第79話 19時ワイン (12月31日 あの時から1日)
文字数 2,532文字
第89話 お蕎麦 12月31日(金曜)19時 あの時から1日
時呼は、疲れた表情で、1人掛けソファに腰を下ろし、声を漏らす。
「憶…」
「…トキ。…少し、飲む?」
「…そうね。頂くわ」
二人共、心がかなり疲弊している。
夕食に、時呼の母、咲良 が持って来てくれたローストビーフと焚いた野菜、それにおにぎりを食べたところだ。
「白ワインにしようか」
「任せるわ」
亨玲は、キッチンのセラーからシャルドネの白を選んだ。オークの香りと爽やかな酸の効いたワインで、ボディもあり常温ぐらいまで温度が上がっても美味しく飲めるタイプだ。
ワインボトルと二脚のワイングラス、ソムリエナイフを持って、寝室に戻る。
白ワインを開けて、トクトクとグラスに注ぐ。乾杯はしない。少しグラスを傾けて、視線を合わせるだけ。
「…美味しい」
初めのうちは、二人共、静かにワインを味わっていた。次第にポツリポツリと言葉が出てくる。昨日の事。今日の事。これまでの事。これからの事。憶の事。
「私、甘えがあったのね…。憶くん。ギフテッドだからって…」
「トキは、憶のことをしっかり気にかけている。十分愛情を注いでいるのが、伝わってくる。今回は僕が甘かった」
時呼は何かを言いかけて、口をつぐむ。二人は、同じペースでワインを傾けている。一杯目のグラスを終え、壁掛け時計に視線を移す。
「八時か。年越し蕎麦、どうする?」
「そろそろ準備するわ」
時呼が立ち上がり、上着を羽織る。
「手伝おう」
「ありがと。実はとっても楽しみにしてたのよ」
時呼は笑顔を作り、亨玲も微笑を浮かべた。
「僕も」
廊下は冷える。リビングはさらに冷えた。
がらんどう。そんな印象を受ける、何もないリビングダイニングキッチン。時呼は戸棚から蕎麦を取り出して、パッケージの原材料名に目を通す。
さて、年越し蕎麦の準備をしよ。
出汁つゆと具材を温めて、蕎麦を茹でるだけなので作るのは簡単だ。時呼は味見をして、燈の分だけ少し味を整えた。簡単過ぎて、手伝うと言った亨玲の仕事は、お箸と小丼を並べることぐらいしかなかった。
亨玲が廊下に出て、二階にいる子供たちに声を掛ける。
「燈ー、憶ー。お蕎麦を食べよう。寝室においで」
「はーい」と返ってきたのは、燈の声。
時呼と亨玲は蕎麦を寝室のローテーブルに置いて、白ワインとグラスをデスクに移す。子供たちとミカエラが二階から下りてきた。時呼は子供たちの隣に床に座り、亨玲は一人がけソファに腰を下ろした。
「カレーの匂い」
燈がお蕎麦に顔を近づけて、笑顔になる。
「九尾きつね蕎麦だよ。燈ちゃん。この前憶くんが買ってきてくれたお蕎麦だよ」
「きゅうびー?」
九尾と言えば燈にとってはぬいぐるみの九尾だ。そのぬいぐるみも、憶くんが燈に買ってきたお土産。
「燈ちゃんのはこっち。あまり辛くないようにした」
燈は「はーい。いただきます」と手を合わせた。憶くんも「頂きます」と手を合わせた。
普通のカレーとは風味の違うスパイスの効いた、サラサラとしたお出汁のカレー蕎麦。九尾きつね蕎麦のパッケージには、九種のスパイスと書いてあった。クミン、ゴマ、山椒、陳皮、ウコン、シナモン、胡椒、唐辛子、生姜で、椎茸と鰹の出汁で味を整えているグアニル酸とイノシン酸の旨みが詰まったお出汁。
「んー。美味しい」
けっこう大人な味だけど、憶くんも燈ちゃんも「美味しい」と、あっという間に食べ終わった。
「お香を焚こうか」
不意に亨玲が言って、憶くんが反応する。
「お香…。うん。お香、焚いて」
「あのお香ね。いいわね。それじゃ、私はお片付けしてくるね」
私は空いた丼を持ってキッチンの流しに置く。
…お香か。亨玲は憶くんと、どう接するのかな。
「さて、少しだけだ。さっさと終わらせよ」
洗い物を終わらせて寝室に戻ると、森の滝のような香りが漂って、子供たちは写真を見ていた。
「最近の写真をまた一緒に見てるんだ。これはベイシティに行った時の写真」
