第51話 vs黒い靄の鰐

文字数 2,581文字

 僕は鰐に向かって泳ぎ出す。
 この時僕は自覚していなかった。
 水中で普通に話せていることに…。
 水中で、息ができていることに…。
 鰐と距離が縮まる。黒い靄の鰐が大きな口を開いた。回避。追ってくる。
 もっと早く、もっと早く。
 水を蹴る。スピードが上がる。体を捻り、水をかく。旋回する。鰐の後ろに回り込んで、距離を保ち、誘う。
 スピードはこっちが上だ。ミカが安全な所まで行ったら僕も逃げよう。
 ミカのいる方を見上げると、なんとミカは逃げずにその場にいた。
 (ミカ!逃げてよ!)
 (ココロ置いて逃げるわけないでしょ!)
 (スピードはこっちが上だから、ミカの後で僕も逃げるよ!)
 僕は、鰐の猛追を交わしながらミカに言い聞かせる。
 (ヤダ!逃げたくない。逃げたらダメ!)
 ちょ、逃げるなって、何言ってるのミカ?戦うの?鰐と?
 (ココロ!そいつを岸に誘き寄せて!そしたら私がぶっ倒してやるから!)
 (倒す?そんなの、ミカが危ないよ!)
 (いいから岸に誘き寄せて!ここじゃ不利なの!私逃げないからね!)
 うわぁ。そこまで言うなら。
 (わかった!)
 ミカは(こっちよ)と、岸に向かって泳ぎ出した。
 ミカがどうするつもりか知らないけど、とにかくミカの向かう岸の方へ鰐を誘導する。スピードはこっちが上だけど、余裕はなかった。ミカが岸に辿り着くまで、鰐の注意を自分に向けさせないといけない。
 ミカが水面に出たのを確認して、僕も少しずつ浮上する。
 黒い靄の鰐と対峙して、わかったことがある。まず、鰐は全身真っ黒モヤモヤで、この澄んだはっきり見える『赤の川』の水中でも、鰐のシルエットしか判別できない。鰐の目も、鱗も、爪も、牙も、口の中も、真っ黒だ。
 さらに、黒い靄の鰐は大きさが変化する。こっちが逃げる時は大きくなり、向かい合うと小さくなる。大きい時は、全長が僕の身長の倍ぐらいで、小さい時は僕の身長と同じぐらい。
 ザバッ。水面に出た。ミカはもうすぐ岸に着きそうだ。鰐も浮上して追って来た。鰐の姿は、水面に出ても輪郭がモヤモヤとぼやけている。まるで実体がない影みたいだ。
 「ココロ!こっち!」
 「ほんとに大丈夫!?ミカ!?」
 「もちろんよ!ほら!」
 岸に上がったミカは、青虎に変化(へんげ)した。
 「お、おお!すごい!」
 僕も急いで岸に上がる。ミカは黒い靄の鰐が岸に上がると同時に、その背を爪で引き裂いた。鰐の背から、黒い靄が噴き出ていく。鰐は体を翻し、ミカに噛みつこうした。それをミカは躱し、鰐の頭部を引き裂いた。鰐は、ミカの攻撃が当たる度に、黒い靄が噴き出て小さくなっていく。
 ミカが優勢。そう思った矢先。鰐の尻尾の薙ぎ払いがミカの胴体に当たった。ミカはすぐさま反撃し、鰐の尻尾を引き裂いたが、鰐は同時にミカの後ろ足に噛みつていた。
 「ミカ!」
 ミカの顔が歪んで、ミカが消えた。
 ガチンと鰐の口が閉じる。
 「ミカ!?」
 ミカが、消えた?
 「ガオー!」
 え?
 ミカが、鰐の背に噛み噛みついていた。鰐から黒い靄が噴き出ていく。ミカは噛みついたまま、爪で鰐を引き裂いて、黒い靄の鰐は霧散して消えた。
 「よっと。あ〜、イタタ〜」と、ミカは女の子の姿に戻ってお尻をさする。
 「ミカ。大丈夫?何したの?」
 「えへへ。太腿とお尻噛まれちゃった」
 てへぺろっとしてるけど、笑い事じゃない。
 「ちょっと見せて」
 「ほい」
 ミカの左太腿の後側と外側に傷があり、血が滲み出ている。僕は無患子の羽根を取り出して、治れと強く念じた。傷口がみるみると塞がっていく。
 「にゃ〜お。ココロ、治せるんだね。ありがと」
 「無茶しないでよミカ。逃げればよかったじゃん」
 「あれは逃げてはダメなやつ。私の直感よ」
 ミカの直感って…。まあ実際、あの黒い靄の鰐は何だったのか。大きさも変わったし、僕の姿をした毒とは違ったけど…。
 と、そこまで考えてハッとした。
 もしかして、あの鰐が邪気?
 「おーい」
 声がして振り向くと、三頭のカワウソと一羽のエトピリカがこっちの様子を伺っていた。あられちゃんと、しぐれとみぞれ、それにちゅりっぷだ。
 「ココロにミカよ〜。あんなのが出て来て、大変だったのう。儂も怖かったわい」
 「ちゅりっぷ、あれは一体何だったの?」
 「あんなもん、儂が知るわけないじゃろうが。まあ、何にせよココロ、あんなのを水中で相手にできたのだ。もう気付いておろう?泳げるようになったことを」
 そうちゅりっぷに言われた時だった。僕が自覚したのは。
 泳げるようになった、どころじゃない。早く、と思えば早く泳げた。水中でもミカの声が聞こえ、自分でも声を出した。話すことができた。水中で、一度も苦しくならなかった。たぶん、水中で、息していた。
 「…うん。そうみたい」
 「これで『赤の川』の頂の下流まで泳いで行けるのう」
 確かに。でも、どうして自分にこんなことが…。
 「どうした?難しい顔をしよって?」
 「ううん。何でもない。もう泳いで行ける」
 「もう行くの〜?」
 あられちゃんが寄ってきた。
 「うん。僕たちは先を急いでるんだ」
 「ココロは泳ぐのすっごく早かったし、ミカはすっごく強かったよ」
 「にゃはは。楽勝よ」
 「それじゃあ行くね。しぐれもありがとう」
 「うん。頑張ってね。ココロ。ミカ」
 僕とミカは、ちゅりっぷとあられちゃんたちに別れを言って『赤の川』を泳いで進んだ。
 (ミカ。気になってたんだけど、鰐に噛まれた時ミカが消えたように見えたけど、どうやったの?)
 (ん?子猫に変化(へんげ)して逃れたよ)
 (子猫に?)
 (うん)
 そうだったんだ。ちょっと子猫になってもらおうかとも思ったけど、今は急いでいるから思い直した。
 『赤の川』はだんだんと大きくなっていて、両側の岸は遠のいていき、川底も深くなっている。
 「そうだ。ミカに泳ぎ方教えてあげる」
 「教えて教えて。私もココロみたいに早く泳ぎたい」
 僕が教えると、ミカはすぐ僕と同じフォームをすぐに覚えて、スピードも上がった。
 途中アザラシの群れとすれ違い、二頭の鯨が前方を横切っていった。ミカが鰐よりも、鯨の方を怖がったのがちょっと不思議で可笑しかった。
 (見てミカ。あれはイルカの群れだ)
 (ほおぉ〜)
 群れに近付くと、一頭のイルカがこっちに向かって来た。
 (助けて!お願い。助けてあげて!)
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