第30話 九尾

文字数 2,753文字

第33話 九尾

 僕は下がりそうになる瞼を開けて、氷像の後ろに視線を移す。何か、白い影がゆっくり動いていた。
 「…あれは、何?…動物?」
 四つ足の動物。大きさはケリュより小さい。ほっそりした犬のような顔の輪郭。尻尾が太くてとても大きい。その尻尾がふわりと持ち上がり、孔雀の羽のように広がり、九つに分かれる。
 あ…。あの動物は…。
 「…九尾?」
 氷像が後ろを振り返る。九尾は、ふわっとした動きで氷像の横をすり抜けて、前に出てきた。氷像が九尾を目で追う。そのとき、一瞬だけ、氷像の顔が見えた。表情が見えた。
 僕はその顔を見てはっとした。
 氷像が、九尾の尻尾で隠れる。九の尻尾が広がり、氷像を包んだように見えて、風が止んで、雪煙が晴れて、氷像が消えた。
 九尾がまっすぐに僕を見ている。
 ラタが僕の足の後ろに隠れて「俺が言ってたのはコイツのことだ」と、小さな声で言った。
 僕は、突然現れた九尾に対する驚きと、氷像が消える直前に見せた、あの表情に対する戸惑いで、どうしていいかわからなくなっていた。
 ピクリとケリュが動いた気がした。見るとじっと固まっている。気のせいだったかもしれない。
 「怖がらなくていいよ」
 九尾の声は、落ち着いた強さと優しさを伴って響いた。
 「迷い子よ。お前は邪気に侵されている」
 「邪気?」
 「邪気はこの状態を生じさせ、この状態は毒を生み出す」
 「毒…。さっきの氷像は…?」
 「あれは、この状態が生み出した毒よ。邪気を、浄化しなさい」
 「邪気を浄化。…どうすれば、…あれ?」
 それだけ言うと、九尾はふっと雪煙に紛れて消えていた。
 「…消えた」
 足元のラタがもそりと動いた。
 「お。もういねえのか?」
 「うん。消えちゃった」
 「おっかねぇ〜。ビビっちまったよ」
 ケリュがまたピクリと動いた。
 「ケリュ?起きてる?」
 ケリュが顔をもたげてきょろきょろと辺りを見まわす。
 「…あら?私ったら、また寝ちゃってたのね」
 「ケリュ、さっきちょっと起きなかった?」
 「起きなかったわよ?」
 「寝たふりしてるのかと思ったけど?」
 「別に怖くて寝たふりしてないわよ?」
 「…うん」
 ま、いっか。 
 「ケリュとラタは大丈夫?」
 「大丈夫よ」
 「俺も大丈夫だ」
 「さっき九尾が言ったこと、どう思った?」
 「キュウビ?さっきのやつキュウビっていうのか?」
 ケリュとラタは、九尾を知らないのか。
 「うん」
 「どうって聞かれても、私にはわからないわ。…寝てたもの」
 「俺にも全然わかんねえな。というより、おっかなくて話なんて全然頭にはいんねえよ」
 「そうだよね」
 なんだかこれは、自分との戦いのように思えてきた。僕の中の邪気が、今の状況を生み出していて、この状況がさらに別の毒を生み出している。邪魔しに出てくるのは毒で、その毒は僕の姿しているし。
 「ケリュ、ラタ。ここからは、僕、一人で行くよ」
 「大丈夫?」
 「うん。もともとケリュは『赤の川』まで案内するって話だったしね。『赤の川』は凍っていたけど、ここなんでしょ?」
 僕は考えないようにしてたただけで、本当はケリュとラタと別れるのが嫌だったんだ。また一人になるのが怖かったんだ。
 「そうよ。ここよ」
 「うん。じゃあ、やっぱりここからは一人で行く」
 「わかったわ」
 「ココロ、がんばれよ」
 「また会えるよね?絶対」
 「今度会うときは本当の私でいたいわ。本当はもっとふさふさしてて、こんなのじゃないから。…こんなのじゃないから」
 「うん」
 「俺もまた会えると思うぜ」
 「うん。じゃあ、行くね!ありがとう。ケリュ、ラタ」
 僕はケリュとラタに手を振って、一人で前に進む。ケリュとラタはその場で、見えなくなるまで見送ってくれた。
 一人で歩いていると、いろいろな事が頭の中を巡った。
 暗闇の中降ってきた四つの光。あの光の子供の正体はまったく見当がつかない。周りが少し明るくなって見えるようになると、そこは『暗闇の回廊』だった。そして、回廊の鏡に映った自分。
 急に回廊が壊れ出したときは、焦ったし、めちゃくちゃ怖かった。
 史弥お姉ちゃんが助けに来てくれたときは、ほんとに嬉しかったなあ。
 鏡に映った自分…。アイツは、僕の毒なのか…。
 でも、史弥お姉ちゃんには「ありがとう」ってお礼言ったのに、本当にどういうこと?毒がお礼言うかな?
 それに、さっき見た消える直前の氷像の顔…。
 なんだかか、ほっと安心したような優しい表情に見えた。
 …回廊の終盤にはいろんな絵があった。
 お父さん、お母さんの絵。燈の絵。
 隠し通路があった絵は、何の絵だったんだろう?水晶みたいな透明の結晶の絵で、虹色に光ってた。虹と言えば、虹蛍も不思議。謎だ。
 …お姉ちゃんがいなくなったときは、寂しかった。
 でもケリュとラタに出会えて良かった。
 僕は、両側の崖がだいぶ切り立っている場所まで来ていた。
 「あっ」
 前方に、氷の吊り橋が見える。
 「あれを渡ったのか…」
 吊り橋の上から見た景色を思い出した。
 こっち側が『深淵の森』で、こっち側が『神苑の森』…。森のヌシ様が神代欅だったのは、なんかすごく納得。
 橋の下を通りしばらく進むと、地面に薄い赤い筋が見えてきた。
 「あ。『赤の川』」
 『赤の川』が雪に覆われていない。川縁まで行って触ってみると、ペキッと薄い氷が割れた。
 「『赤の川』が氷の下で流れてる…」
 森のヌシ様は、川の流れが滞っているって言ったけど、凍って止まってたわけじゃなかったんだ。氷の下で流れていたんだ。
 『赤の川』の源流には、何があるのかな。もしかして、九尾の言った邪気、とか…。
 「ああ、邪気に侵されてるって、嫌だなあ。邪気の浄化って、どうやるんだろう?できるかな…」
 温かい風が吹いて頬を撫た。
 (大丈夫よ。憶くん。きっと大丈夫)
 頭の中にそんな言葉が響く。
 …ん?今のって、自分で考えた?…頭の中に自然に言葉が浮かんできたような、声が聞こえたような?…まあいいや。
 「うん。大丈夫」
 なんだか本当に大丈夫な気がしてきた。
 上流に進むにつれて『赤の川』の幅はだんだん広くなってきていた。谷も低くなってきている。さっきの吊り橋のところが一番高かったのかも。この辺りの『赤の川』は凍っていない。
 次第に、薄青い氷の風景が色みを帯びてきた。幹の色、土の色、岩の色が、氷を通して見て取れる。
 「この辺りから、森が凍ってない…」
 雪の白と、木や土の暗い色あいの対比が鮮明になっていく。
 「ここはもう、普通の雪山だ」
 ザックザックという雪を踏み締める足音が後から聞こえて、はっと振り返った。
 子供が立っている。
 「あなたはだあれ?」
 女の子?
 僕はびっくりして言葉が出ない。
 「私はセツ。あなたはだあれ?」
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