第23話 山の気(12月26日 その時まで4日)

文字数 2,585文字

 「あ、お父さん見て。あれって、カモシカ?」
 (こころ)が動物を見つけて指差す。
 「うん。あれはカモシカだ」
 憶は静かにモバイルを構えて、じっと座っているカモシカの写真を撮った。
 「やった。撮れた」
 撮れた写真を見せてくれた。
 「すごいな。憶」
 憶は視線をカモシカに戻し、じっと見る。カモシカもこちらを振り向いた。憶もカモシカも動かない。
 …気がつながった?
 亨玲(あきら)は、憶の気とカモシカが纏う自然の気に、意識を集中した。
 憶とカモシカの気がつながって、共鳴しているな。…憶の気が強くなっている。
 憶が振り向いた。
 「目があったよ。カモシカは全然逃げないんだね」
 「あまり、警戒してなさそうだね。憶の気持ちが通じたんじゃないか?」
 「さっきのムササビと友達だったりして。カモシカとムササビって、話通じるのかな?」
 「さあ、どうだろうね?自然動物でもお互いの感情、友好や敵対、無関心ぐらい単純な気持ちなら本能的に通じるだろう。細かい内容の話は、言語体系ができるまで無理だろうな。まあ、もしかしたら人間にはわからない、テレパシーのようなもので話しているかもしれないけどね」
 「言語体系って?」
 「日本語や英語みたいに、なになに語っていう言語のこと」
 「ふうん…。じゃあ、言語っていつできたの?」
 たしか、ホモサピエンスとネアンデルタール人が争っていた頃、という説は聞いたことがあるが。
 「原始時代らしいよ?」
 「原始時代…。お父さんは、自然の動物にも名前ってあると思う?」
 「ああ…。何かしら、個体を識別するための、サインのようなものはあるかもしれないね。それを、名前と呼べるかは別だけど」
 「あっ」
 カモシカがクルッと首を回して別の方を向いた。
 「…何か見てる。…お父さん見える?」
 「…いや、わかたないな」
 バサっと梢が揺れて、憶は「ムササビだ」と小声で言ったが、亨玲には梢が揺れただけにしか見えなかった。
 カモシカはまた首を回し、悠然ともぼんやりともとれるような雰囲気で佇む。憶は、またムササビが出てくるのを待っているのか、じっとカモシカの方を見ている。
 昨日の夕方に実家から首都に戻ってから、亨玲は、首都の気が二日前と比べて大きく変わっていることを感じ取ったいた。強い負の気が首都全体を覆っている感じだ。しかし、丘陵区の北西に位置する山岳区の方では正の気も強く、正と負の拮抗した緊張の高まりも感じられた。
 昨日から台風の予報が報道されている。気と天候に関係があるのかもしれない。
 憶と燈の気も、実家に帰ってから大きくゆらぐようになってきた。とくに憶の気は、今朝になって御岳山の方から感じる気と共鳴していた。
 亨玲は、憶を御岳山に連れてきた。御岳山の神苑の森は、やはり正の気に溢れていた。憶は、森の気を取り込んでより強い気を纏うようになり、神代欅の前に着くとさらにその強さを増した。
 亨玲が持ってきたヘリオドール、アパタイト、イチョウの化石も、神代欅周辺の気と強く共鳴した。亨玲は、首都全体を覆う負の気に対抗するために、それらの石を神代槻に供えたのだった。
 「…そろそろ行くか?」
 じっとカモシカを見つめている憶に声をかける。
 「うん」
 神苑の森の歩道を、憶と歩く。周りの樹々には雪が積もり、足元の枯草にはところどころ氷花もできている。
 「名前あるといいなあ。カモシカとムササビの」
 「憶なら、なんて名前付ける?」
 「んー…。僕なら、カモシカは、え〜っと…。ケリュネ、いやケリュでいいや、ケリュ。で、ムササビは…、ん〜、何にしよう?ムササビって、他にどんな動物に近い?」
 「ムササビは、リス科の動物だったかな?ちなみにカモシカは鹿じゃなくて、牛の仲間」
 「え?ウソ?牛〜?…でも、まあいいや、ケリュで。で、ムササビがリスなら、名前はラタにしよ」
 「神話からか?」
 「うん。鹿のケリュネイアとリスのラタトスクで、ケリュとラタ」
 「ふふ」
 憶は楽しそうに名前を考える。ミカエラとフェンリルの名付けの時もそうだった。
 「さて、町に戻ったらお昼にしようか」
 「うん」
 「何食べたい?」
 「きつね蕎麦」
 「即答だな。なら蕎麦にしよう」
 蕎麦屋はビジターセンターで貰ったリーフレットに載っていた。この辺りは蕎麦が有名らしい。リーフレットに目を通した感じだと、この辺りに蕎麦屋が多いのは、この地に伝わる九尾の伝承とつながりがあるようだった。
 …九尾。…だから、きつね蕎麦か。
 町まで戻り、雰囲気の良さそうな蕎麦屋に入る。メニューを見ると『(きつね)蕎麦』の他にも、『狐せいろ』、『狐おろし』、『狐天』があり、変わったところでは『九尾(きゅうび)蕎麦』と『白狐(しろきつね)蕎麦』というメニューもあった。
 聞いたことのない蕎麦もあるが、

蕎麦と漢字で表記しているのは珍しいな。
 「僕は九尾蕎麦にする」
 憶は見慣れないメニューに惹かれたようだ。
 「狐蕎麦はやめたのか」
 「九尾って尻尾が九本はある狐のことでしょ?九尾蕎麦にする」
 「興味は惹かれるな。どんな蕎麦か聞く?」
 「ううん」
 「いいのか?」
 「うん」
 亨玲は微笑を浮かべ、店員を呼んで『九尾蕎麦』と、自分の分の『狐蕎麦』を頼む。
 『狐蕎麦』は白蕎麦で、出汁は山の味らしい椎茸の風味があり、透明感のあるお出汁だった。お揚げにもしっかり味が染み込んでいる。
 『九尾蕎麦』は、いわゆるカレーきつね蕎麦だった。乗っているお揚げの色が『狐蕎麦』のお揚げよりも薄い。カレー出汁は、坦々麺のスープのような白っぽい出汁で、とろみのないすっきりしたタイプだ。なぜカレーきつね蕎麦を『九尾蕎麦』と呼ぶのか、謎ではある。
 「あ。美味しい」
 「良かったな」
 「お父さん、九尾の伝承って知ってた?」
 「聞いたことはあるけど、詳しくは忘れたな」
 食事をしながら憶と話をしていると、隣席の会話が耳に入ってきた。
 「九尾が来たっていう話、知ってるか?」
 「もちろん聞いたよー。嵐が来るってお告げに来たんでしょ」
 「おう、それ。その後で本当に天気予報で台風の予報が出たからな。まあ予報の進路はここよりも都心に向かってるみたいだが」
 「神主さんが消防とちゃんと連携とってるみたいだよ」
 憶にも隣の会話が聞こえたようで「どういうこと?」というような眼差しを向けてくる。
 嵐が来ると告げに来た狐…。少し気になるな。
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