第56話 約束の場所(12月21日 その時まで9日)
文字数 2,375文字
風が吹いて、琥子ちゃんの金髪がふわっと靡く。髪を直す仕草でポシェットが揺れて、キーホルダーの琥珀に日光が差し込んだ。
その風に吹かれたのか、空からひらりと黒い物が飛んできた。
何かしら?マフラー?違うかな。布製の何かのようだけど…。
「すいませーん」
上からよく通る声が聞こえてきて見上げると、ガラスハウスのベランダから女性が身を乗り出していた。
飾岡さんが落ちてきた物を拾う。
「貴女のですか?」
「はい、すいません。すぐ行きますー」と、女性はサッと身を引っ込めて姿を消した。
「これレナ・バタフライです」
レナ・バタフライはなかなかのブランド物だ。デザインが変わってる。
「コートかしら?」
「ケープですね、これは」
ケープね。私には着こなせないアイテムだ。
「すいませんでしたー」と、まだ幼さが残る綺麗な女性がガラスハウスから出てきた。
「自撮りしてたら風で飛ばされました」
飾岡さんがびっくりした表情で一瞬固まって「えっ!?」と声を上げた。一体どうしたのか?
「ナユ・七 さん?」
「はい。ナユ・七です。拾ってくださってありがとうございます。すいませんでした」
「あ、いえ。どうぞ。もし大丈夫でしたら、子供と一緒に写真お願いできますか?」
「もちろんいいですよ」
私は知らないけど、やり取りから察するにナユナさんは有名人のようだ。にっこり笑った琥子ちゃんと、なぜか得意げな顔の燈ちゃんも一緒にナユナさんと写真を撮る そのあとナユナさんは愛想よく挨拶をして、子供たちにも「バイバーイ」と手を振ってガラスハウスに戻って行った。私たちはというと、琥子ちゃんの約束の場所の日本庭園に向かうところだ。
「ナユナさんて、有名な人?」
「ミュージシャンです。テレビにはあまり出ないので、そんなに有名ではないですけど」
「ファンなんですか?」
「えっと、僕がというよりは、妻が好きで、それで僕も知りました」
妻が好きで…。今度は過去形を使わない…。
「あの、奥さんは?」
「今は海外にいます」
「お仕事ですか?」
「いえ、話すとちょっと長くなるんですけど…」
飾岡さんはそう前置きしたけど「もし良ければ話してみてください」とお願いすると、奥さんについて話し出した。
奥さんの名前はカミィといい、東欧人だった。飾岡さんとカミィさんは五年前に結婚して、琥子ちゃんを産んだ。カミィさんは琥子ちゃんを産む前に配偶者ビザを取っていて、去年までは配偶者ビザを更新しながら一緒に日本に住んでいた。
ところが去年の十一月にカミィさんの母国でインフルエンザがはやり、カミィさんのお母さんが感染して入院した。カミィさんだけ三週間の予定で母国に帰ったのだが、十二月に入ってカミィさんの母国が隣国から攻撃を受け、戦争が起こった。航空路が機能しなくなり、カミィさんは日本に戻れなくなってしまった。
幸い、カミィさん家族が住む地域は戦地から離れていた。年が明ける頃にカミィさんのお母さんは回復し退院できたのだが、今度はカミィさんがインフルエンザに感染した。
その頃から、だんだんと琥子ちゃんの声が出なくなってきた。
カミィさんの症状はそれ程ひどくはなく、二週間ほどで治ったのだが、心をやられてしまった。鬱になってしまい、日本に戻る意思がなくなってしまったそうだ。
