれど、きっとみんな明日からの夏休みを満喫したくて帰路についたのだろう。今日は部活動もないのでグラウンドも静かだった。
「波は引いたようね。ありがとう。助かったわ」
司書の先生が閉架のドアから顔を出して労ってくれた。
「あの、先生。今日、那由多先輩のことは見かけましたか?」
迷いつつも訊ねると、司書の先生には首を傾げて言った。
「そういえば見ていないわね。普段ならこういう時は率先して手伝いにきてくれるのにね」
「僕より先に来て、何か仕事をしていったわけじゃないんですか?」
「そういうわけじゃないわね。今日は朝から一度も見かけていないわ」
別に一日図書室に来ないだけで心配する必要がないのはわかっている。。那由多先輩には那由多先輩の事情があるだろうし、図書委員を他より優先する義務があるわけではない。そもそも今日の仕事は任意なわけだし。
ただ、僕の中では今日は久しぶりに顔を合わせられるのものという思い込みがあったのだ。期待、していたのかもしれない。
「まさか期末考査が悪すぎて、その場で赤点が確定していたとか」
それは軽い気持ちの冗談だった。
ところが思いの外、司書の先生は真面目な顔のまま頷いた。
「それはどうかはわからないけど、確かにこれからは那由多さんも滅多に図書室には来れないかもしれないわね」
「え、どうしてですか?」
「那由多さんももう三年生だからね。夏休みに入ったことだし、これからは受験勉強に追われて、自由な時間はほとんどなくなってしまうだろうから」
「……さ、三年生ってそんなに忙しいものなんですか?」
「もちろん人によって進路は異なるだろうから一概には言えないけど、那由多さんって本好きだけあってかなり頭もいいみたいだからね。けっこう難しいところを受験するんじゃないかしら?」
「……そ、そうなんですか?」
思えば僕は那由多先輩がどれくらいの成績で、どんな大学を志望しているのか、まったく知らなかった。本についての四方山話はたくさんしてきたが、実利的な情報のやり取りは驚くほどしていなかったことに気づいた。
「で、でも、夏休みってけっこう長いわけですし、なんだかんだいって三年生も多少は休みを満喫するんじゃないですか? 実際に本腰入れて勉強するのは秋頃から、みたいな……」
高校受験の時はそうだった。担任からは早く始めるに越したことはないと言われてきたけれど、周りも含めて勉強に本腰入れ始めたのは十月頃だった記憶がある。
「何度も言うようだけど、その人の成績と受ける学校のレベルによるわね。早い人は春からもう本腰入れている人もいるようだし。うちの学校では夏からって人が一番多いかしら。駅前の塾の夏期講習に通う人も多いみたいだし」
「そ、そういうものなんですか、大学受験って……」
結局その日は図書室が閉まる時間になっても那由多先輩はやってこなかった。
「そういえば那由多さんとは連絡先を交換していないの? そんなに気になるなら本人から直に聞いてみればいいんじゃないかしら。どこの大学を狙っているんですか、って」
「……あ、いえ、知らないわけではないんですが」
いつの間にかメッセージのやりとりするようになっていたSNSは、もともと図書委員の間でグループ共有していたものだった。図書委員の連絡なら気兼ねしないが、個人的な質問をそれを行うことには抵抗があった。
それにもしも本当に勉強で忙しいのだとしたら、不必要なメッセージを送ること自体、迷惑になるのではないだろうか。
校舎を出て正門前のバス停に向かいながら、僕は夏彦が言っていた言葉を反芻した。
パイセンってのは先輩なんだぞ。
前に聞いた時は意味不明だと思ったのに、今なら少しだけわかるような気がした。
明日からは誰もが心待ちにしていた夏休みだ。
机の中の荷物を鞄に入れていると、清々しい表情の夏彦がやってきた。
「よう。テストの出来はどうだった?」
「おかげさまでスリリングな体験ができたよ。特に土曜日の勉強会で教えてもらうはずだった古文の解き応えといったら。で、夏彦の方は?」
「俺は過去は振り返らない主義なんだよ」
「カッコイイな」
「まあね」
皮肉も相手に届かなければ効果はない。もっとも僕もそこまで根に持つつもりはなかった。とにかく今は終わったことを素直に喜ぼうと思う。
僕は荷物をまとめて夏彦と一緒に教室を出た。
「ん? 奏汰。お前、帰らないのか?」
昇降口とは反対の方向に向かう僕を見て、夏彦は首を傾げた。
「うん。図書委員の仕事があるんだ」
夏休みの間、図書室は基本的に閉鎖になる。その前に蔵書点検が行われることになっていた。別に図書委員会として義務付けられた仕事というわけではなかったけれど、盗難事件で司書の先生には便宜を図ってもらったので、個人的に手伝おうと思ったのだった。
そのように説明したにも関わらず、夏彦は「はっはーん」と訳知り顔で頷いた。