ローテーブルの上で、水族館の後で行ったお店、ヴァンヴォアだったかな、で亨玲が買った抹香が焚かれている。その隣には、燈ちゃんが水族館で買ってもらったピンクのジンベイザメの印香が置いてあった。
写真をスワイプしていく。大地大公園の写真。ナユ・七さんと撮った写真。塔ノ岳のお祭り、映画館に行った時の写真。実家での家族写真。憶くんが、撮った雪に覆われた御岳山。
「ふわぁ」と燈があくびをする。
「燈ちゃんもう寝る?」
「お兄ちゃんとねる」
それも、いいと思う。
「ちゃんと歯磨きするのよ」
「うん」
「憶くん。燈ちゃんお願いね」
「うん」
「ねるとき、これ、やって」
燈は自分のイルカのお香を指して言った。寝るときにイルカのお香を焚いてという意味だ。
「いいの?燈ちゃん?」
燈ちゃんはイルカのお香を大切にしていた。焚いたら無くなるということも、わかっている。それでも燈ちゃんは、「うん」と眠そうに頷いた。
歯磨きをすませた子供たちと二階に上がる。ミカエラも一緒に着いてきた。
憶くんの部屋で、私はピンクのジンベイザメのお香に火をつけた。すると憶くんも、自分の水色のインベイザメのお香にも火をつけてと言ったので、それにも火をつけた。
そして、おやすみを言って、憶くんの部屋のドアを閉める。
子供たちが二階へ上がり、静けさが増した寝室で、私と亨玲はグラスを傾けた。ふと、デスクに置かれているノートに目が止まる。
そのノートがそこにあることは知っていた。けれど、あまり意識していなかった。手持ち無沙汰になったからか、ちょっと気になって手に取った。ノートの表紙には、燈ちゃんの字で『ひかりちゃん物語』と書いてある。
ノートを開く。
「燈ちゃんって偉いのね。昨日も今日も日記をつけてるわ」
亨玲の隣の、一人掛けソファに座り直す。ローテーブルの上には、空になったワイングラスが二つと、氷の入ったワインクーラーの中にボトルがある。ワインはまだ六分の一程残っている。亨玲がボトルを取り、私と亨玲のグラスに、ワインを注いだ。
「偉いね。見てみよっか」
亨玲と時呼は、『ひかりちゃん物語』のページをめくる。
時呼は、疲れた表情で、1人掛けソファに腰を下ろし、声を漏らす。
「憶…」
「…トキ。…少し、飲む?」
「…そうね。頂くわ」
二人共、心がかなり疲弊している。
夕食に、時呼の母、
「白ワインにしようか」
「任せるわ」
亨玲は、キッチンのセラーからシャルドネの白を選んだ。オークの香りと爽やかな酸の効いたワインで、ボディもあり常温ぐらいまで温度が上がっても美味しく飲めるタイプだ。
ワインボトルと二脚のワイングラス、ソムリエナイフを持って、寝室に戻る。
白ワインを開けて、トクトクとグラスに注ぐ。乾杯はしない。少しグラスを傾けて、視線を合わせるだけ。
「…美味しい」
初めのうちは、二人共、静かにワインを味わっていた。次第にポツリポツリと言葉が出てくる。昨日の事。今日の事。これまでの事。これからの事。憶の事。
「私、甘えがあったのね…。憶くん。ギフテッドだからって…」
「トキは、憶のことをしっかり気にかけている。十分愛情を注いでいるのが、伝わってくる。今回は僕が甘かった」
時呼は何かを言いかけて、口をつぐむ。二人は、同じペースでワインを傾けている。一杯目のグラスを終え、壁掛け時計に視線を移す。
「八時か。年越し蕎麦、どうする?」
「そろそろ準備するわ」
時呼が立ち上がり、上着を羽織る。
「手伝おう」
「ありがと。実はとっても楽しみにしてたのよ」
時呼は笑顔を作り、亨玲も微笑を浮かべた。
「僕も」
廊下は冷える。リビングはさらに冷えた。
がらんどう。そんな印象を受ける、何もないリビングダイニングキッチン。時呼は戸棚から蕎麦を取り出して、パッケージの原材料名に目を通す。
さて、年越し蕎麦の準備をしよ。
出汁つゆと具材を温めて、蕎麦を茹でるだけなので作るのは簡単だ。時呼は味見をして、燈の分だけ少し味を整えた。簡単過ぎて、手伝うと言った亨玲の仕事は、お箸と小丼を並べることぐらいしかなかった。