飾岡さんも、戦争が起こっているで会いに行くこともできない。今年の七月には、カミィさんの配偶者ビザの期限も過ぎてしまった。飾岡さんは更新しようと申請はしたけれど、カミィさん本人の日本滞在の意思がないということで更新できなかったらしい。今は時々、オンラインで少し話す程度だそうだ。
私には、カミィさんの心情を想像することができなかった。私も昔鬱になったことがある。鬱は、周りが思うよりも本人にとってはずっと深刻な病だ。
「ママー。琥子ちゃんがあそこだってー」
自分の想像を遥かに超える話を聞いている内に、私たちは日本庭園のエリアに着いた。庭園の奥の方に大きな岩が見える。燈ちゃんが指差しているのはあの岩だ。
「日本庭園もいいわね」
庭園の真ん中には石橋の架かった池があり、小さな滝から水が流れている。池のほとりに東家 があって、私と飾岡さんはそこに腰掛けた。遠くから、からくり時計の正午を告げる音楽が流れてくる。
飾岡さんの話を聞いて、どうして琥子ちゃんが失声症になったのかわかった。
琥子ちゃんは、本当に悲しくて、寂しくて、不安で。琥子ちゃんから見たこの世界は、真っ暗だったことだろう…。そして、それ以上に…。
私は暗い事から考えを逸らすように、仲良く遊んでいる琥子ちゃんと燈ちゃんに視線を向けた。
救いなのは、今、琥子ちゃんが明るく元気で楽しそうなことね。それはきっと、飾岡さんが愛情をたっぷり注いで琥子ちゃんを育てたからだ。早く琥子ちゃんが…。
登りきった冬の太陽が、冷たい風が吹いてふわり舞った金色の髪をキラキラと照らした。
…ママと会えるといいな。
「ママー。おっきな岩とお話できたよー」
燈が琥子ちゃんと手を繋いで戻ってきた。
「まあ、どんなお話をしたのかしら」
「ココちゃんが、はやくココちゃんのママに会えるようにーってお話」
「ヒィー、ヒィー」
「まあ」
ちょうど飾岡さんから聞いてた話と同じだわ。
「はやくママとまたここに来れるといいね、ココちゃん」
「ヒィー」
「それとね、明日のお話もしたよ」
「明日のこと?」
「うん。明日はお祭りがあって、ココちゃんも行くんだって」
「塔ノ岳 のお祭りか」
飾岡さんがそのお祭りについて説明してくれた。
「ひかりも行きたい」
「帰ったらお父さんとお兄ちゃんに相談してみましょ」
「うん!」
にっこり笑う燈ちゃんと琥子ちゃんの髪飾りに日光が差し込んで、琥珀が綺麗に輝いた。
その風に吹かれたのか、空からひらりと黒い物が飛んできた。
何かしら?マフラー?違うかな。布製の何かのようだけど…。
「すいませーん」
上からよく通る声が聞こえてきて見上げると、ガラスハウスのベランダから女性が身を乗り出していた。
飾岡さんが落ちてきた物を拾う。
「貴女のですか?」
「はい、すいません。すぐ行きますー」と、女性はサッと身を引っ込めて姿を消した。
「これレナ・バタフライです」
レナ・バタフライはなかなかのブランド物だ。デザインが変わってる。
「コートかしら?」
「ケープですね、これは」
ケープね。私には着こなせないアイテムだ。
「すいませんでしたー」と、まだ幼さが残る綺麗な女性がガラスハウスから出てきた。
「自撮りしてたら風で飛ばされました」
飾岡さんがびっくりした表情で一瞬固まって「えっ!?」と声を上げた。一体どうしたのか?
