第9話:金融機関の不祥事、投資と松平の父の死

文字数 1,702文字

 第一勧業銀行の近藤克彦頭取は、1997年5月23日に「『総会屋側に』多額の融資を行った最大の要因は、『歴代最高幹部が親しかった』元出版社社長の依頼を断れなかった事で、社長の死後もその呪縛が解けず、関係を断ち切れなかった…」と記者会見で述べ退任した。

 次期頭取と紹介された副頭取藤田一郎の「以前から不正融資を知っていた」と記者会見で告白し、第一勧業銀行の幹部も驚く爆弾発言となった。頭取経験者の11人に及ぶ逮捕や、宮崎邦次元会長の自殺という事態を引き起こし、さらに調べ上げると第一勧業銀行が1985年から1996年まで総会屋に提供した総額460億円にのぼった。

 その資金は、四大証券会社「山一證券・野村證券・日興証券・大和証券」をゆする資金元となり、銀行・証券界と監督当局との腐りきった関係を白日の下に晒した「さらした」。大蔵省接待汚職事件、遂には大蔵省解体と帰結し前代未聞「ぜんだいみもん」の経済疑獄となり日本国民は信じらなれない事実に金融業界の断末魔を全国民が知る結果となった。

 この時も、逮捕された元頭取の中には「あれは旧第一銀行の案件で、自分は、旧日本勧業銀行出身だから関係ない」などと公判で無責任な証言をした者がおり、いかに旧第一・勧業の関係が悪いものであったかを露呈してしまった。その他、7月には、155年の英国統治に幕がおり、香港が英国から中国に返還され、「一国二制度」が始まった。

 1998年7月21日、早朝、証券会社の担当者から電話でソニー株の気配値が、13400円で売りと助言され、全株、成り行き売りを指示。9時過ぎ、全株売れた。この結果、税引き後利益が、16800万円となり投資残金が24400万円となった。

 1998年10月30日、昼、証券会社の担当者から電話で、ソニー株の気配値が7300円と安いと言われ同意した。そして、ソニー株15000株を成り行き買いを指示。その後、10950万円で買え、投資残高が、13450万円となった。1999年、アメリカで生活していた松平の両親、松平平輔さんと、よねさんが、父が、体調不良のため、日本に戻ってきた。

 そして、江ノ島の近くで、海の見える老人施設を申し込んで入居した。母は、日本に帰ってきてほっとした様で、すぐに日本国籍に変える手続きをした。よねさんが、松平富二に、お父さんの心臓の調子が悪いと話した。その言葉通り、年が明けた2000年1月8日、体調を崩して藤沢市民病院に入院し、意識を回復することなく心筋梗塞でなくなった。

 葬儀は、家族葬として、松平富二が、母と、自分の奥さんと柳橋夫妻の5人で、藤沢のお寺で行い、生前の父の希望通り相模湾を見渡せる墓地に埋葬した。
「松平の母が、富二、独りぼっちにして、ごめんねと泣いてわびた」
「遺産は、全て、富二に渡し、老人施設の費用を初め、全て、お願いしたいと言った」

「それに対して、何も言わず、承知しましたと、松平富二が、静かに答えた」
「それを見ていた奥さんが、思わず、本当に偉いわと言うと泣きながら富二に抱きついた」
「それを見ていた柳橋夫妻が、松平夫妻の態度に感銘を受けて涙ぐんだ」
 その後、松平よねさんは、入居した老人施設に戻った。

 その後、その老人施設で、女性の友人ができ、楽しそうに暮らし始めた。顔色が、アメリカから戻ってきた頃より良くなり元気を取り戻してきたように松平富二は、感じた。それからも松平夫妻は、母の所に足繁く通いはじめた。この頃、西暦2000年であることをコンピュータが正常に認識できなくなるという問題が、ちまたで、ささやかれるようになった。

そして、2000年になると、世界中のコンピューターが狂って大変な事になると言う、「2000年問題」の噂が、まことしやかに語られた。しかし、その後、2000年を迎えたが、何の異常も見られなかった。

 そんな2000年3月1日、早朝、証券会社の担当者から電話でソニー株の気配値が、33700円で売りと助言され、全株、成り行き売りを指示。9時過ぎ、全株売れた。この結果、税引き後利益が、41800万円となり投資残金が55300万円となった。
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