第20話 氷の森

文字数 2,187文字

 (こころ)は、史弥がいなくなった心細さを引きずりながら、氷の森の中を彷徨っていた。どこに行けばいいのかわからないので、歩きやすそうな獣道に沿って森の奥へ入って行く。
 地面に、石板のような物が埋まっていた。模様のような読めない文字で、何か記されている。進んでいくと、また同じような石板があった。
 ここは、『深淵の森』?
 『深淵の森』は、『時の書庫』で主人公のセアと聖歌隊のリダが、暗闇の回廊を抜けたあと辿り着いた場所だ。似たような石板が地面に所々あったから、そう思った。
 だけど『深淵の森』は、凍っていない。『深淵の森』は、深いジャングルの樹海のような場所だった。ここは、氷の森だからかもしれないけど、ずっと明るい。この森の木々は、葉も枝も幹も透き通っていて、光を通している。
 「それにしても」と、視線を巡らす。
 「凍ってるのに、全然寒くない。氷じゃなくて、ガラスなのかな。中まで透明で。地面に積もってるのは雪みたいに白いけど」
 ザクザクと冷たくない雪の上を歩く自分の足音が、やけに大きく聞こえる。
 この森はすごく静かだ。
 木末の音がない。虫の気配も動物の気配も、生命の気配が感じられない。
 僕は空を見上げた。薄い雲が広がる澄んだ空だ。
 「…きれい」
 …だけど。
 胸にチクリとした痛みを感じた。次の瞬間。
 「えっ?」
 足が止まった。
 正面に、氷の像があった。その像は、突然現れたように、この瞬間までまったく気づかなかった。
 氷の像は、憶をかたどっているように見えた。
 「うわっ」と、遅れて驚きの声をあげて一歩後ずさる。脳裏に、『暗闇の回廊』で出てきた鏡の自分がよぎった。
 「えっ?」
 氷像がない。
 「あれ?」
 そこには氷の像などなく、氷の森の景色が続いている。
 「あれ?今のは?」
 たしかに自分の氷の像があったように見えたけど、気のせいだったのか。
 瞬きをして目を擦る。周囲の森を注意して探ってみた。凍っている木の幹に自分の姿が反射しているのを見て、さっきのは錯覚だったのかもしれない、という気もしてきた。警戒しながら森の奥へ進んでいく。
 「あ。何かある」
 今度は前方に、氷の塊を見つけた。獣道の真ん中にドデンとある。
 駆け寄って見ると、それは地面に座り込んだカモシカの氷の像だった。毛並みまで細かな部分も氷で出来ていてとてもリアルに感じた。まるで生きていたカモシカが氷になってしまったかのように。
 何だか自分自身も氷になってしまいそうな気がしてきて、ゾクリとした。
 「僕もそうなる…」
 突然声が聞こえてビクッとする。
 反射的に声の方を向くと、カモシカの氷像の後ろに、自分の姿をした氷像が立っていた。
 「僕もそうなる」とまた声がしたとき、氷像の唇が滑らかに動いていた。
 さっきの氷の像!?
 自分の姿をした氷像と『暗闇の回廊』の鏡に映った自分が重なる。
 「お前は、何なんだ?」
 身構えようと体を動かすと、ぐらりとバランスを崩してよろめいた。足が動かない。見ると、雪に埋もれた足の周りが凍りついていて、固まっていた。
 「ぐっ…。足が、動かせない」
 なんなんだ?コイツは?
 「…僕は僕」と、氷像が言う。
 僕は僕?また「僕は僕」だ。訳がわからない。
 足元の氷がビキビキと盛り上がってきている。
 ビリッと体に電気がは走ったような感覚があった。
 「何で、こんなことをするんだ?」
 氷像は少し俯いて、何も言わずにただ首を振った。足元の氷はゆっくりとせり上がり、膝の辺りにまで氷に覆われる。力が、抜けていく。
 「…やめろ」 
 氷像は俯いていた顔を上げ「僕は、何もしていない」と言った。
 「何もしていない?じゃあこの氷は?」
 「違う」と、氷像は首を振る。
 全然訳がわからない。僕は僕とか、何もしていないとか、違うとか、何なんだ?
 体の力が抜けていく。憶はもう腰の辺りまで氷漬けになっていた。振り払おうともがくが、どうにもならない。力が、入らない。心地よい安息感が、広がっていく。
 氷像が「もう寝よう」と言った。
 ほんとに、眠ってしまいそうになったと同時に、ビリッと再び体に電気が走るような衝撃を受けた。
 (憶くん!)
 誰かが僕を呼んだ気がした。
 ドクン。
 心臓が大きく鳴る。
 (憶くん!目を覚まして!)
 頭の中で、今度ははっきりとした確かな声が響いて、心地よい安息感に抗う気持ちが芽生えてくる。
 憶には何が起こっているのかわからない。しかし、抵抗の意思だけははっきりと感じていた。「もう、寝よう」と囁く氷像に、憶は目に力を入れて拒否の意志をぶつける。
 「嫌だ!」
 そう叫んだ次の瞬間には、氷像は忽然と姿を消していた。
 自分の体を覆っていた氷も、消えている。
 …ドク…ドク…ドク。
 鼓動が、強くゆっくりと鳴っている。はぁはぁと短い呼吸を整えて、憶は体を軽く動かしてみた。違和感がないか確かめる。
 …体は、なんともない。大丈夫そう。
 辺りを見まわす。氷の森に、雪の積もった地面。そして、獣道にドデンとあるカモシカの氷像。
 「…なんだったんだ?今の?」
 脈がだんだんと平常に戻って、落ち着いてきたちょうどそのとき、また驚くようなことが起こった。目の前のカモシカの氷像が、すくっと起き上がったのだ。
 動くカモシカの氷像と僕の目が合って、静寂が流れる。カモシカの目がパチクリした。
 「あら。いたわ」
 「…は?」
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