第8話:神戸地震、エイズ問題、金融不祥事

文字数 1,782文字

 新婚旅行から帰ってきて、翌週の24日、新婚旅行のお土産を持参して、松平夫妻が、柳橋の家に来た。そして、松平の家を改修して、一緒に住むことにすると話して帰って行った。1990年の前半、日本の政府では、NTT以外の電気通信事業者は、例えば、トヨタをはじめ25社が連合の第二電電などの大企業しか想定していなかった。

 1990年代後半には、米国でインターネット関連のソフトウェアを開拓してきたUCバークレーはじめ、インターネット開発をしていた大学の研究者は、ほぼ全員ビジネスを始めていた。基礎研究など、少し先を行く研究は、むしろ日本が中心となっていた。例えば、ブラウザーや電子メールの「国際化」・「英語だけではなく各国言語を扱える」に関する技術革新。

 また、当時「次世代インターネットプロトコル」と呼ばれていたIPv6での通信は日本の開発が先導した。1990年代後半、日本がインターネット技術の開発をけん引すると自負していた頃のある日、慶応SFCの同僚で経済学者の竹中平蔵氏が「村井さん、どうして日本はこんなにインターネットが遅れているの?」と問いかけた。

 最初は、何たる認識不足と思ったが、よく聞いてみると、以下の理由であった。
「行政サービスも企業も全くインターネットを活用していない」
「これで日本の経済的な競争力をどんどん阻害し日本の世界の中での位置が落ちていく」
「言われてみれば、米国ではとっくに税金の申告がインセンティブプランとともにネットワークからできるようになっていた」。

 さらに、米国では、金融機関もオンライン・バンキングなどでスピード化、効率化が進行していた。インターネットの商用化の時期では、日本は米国と、ほぼ並んでいたにもかかわらず、活用面ではパソコン通信時代から、すでにパソコンを利用して行政サービスやビジネス展開を提供していたアメリカに大きく遅れを取っていたわけだ。

 1995年となり、1月17日、朝6時前に発生した兵庫県淡路島北部を震源とする大地震で、波打つように倒壊した。柳橋卓二は、仕事に行く前、6時のニュースで、まるでアメリカの戦争映画のように人家から大きな火災が発生。阪神高速道路の高架橋が、折れて、横倒し、挟まれたトラックの映像が衝撃的だった。

 1995年4月、柳橋の奥さんの光子さんが、体調を崩し医者にかかると、妊娠とわかり9月1日が、出産予定日と告げられた。その後、8月20日から産休に入り10月1日から出勤をする事にした。9月1日、朝6時に出産の連絡が入り、柳橋卓二が、病院へ行くと大きな泣き声の男の子が、光子さんの横にいた。

 やんちゃそうで、元気な感じで、活発な男に育って欲しいと柳橋活一と命名した。
「その後、友人の松平富二も来てくれ、赤ちゃんて、本当に可愛いねと目を細めて見た」
「それを見ていた光子さんが、松平さんも結婚なさったらと告げた」
「そーね、チャンスが、あったらと答えると、そんなに上品に構えず、本能のままに好きですと言えば良いのよと笑った」

 光子さんと活一が、退院してから柳橋卓二は、仕事を終えると18時半には、家に帰り、料理を作ったり活一をながめ風呂に入れるようになった。やがて10月になり光子さんが会社に行くようになり事務仕事をするようになった。
「ほとんど毎日、上司の温情で、活一に、乳を飲ませる時間、仕事を抜けさせてもらった」

 1996年2月、輸入血液製剤をめぐる薬害エイズ問題で、原告患者らと面会し遺影を抱く遺族に謝罪する菅直人厚生相。同相は当時の厚生省に落ち度あると公式に認めた。その後、大阪府堺市の小学校でO157病原菌の集団食中毒が発生。総患者数は6千人を超えた。7月12日夜半より堺市の学童の間に下痢、血便等を主症状とする多数の有症者が発生。

 7月14日には、有症者26名の検便のうち13検体からO-157が発見され、7月23日、10才の女児が、8月16日、12才の女児が溶血性尿毒症症候群により死亡。1997年に入ると4月には、ペルー・リマの日本大使公邸人質事件で特殊部隊が突入した。

 そして、公邸横の階段から脱出する人質たち。犯人は射殺され、日本人の人質は全員解放された。5月には、総会屋・小池隆一へ460億円にのぼる利益供与事件で、第一勧業銀行本店を東京地方検察庁特別捜査部に家宅捜索された。
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