亨玲が廊下に出て、二階にいる子供たちに声を掛ける。
「燈ー、憶ー。お蕎麦を食べよう。寝室においで」
「はーい」と返ってきたのは、燈の声。
時呼と亨玲は蕎麦を寝室のローテーブルに置いて、白ワインとグラスをデスクに移す。子供たちとミカエラが二階から下りてきた。時呼は子供たちの隣に床に座り、亨玲は一人がけソファに腰を下ろした。
「カレーの匂い」
燈がお蕎麦に顔を近づけて、笑顔になる。
「九尾きつね蕎麦だよ。燈ちゃん。この前憶くんが買ってきてくれたお蕎麦だよ」
「きゅうびー?」
九尾と言えば燈にとってはぬいぐるみの九尾だ。そのぬいぐるみも、憶くんが燈に買ってきたお土産。
「燈ちゃんのはこっち。あまり辛くないようにした」
燈は「はーい。いただきます」と手を合わせた。憶くんも「頂きます」と手を合わせた。
普通のカレーとは風味の違うスパイスの効いた、サラサラとしたお出汁のカレー蕎麦。九尾きつね蕎麦のパッケージには、九種のスパイスと書いてあった。クミン、ゴマ、山椒、陳皮、ウコン、シナモン、胡椒、唐辛子、生姜で、椎茸と鰹の出汁で味を整えているグアニル酸とイノシン酸の旨みが詰まったお出汁。
「んー。美味しい」
けっこう大人な味だけど、憶くんも燈ちゃんも「美味しい」と、あっという間に食べ終わった。
「お香を焚こうか」
不意に亨玲が言って、憶くんが反応する。
「お香…。うん。お香、焚いて」
「あのお香ね。いいわね。それじゃ、私はお片付けしてくるね」
私は空いた丼を持ってキッチンの流しに置く。
…お香か。亨玲は憶くんと、どう接するのかな。
「さて、少しだけだ。さっさと終わらせよ」
洗い物を終わらせて寝室に戻ると、森の滝のような香りが漂って、子供たちは写真を見ていた。
「最近の写真をまた一緒に見てるんだ。これはベイシティに行った時の写真」
ローテーブルの上で、水族館の後で行ったお店、ヴァンヴォアだったかな、で亨玲が買った抹香が焚かれている。その隣には、燈ちゃんが水族館で買ってもらったピンクのジンベイザメの印香が置いてあった。
写真をスワイプしていく。大地大公園の写真。ナユ・七さんと撮った写真。塔ノ岳のお祭り、映画館に行った時の写真。実家での家族写真。憶くんが、撮った雪に覆われた御岳山。
「ふわぁ」と燈があくびをする。
「燈ちゃんもう寝る?」
「お兄ちゃんとねる」
それも、いいと思う。
「ちゃんと歯磨きするのよ」
「うん」
「憶くん。燈ちゃんお願いね」
「うん」
「ねるとき、これ、やって」
燈は自分のイルカのお香を指して言った。寝るときにイルカのお香を焚いてという意味だ。
「いいの?燈ちゃん?」
燈ちゃんはイルカのお香を大切にしていた。焚いたら無くなるということも、わかっている。それでも燈ちゃんは、「うん」と眠そうに頷いた。
歯磨きをすませた子供たちと二階に上がる。ミカエラも一緒に着いてきた。
憶くんの部屋で、私はピンクのジンベイザメのお香に火をつけた。すると憶くんも、自分の水色のインベイザメのお香にも火をつけてと言ったので、それにも火をつけた。
そして、おやすみを言って、憶くんの部屋のドアを閉める。
子供たちが二階へ上がり、静けさが増した寝室で、私と亨玲はグラスを傾けた。ふと、デスクに置かれているノートに目が止まる。
そのノートがそこにあることは知っていた。けれど、あまり意識していなかった。手持ち無沙汰になったからか、ちょっと気になって手に取った。ノートの表紙には、燈ちゃんの字で『ひかりちゃん物語』と書いてある。
ノートを開く。
「燈ちゃんって偉いのね。昨日も今日も日記をつけてるわ」
亨玲の隣の、一人掛けソファに座り直す。ローテーブルの上には、空になったワイングラスが二つと、氷の入ったワインクーラーの中にボトルがある。ワインはまだ六分の一程残っている。亨玲がボトルを取り、私と亨玲のグラスに、ワインを注いだ。
「偉いね。見てみよっか」
亨玲と時呼は、『ひかりちゃん物語』のページをめくる。