第11話:松平の母の死で社会福祉へ

文字数 1,757文字

 そして、証券会社の担当者から柳橋に電話が入りヤフーと言うインターネット・ポータルサイトの企業の株価が、日本で始めて1億円を突破したと知らされた。その後、松平さんから柳橋へ電話が入り上場してから急上昇したヤフー株が、下げているので、良かったら下げ止まりを君も一緒に買わないかと言われた。

 すぐ、了解し、200万円までなら証券口座に送金できると答え、翌日の昼休みに送金した。2001年9月4日、朝、ヤフー株の気配値が182万円と言われ、松平が5株で910万円、柳橋が3株546万円で、購入。松平の残金が54400万円となった。2002年3月26と9月25日に2分割ずつして合計4分割。

 その後、2003年3月26と9月25日に2分割ずつで累計16分割となった。2004年3月26日にも2分割して、累計32分割、つまり、松平の5株が160株に柳橋の3株が96株に増えた。2004年4月6日、朝、ヤフー株の気配値が140万円と連絡が入り松平と柳橋が、全株成り行き売りを指示するとすぐに全株売れた。

 その結果、税引き後利益は、松平が1.7億円で、柳橋が約1億円となり、松平の残金が。約7.3億円となった。この知らせを聞いた柳橋は、思わず、「嘘でしょー」と言ったくらいに驚いた。この株の成功の祝賀会をしようと4月10日土曜日の昼、狛江駅近く中華料理屋へ集合した。そこで、料理が来て、今回の成功を祝して乾杯し、次々と料理が運ばれ食べ始めた。

 翌週、松平から柳橋に、実の母が、老人施設で具合が悪くなって大きな病院に搬送されたと語った。続けて厳しそうなんだと言い胃がんが見つかり余命長くても3ケ月と悲しげに答えた。この頃、柳橋の勤めるNECでは、2000年に発表されたのデスクトップの「PC98メイトRとPC9821Ra43」2機種がPC98シリーズの最終モデルとなった。

 やがて秋となり、冬となり12月22日、松平さんのお母さんが、危篤となり、翌23日、早朝、亡くなった。生前、お母さんが、質素な葬儀で良いよと言っていたので、柳橋夫妻と松平夫妻の4人で葬儀を行った。しかし、お坊さんを呼んで、読経をしてもらい、父の墓に埋葬してもらった。そして、2004年が終わり2005年を迎えた。

 2005年、松平夫妻と柳橋の一家3人が、初詣に行き、家内安全と儲けた金で何か社会貢献の仕事したいと考えた。松平の奥さんの益美さんが以前、社会福祉の仕事を手伝ったことがあったので、大賛成した。しかし、福祉と言っても援助だけしていても駄目であり自立できる経済力をつける仕事を身につける事が不可欠だと感じたと話した。

 益美さんは、小さい頃、嫌と言うほど、貧乏な生活を経験した。そして、家計というのは、収入の範囲以下で、食べていく術を身につけた。その経験から小麦粉を利用してピザ、饅頭、うどんを安く作り食べた。1日、1食だけ、銀シャリ「お米」を食べていたのよと笑顔で語った。だから、貧乏には強いのよと笑った。これを聞いて、松平が、そりゃー凄いと、うなった。

 その後、柳橋が、最近パソコンで、表、グラフ、案内書など決められた定型書類の作成、または、企業が、それらにデータを入力する作業を安く、外注していることに目をつけていた。その下請けをするだけでも、1人が、食べていけるだけの収入には、なるはずだと訴えた。松平が、それでいこうと言った。関東周辺で、候補地となる場所を探しを始めると言った。

 その後、愛知万博が、2005年3月25日から半年間、愛知県内の2会場で開催された。日本での「総合博覧会」は1970年の大阪万博以来である。日本を含む121カ国、4国際機関が参加した。テーマは、自然の叡智『えいち』で、最新の環境技術が紹介された。シベリアの冷凍マンモスや企業パビリオンも人気を集めた。その入場者は、約2205万人に達した。

 開幕に先立って2月17日、愛知県常滑市沖に開港した中部国際空港の旅客数も順調に延び、「元気な中部」が目立つ1年になった。夏になるとニューヨーク取引所の原油先物相場が、高騰。8月30日に1バレル、70.85ドルの史上最高値をつけた。4月、中国各地で日本政府の歴史認識に抗議し、国連安保理常任理事国入りに反対する反日デモが続発。
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