第1話:松平富二が、独りぼっちに

文字数 1,628文字

 狛江の松平家では、1971年になると4月、明治大学経済学部4年生、この頃、両親は、渡米した。さらに、4つ上の兄、松平富一さんは、東大経済学部を卒業しMB商事に勤め、語学力を買われアメリカに赴任。松平富二が、成人したのでMT銀行に当面の生活資金として500万円を入金してくれた。

 その金を株で増やそうと思い200万円をN証券に口座を作り送金。その後、両親も兄も、アメリカ国籍を取って、日本に帰ってくる事は、なかった。松平富二は、1972年1月伊藤忠株を148円で1万株購入し証券口座残高が52万円。MZ銀行に採用され狛江支店に配属された。

銀行の新規顧客開拓のため小田急沿線の下北沢、経堂、千歳船橋、成城、喜多見、狛江、和泉多摩川まで自転車で走り回った。しかし、松平富二は、良家の育ちで営業しても押しが弱くて新規顧客を開拓できずにいた。翌年1973年3月、伊藤忠株を610円で全株売り税引き後利益が555万円となり口座残高が607万円へ。

 4月、狛江支店から溝の口支店に転勤させられた。この地域は、工場が多く、やはり新規顧客を命ぜられたが当たりの強い工場主には、全く歯が立たない。そのため、新規顧客、開拓が遅々として進まない。1973年、夏のボーナス時、溝の口支店の支店長に呼ばれて、あまりに業績が悪いので、お前は、給料、ボーナス泥棒だとののしられた。

 この言葉に傷ついて退職願を出すと、すぐに受理された。結局、1973年8月末付けでMZ銀行を退職。その後、狛江の自宅に戻り、自宅で中学生のための進学塾を開始した。すると、最初は、4,5人で、土日に行う進学塾に通う生徒が現れた。1974年には、朝9時から10時、10時から11時に5人ずつ、10人の生徒が集まった。

 月謝は、週1回で千円、つまり、10人で1万円である。これでは、収入が少ないので、家の近くのN証券で株投資口座を開設して勉強を始めた。その後N証券主催の金曜日14時からの株投資勉強会に参加した。そして、1974年10月にソニー株を490円で7千株343万円で購入し、口座残高が、264万円となった。その後、松平の進学塾の生徒が、1975年に14人まで増えた。

 その後、塾の月謝を1500円に値上げした。1976年進学塾の生徒が、8割の生徒が、希望する高校に合格すると、塾の評判が上がった。そして生徒が20人となった。そのため土日、4回、1時間ずつ塾の授業をするようになり塾の収入が、月に3万円となった。松平は質素な生活をして、月3万円で食費を支払えた。しかし自宅の税金の支払いで赤字になった。

 ところが、1976年12月迄に、以前、購入したソニー株が、1.56分割。この時、ソニー株を1360円で全株売り、税引き後利益が1348万円で投資残高が、1610万円に急増。柳橋卓二は、1977年5月ゴールデン・ウイークの連休の時、自宅から近い大きな竹林へ、小学校の先輩達と4人で、タケノコ堀に出かけた。

 3本くのタケノコを掘り終えて家に帰ろうとした時、近くの家から出て来たお兄さんが、僕の名は、松平富二、ここは僕の家の庭だと告げた。そして、君たちタケノコ好きなのと聞いた。その時、小学校4年の山崎さんが、ごめんなさい。あなたの家の敷地ですかと聞くと、そうだが、タケノコ掘っても構わないと笑顔で話した。

 でも、ここは、あなたの家の敷地でしょと聞き返すと、でも1人では、食べきれない。だから、あげるよと言った。では、3本のタケノコをいただきますと言い、御礼を述べた。その後、まるで逃げるようにして帰った。でも、20代の背の高い色白の男性が、1人で住んでるのは、何か、秘密があると思った。

 それで、この竹林に囲まれた大きな家に興味を持った。その後、その竹林の中の家に同級生の友人と2人で行った時、先日の坊やだねと言われた。そして、お菓子でも食べていけばと言われ、友人が、すみませんねと答え、家に上がった。 
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