第6話:柳橋がNECでパソコンの仕事

文字数 1,760文字

 その後、天女山を降り、清里駅近くの地元のそば屋の看板を見つけ、遅い昼食を食べた。冷たい「とろろそば」を食べているお客さんが見え、旨そうなので、思わず注文した、そばにとろろが良く合い、実に旨い。その後、来た道を帰り、韮崎から中央高速に乗った。一宮御坂インターで。降りて山梨駅方面に北上して、北西に向い、20分程で、ほったらかしの湯に到着した。

 この温泉には、「あっちの湯」と「こっちの湯」があり看板の解説で、スケールの大きい「あっちの湯」に入湯した。右手には、富士山の絶景見ることができ、左手には大菩薩峠の見え、甲府盆地を見下ろせ景色が素晴らしい。風呂から上がると休憩所で少し横になり休んで、出発。その後、一宮御坂インターから中央高速に入りブドウで有名な勝沼を抜けた。

すると長い笹子トンネルに入り、抜けた。17時、稲城インターチェンジで降りた。そして多摩川通りを走り狛江に到着。松平は、柳橋を自宅に下ろして、別れて自宅に帰った。そして、秋を迎え、冬となり、1990年が終わり、1991年を迎えた。今年、柳橋は、卒業論文のテーマを決めて書き始めなければならない。

 電通大で、ソフトウェアの最適化について自分の考えをまとめて発表しようと考えた。ゼミの先生の相談して了解をもらい。4月から東京都内の大きな図書館に入り、関連する資料収集を始めた。資料が揃ったのが5月下旬で卒業論文を書き始めた。7月下旬にゼミの先生に見せると、自分の考えが少ないと指摘された。

 そのため自分の考察を書き始めると考察の根拠となるデータが、あまりなかった。それを相談すると根拠を考えることが学問である。それを書き終えてこそ、論文の価値があると教授に言われた。夏休みには、NECの府中事業所に入社希望者の研修に3週間、参加した。その後、卒論を教授に見せると、もっと自分の考えを付け足す様に言われた。

 10月に卒業論文を見せると、真偽の程は、不明だが、研究する価値はあると認めてくれた。11月には、NECから内定の通知をもらい大喜びした。その後、卒業論文を12月中に受理してくれた。そして1992年を迎えて卒業論文が通り卒業できるた。この話を聞いた松平が、柳橋に、今年は、忘年会をしようと狛江駅近くの中華料理屋に招待してくれた。

 30代後半から40代位の美人の日本人女性が来て、何を注文しますかと聞き、松平が、数種類の中華料理を指示して紹興酒の熱燗も注文した。その時に、その女性が、松平と随分、親しそうな感じがした。そこで柳橋が、よく来るのと聞くと、そうねとと答え、料理がおいしいからねと言った。柳橋は、何かあるなと感じたが、直接、聞くことはしなかった。

 松平さんに意中の女性がいない方が、むしろおかしいと考えていたのだ。そして、来年からNECの府中事業所で働くと柳橋が、松平に伝えると君もついに社会人になるのだねと言った。それに対して、柳橋は、「松平さんも心許せる女性ができると良いですね」と言うと焦った様だ。「こんな中年のおじさんに声をかける女性なんかいないよ」と照れ笑いした。

1992年4月からNECのパーソナルコンピューター部門に配属されて秋葉原での新製品の発表会やデモンストレーションの管理の仕事を与えられた。柳橋は、入社後ソフトウェア開発ではなくPC9800後継機の販売の仕事をさせられた。この頃、既にライバルのエプソン社では、1990年発売の高速20メガヘルツ駆動の「PC286VX」新発売へ続く事になる。

 また、エプソン製の本体キーボード一体型のPC286C、プリンタ一体型の卓上機PC286LPなどの機種も発売された。また、本体キーボード一体型のPC286C、プリンタ一体型のラップトップ機 PC286LPなどの機種も発売され、それ以降、次々とNEC9800シリーズの多くのパソコンが開発されていった。

 1992年6月発売、エプソン社「PC486GR」では、CPU「中央演算素子」が、i486SX,25メガヘルツ、グラフィックアクセラレータ専用ローカルバス搭載。CPUをメモリコントローラーと共にドーターボード「付属基板」搭載。これを差し替える事でオーバードライブプロセッサによるものでない正規の ペンティアムへのアップグレードを保証。
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