「そうか、そうか。やっぱりパイセンを誘うつもりになんだな。いや、いいんだよ。パイセンと二人で行きたいのに、俺がグループで行こうなんて言ったから嫌がってたんだな。気持ちを汲んでやらなくて悪かった。俺のことは気にするな。俺は俺でがんばる。だからお前もがんばれ!」
「いや、だから本当に蔵書整理が……」
「健闘を祈る!」
夏彦はサムズアップしながら昇降口への階段を降りていった。
教訓その二。人は思った以上に人の話を聞かない。
気を取り直して僕は図書室に向かった。
未返却本の盗難事件に加え、直後に期末考査が続いたせいか、ずいぶん久しぶりに図書室に来たような感覚だった。
中に入ると司書の先生が貸出カウンターに座っていた。
「もしかして手伝いに来てくれたの? 助かるわ」
普段は閑散としている図書室だったが、夏休みの中の暇つぶしや読書感想文のために本を借りていく人はそこそこにいる。激務というほどではないけれど、人一人分の手があるかどうかでずいぶんと違ってくる。僕がカウンターで貸出業務を行い、司書の先生は閉架の蔵書整理をすることにした。
貸出をしながら、僕は図書室の中を定期的に伺った。
那由多先輩も来ているだろうと思っていたので、彼女の姿が見えないことに少し驚いていた。まあ、そういうこともあるだろうけれど。
三十分ほどで利用者の足が絶えた。思ったよりも早かったけれど、きっとみんな明日からの夏休みを満喫したくて帰路についたのだろう。今日は部活動もないのでグラウンドも静かだった。
「波は引いたようね。ありがとう。助かったわ」
司書の先生が閉架のドアから顔を出して労ってくれた。
「あの、先生。今日、那由多先輩のことは見かけましたか?」
迷いつつも訊ねると、司書の先生には首を傾げて言った。
「そういえば見ていないわね。普段ならこういう時は率先して手伝いにきてくれるのにね」
「僕より先に来て、何か仕事をしていったわけじゃないんですか?」
「そういうわけじゃないわね。今日は朝から一度も見かけていないわ」
別に一日図書室に来ないだけで心配する必要がないのはわかっている。。那由多先輩には那由多先輩の事情があるだろうし、図書委員を他より優先する義務があるわけではない。そもそも今日の仕事は任意なわけだし。
ただ、僕の中では今日は久しぶりに顔を合わせられるのものという思い込みがあったのだ。期待、していたのかもしれない。
「まさか期末考査が悪すぎて、その場で赤点が確定していたとか」
それは軽い気持ちの冗談だった。
ところが思いの外、司書の先生は真面目な顔のまま頷いた。
「それはどうかはわからないけど、確かにこれからは那由多さんも滅多に図書室には来れないかもしれないわね」
「え、どうしてですか?」
「那由多さんももう三年生だからね。夏休みに入ったことだし、これからは受験勉強に追われて、自由な時間はほとんどなくなってしまうだろうから」
「……さ、三年生ってそんなに忙しいものなんですか?」
「もちろん人によって進路は異なるだろうから一概には言えないけど、那由多さんって本好きだけあってかなり頭もいいみたいだからね。けっこう難しいところを受験するんじゃないかしら?」
「……そ、そうなんですか?」
思えば僕は那由多先輩がどれくらいの成績で、どんな大学を志望しているのか、まったく知らなかった。本についての四方山話はたくさんしてきたが、実利的な情報のやり取りは驚くほどしていなかったことに気づいた。
「で、でも、夏休みってけっこう長いわけですし、なんだかんだいって三年生も多少は休みを満喫するんじゃないですか? 実際に本腰入れて勉強するのは秋頃から、みたいな……」
高校受験の時はそうだった。担任からは早く始めるに越したことはないと言われてきたけれど、周りも含めて勉強に本腰入れ始めたのは十月頃だった記憶がある。
「何度も言うようだけど、その人の成績と受ける学校のレベルによるわね。早い人は春からもう本腰入れている人もいるようだし。うちの学校では夏からって人が一番多いかしら。駅前の塾の夏期講習に通う人も多いみたいだし」
「そ、そういうものなんですか、大学受験って……」
結局その日は図書室が閉まる時間になっても那由多先輩はやってこなかった。
「そういえば那由多さんとは連絡先を交換していないの? そんなに気になるなら本人から直に聞いてみればいいんじゃないかしら。どこの大学を狙っているんですか、って」
「……あ、いえ、知らないわけではないんですが」
いつの間にかメッセージのやりとりするようになっていたSNSは、もともと図書委員の間でグループ共有していたものだった。図書委員の連絡なら気兼ねしないが、個人的な質問をそれを行うことには抵抗があった。
それにもしも本当に勉強で忙しいのだとしたら、不必要なメッセージを送ること自体、迷惑になるのではないだろうか。
校舎を出て正門前のバス停に向かいながら、僕は夏彦が言っていた言葉を反芻した。
パイセンってのは先輩なんだぞ。
前に聞いた時は意味不明だと思ったのに、今なら少しだけわかるような気がした。