「ナユ・
「はい。ナユ・七です。拾ってくださってありがとうございます。すいませんでした」
「あ、いえ。どうぞ。もし大丈夫でしたら、子供と一緒に写真お願いできますか?」
「もちろんいいですよ」
私は知らないけど、やり取りから察するにナユナさんは有名人のようだ。にっこり笑った琥子ちゃんと、なぜか得意げな顔の燈ちゃんも一緒にナユナさんと写真を撮る そのあとナユナさんは愛想よく挨拶をして、子供たちにも「バイバーイ」と手を振ってガラスハウスに戻って行った。私たちはというと、琥子ちゃんの約束の場所の日本庭園に向かうところだ。
「ナユナさんて、有名な人?」
「ミュージシャンです。テレビにはあまり出ないので、そんなに有名ではないですけど」
「ファンなんですか?」
「えっと、僕がというよりは、妻が好きで、それで僕も知りました」
妻が好きで…。今度は過去形を使わない…。
「あの、奥さんは?」
「今は海外にいます」
「お仕事ですか?」
「いえ、話すとちょっと長くなるんですけど…」
飾岡さんはそう前置きしたけど「もし良ければ話してみてください」とお願いすると、奥さんについて話し出した。
奥さんの名前はカミィといい、東欧人だった。飾岡さんとカミィさんは五年前に結婚して、琥子ちゃんを産んだ。カミィさんは琥子ちゃんを産む前に配偶者ビザを取っていて、去年までは配偶者ビザを更新しながら一緒に日本に住んでいた。
ところが去年の十一月にカミィさんの母国でインフルエンザがはやり、カミィさんのお母さんが感染して入院した。カミィさんだけ三週間の予定で母国に帰ったのだが、十二月に入ってカミィさんの母国が隣国から攻撃を受け、戦争が起こった。航空路が機能しなくなり、カミィさんは日本に戻れなくなってしまった。
幸い、カミィさん家族が住む地域は戦地から離れていた。年が明ける頃にカミィさんのお母さんは回復し退院できたのだが、今度はカミィさんがインフルエンザに感染した。
その頃から、だんだんと琥子ちゃんの声が出なくなってきた。
カミィさんの症状はそれ程ひどくはなく、二週間ほどで治ったのだが、心をやられてしまった。鬱になってしまい、日本に戻る意思がなくなってしまったそうだ。
飾岡さんも、戦争が起こっているで会いに行くこともできない。今年の七月には、カミィさんの配偶者ビザの期限も過ぎてしまった。飾岡さんは更新しようと申請はしたけれど、カミィさん本人の日本滞在の意思がないということで更新できなかったらしい。今は時々、オンラインで少し話す程度だそうだ。
私には、カミィさんの心情を想像することができなかった。私も昔鬱になったことがある。鬱は、周りが思うよりも本人にとってはずっと深刻な病だ。
「ママー。琥子ちゃんがあそこだってー」
自分の想像を遥かに超える話を聞いている内に、私たちは日本庭園のエリアに着いた。庭園の奥の方に大きな岩が見える。燈ちゃんが指差しているのはあの岩だ。
「日本庭園もいいわね」
庭園の真ん中には石橋の架かった池があり、小さな滝から水が流れている。池のほとりに
飾岡さんの話を聞いて、どうして琥子ちゃんが失声症になったのかわかった。
琥子ちゃんは、本当に悲しくて、寂しくて、不安で。琥子ちゃんから見たこの世界は、真っ暗だったことだろう…。そして、それ以上に…。
私は暗い事から考えを逸らすように、仲良く遊んでいる琥子ちゃんと燈ちゃんに視線を向けた。
救いなのは、今、琥子ちゃんが明るく元気で楽しそうなことね。それはきっと、飾岡さんが愛情をたっぷり注いで琥子ちゃんを育てたからだ。早く琥子ちゃんが…。
登りきった冬の太陽が、冷たい風が吹いてふわり舞った金色の髪をキラキラと照らした。
…ママと会えるといいな。
「ママー。おっきな岩とお話できたよー」
燈が琥子ちゃんと手を繋いで戻ってきた。
「まあ、どんなお話をしたのかしら」
「ココちゃんが、はやくココちゃんのママに会えるようにーってお話」
「ヒィー、ヒィー」
「まあ」
ちょうど飾岡さんから聞いてた話と同じだわ。
「はやくママとまたここに来れるといいね、ココちゃん」
「ヒィー」
「それとね、明日のお話もしたよ」
「明日のこと?」
「うん。明日はお祭りがあって、ココちゃんも行くんだって」
「塔ノ
飾岡さんがそのお祭りについて説明してくれた。
「ひかりも行きたい」
「帰ったらお父さんとお兄ちゃんに相談してみましょ」
「うん!」
にっこり笑う燈ちゃんと琥子ちゃんの髪飾りに日光が差し込んで、琥珀が綺麗に輝いた。