第58話 雫(12月30日 あの時から4時間)

文字数 2,782文字

 亨玲と燈ちゃんとが帰って、今は眠ったままの憶くんと二人。帰り際に、亨玲が紙袋を渡してくれた。中は、私の身の回りの物だ。着替と上着、タオルの他に新しい歯ブラシと歯磨き粉、ボディソープにシャンプー、トリートメント、そして保湿クリーム。ブラジャーとパンツまで入っていたので、亨玲が私のクローゼットから下着を出している姿を想像して吹き出した。
 「憶くん、お父さんにブラジャーとパンツまで持って来て貰っちゃった」
 憶くんは簡易脳波計を着けているので、頭を撫でる代わりに指先で頬をちょんちょんと撫でる。
 袋にはペットボトルのお茶と焼き菓子も入っていて、喉が渇いていたことに気が付いた。水分を補給してお菓子を食べ、実家に連絡する。
 電話をかけるとすぐにお母さんが出た。家の事、憶くんの事を話して通話を終える。通話中に亨玲から着信があったけど、今はすぐ折り返す気力が湧かない。
 私は憶の手を取った。憶の右の手を、自分の両の掌の上に乗せる。
 お母さんと話して、いろんな気持ちが渦巻いてきた。
 …ポタ。
 涙が一滴、憶くんの右手の甲に落ちた。
 憶くんの手を戻し、頭と枕の位置を負担のないようにそっと直す。憶の首が少し赤く腫れていたので、濡れタオルを当てて冷やしてやった。
 手足に打ち身があるのは聞いたけど、首も打っちゃったのかな。体のあちこちに軽いアザがあり、炎症を起こしてる。タオルを当てたまま、お母さんとの話を振り返った。そして、お母さんには話さなかったあの時の事も振り返る。
 憶くんが意識を失う直前に、亨玲は家を飛び出した。そして私は、亨玲が叫ぶ声を聞いた。亨玲が何て言ったのか聞き取れず、立ち上がり玄関の方へ移動しようとした時だった。窓ガラスが割れる大きな音がして子供たちの方を振り返ると、憶くんが倒れていた。
 どうしても考えてしまう。
 あの時、亨玲が外に出て行かなければ。
 あの時、私が注意を逸らさなければ。
 何度も何度も、その思いが頭を巡る。
 でも、同時にわかってもいる。あの時、亨玲が外に出た理由を。そう、わかっている。
 気持ちを落ち着かせて亨玲に折り返すと、今度は亨玲の方が通話中だったのでメッセージを送る。
 「…シャワー浴びよ」
 ずぶ濡れで救急車に乗り込んで、そのままだ。体がベトベト。病室のシャワーを借りて、熱いお湯で体を流す。ゆっくりと体と髪を洗った。
 亨玲が持って来てくれた服に着替えて、髪を乾かしたところでモバイルが鳴った。亨玲からだ。
 「はい。…うん。燈ちゃんの様子はどう?」
 燈ちゃんは、家の戻ってからおとなしく寝ているようで安心した。
 「メッセージにも書いたけど、さっき実家に電話して、お母さん、明日お見舞いに来るって。お父さんはお婆ちゃんを見ないといけないから来れないけど。…はい。…え?そうなの?」
 私は数日前の事を思い返した。
 あれは、子供たちと塔ノ岳のお祭りに行った日だった。子供達はお祭りで食べたから家に帰って夜ご飯ほとんど食べなくて、私と亨玲はフグ鍋を食べながら話した時だ。
 月初めに、亨玲にお師匠さんから連絡があった。首都で何か悪いことが起こるというような話だったはず。
 実際一二月中頃から、亨玲は負の気を感じるようになってきていた。子供たちとアンファミーユに行った日だったかな。占いの相談者にも旅行を勧めることが多くなったと言っていた。
 私たちも実家にいた方がいいのか聞いたのだけど、亨玲はその必要なないと応えたと思う。
 …なのに。
 「…亨玲が、前言ってたお師匠さんのお告げって、憶くんの事と関係があるの?…そう。それじゃあ」
 やっぱり私たちも、と言いかけて口を閉じた。
 「…ううん。なんでもない」
 亨玲の気持ちはわかっている。
 「え?お師匠さんって、そんなことできるの?…うん、それじゃあ明日ね。亨玲まで体調崩さないでよ。…あ、言い忘れてた。荷物ありがと、下着まで入ってたから笑っちゃった。…はい、それじゃあ」
 電話を切る。その後また亨玲からメッセージがあって、五時前に担当の医師が憶くんを診に来た。
 「こんにちは。天ノ宮さん。シャワー浴びて着替えたんですね。さっぱりしましたか」
 「先生。お世話になります。主人が着替えを持ってきてくれたので、はい、さっぱりしました」
 憶くんは脈拍、血圧、体温、脳波は全て正常。瞳孔反応も正常だけど、ピンで腕をついた時の痛みに対しては、ほとんど反応を示さない。微かに眉根を寄せるぐらい。
 「う〜ん。目を覚まさないですねえ。憶くんはどこも悪いところが見つからないので、本当に眠っているような状態です。モニターしているのでこのまま様子を見守りましょう」
 「はい」
 「天ノ宮さんもご無理をなさらずに」
 「快適な部屋なので、大丈夫です」
 医師が退室した後、買い物に出た。廊下ですれ違う看護師さんたちが愛想よく、気持ちが少し穏やかになる。エレベーターで一階に降りて外に出た。夕暮れに吹くそよ風の優しさが、信じられない。近くのコンビニでおにぎりとサラダ、お水も買って病院に戻る。憶くんの隣で簡単な食事を摂った。
 それからテレビを見たり、モバイルを見たりしながら心と体を休めた。歯を磨いて、簡易ベッドを用意して横になったのが九時を回った頃だった。
 「憶くん。憶くんは、お父さんのお師匠さんにも守って貰ってるんだね。…頑張ろうね。…おやすみ」
 電気を消して、目を閉じた…。
 …。
 …ふと、何か気配を感じて目を覚ました。手探りでモバイルを探し、時間を見ると午後の十一時十八分だ。
 誰かが近くにいる気配を感じる。
 「憶くん?」
 モバイルの明かりを頼りに起き上がり、読書灯をつける。室内には、もちろん誰もいない。
 「憶くん?起きたの?」
 小さな声で呼んでみた。でも、憶くんは寝息を立てて眠ったままだ。
 それなのに、憶くんが呼んでいるような気がする。憶くんがすぐそばで動いているような気配を感じる。
 何?…なんなの?
 「憶くん?」
 私は、何か嫌な予感を感じて、さっきよりも大きめの声で眠っている憶くんに呼びかけた。
 憶くんは眠っている。息もちゃんとしている。でも目を覚ましそうな感じでもない。
「憶くん、大丈夫だからね…お母さんには傍にいるよ」
ガタガタと窓が鳴った。カーテンを開ける。窓はちゃんと閉まっていて、外は暗くてほとんど見えない。自分の顔がうっすらと反射して映っている。
 「…憶くんは、絶対元気になって戻ってくる。だから、がんばるのよ」
 自分に言った。
(お母さん…。うん、頑張るよ)
 それなのに、憶くんが返事してくれたような気がして、心が和んだ。窓ガラスに映る自分の顔が、微笑んでいる。
 ゆっくりカーテンを閉めて、しばらく憶くんの様子を見ていた。
 突然モバイルが鳴ってビクッと体が震えた。
 もう、誰なの?こんな時間に?
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