第2話 柿の実

文字数 2,746文字

しばらくのお付き合いでございます。

いつの時代も、どんなお仕事の世界にも、真面目に努力しておられるのに中々世間様に認めていただけない方々がおられまして、そんな方々に「おまえさんは中々芽が出ないねぇ」なんてことを申します。

東京がまだ江戸と申しておりました頃のお話でございます。
本所は深川辺りに『恵比寿長屋』という、まぁ一言で申しますと貧乏長屋がございました。
この長屋に熊吉という男が住んでおります。
この熊吉、生まれた時から手先が器用で、それが効して今では大工として飯を食っております。

この男、酒もたばこもやらず、真面目は真面目なのではございますが、少々呑気と申しますか、気の抜けたところがございまして、腕はいいものの、中々一人前として認めては貰えず、師匠でもある棟梁も頭を抱える日々でございました。

さて頃は秋分。そろそろ秋も深まるころでございます。
暑い夏をなんとか凌ぎ、心地よい秋の風が吹き渡る頃、熊吉が住む長屋からしばらくの所にございます棟梁のお宅に熊吉が訪れておりました。

「ごめんなすって。棟梁はおられますかい?」

棟梁は晴れ渡った秋空に、ぽっかり浮かぶ白い雲を縁側から見上げ、今日は穏やかな日になるだろうと、しばしの風情を楽しんでいた時でございました。

「その声は熊かい?」
「へい。熊吉でこざいます」
「どうしたんだい。今日はたまの休みじゃねぇか。何か用かい?」
「へい。用ってほどじゃござんせんが、今日は日頃の棟梁のお世話に少しはお礼の気持ちをと思いまして、ちょいとお裾分けを」


 熊吉が真面目な男であることは、棟梁も重々承知しておりますことで、そんな熊吉の申し出に棟梁も相好を崩すのでございます。


「何を改まっているんだい。第一そんなお世話に報いるなんて……そんな大層なもんでもないだろう」
「いや! 棟梁にはいつも気を掛けて頂いて有り難ぇと、見えない所でこうやって両手を合わせております」


 そう言って目の前で手を合わせる熊吉に、棟梁は苦笑いで申します。


「おい、おい、それじゃあ、まるで俺があの世に行ったみてぇじゃねぇか。まあいい、お前がそのつもりなら、有り難くそのお裾分けってぇのを頂こうじゃねぇか。で、物は何なんだい?」
「へい。実はうちの長屋の強欲大家が……」
「おい、おい、強欲大家だなんて滅多なことをいうもんじゃねぇよ。お前んとこの長屋の大家と言やぁ、仏の八兵衛とまで言われるお方だ。そんなお人を強欲だなんて、お前ぇの了見違ぇもいいとこだ」
「でも棟梁、あの人は俺達から金を巻き上げて行くぜ」
「金を巻き上げる? おだやかじゃねぇな。どういうこったい」
「毎月、月末になると金払えってやって来るんでさ」

 棟梁は呆気に取られて口を開けたまま熊吉を眺めておりましたが、やがて何とも言い様の無い不思議な顔で熊吉に申します。


「お前ぇ、そりゃ、家賃じゃねぇのか?」
「家賃? あぁそうとも言うな」
「馬鹿言うんじゃねぇよ。店子が家賃を払うのは道理じゃねぇか。何を訳の分かんねぇことを言ってんだ!」
「だって棟梁。あの人は仏の八兵衛だろ? 仏だったら家賃の一月分や二月分くらいは待ってくれたって……」
「馬鹿野郎! これ以上つまんねぇこと言い出しやがったら、叩き出すぞ」


 少々お怒りの棟梁が言葉を荒げますと、さすがに熊吉も小さくなっております。


「す、す、すいません。もうつまらねぇことは口にしません」
「分かったらいいんだ。で、お裾分けの品は何だい?」
「へえ、その、うちのかかぁが大家の頼みで野良仕事に行きまして」
「ほぉ、野良仕事とはご苦労なことだ」
「へぇ、それでまぁ、何とかこなしましたんで、帰ぇる時に土産を頂戴しまして」
「土産を、ふぅん。さすがは八兵衛さんだ。ちゃんとしておられるじゃないか。お前も少しは見習ったらどうだ?」


 そう言って棟梁は熊吉を諭すのでございますが、当の熊吉には伝わっておらないようでございまして……


「見習う? あっしが野良仕事をですかい? 棟梁、そりゃいけませんや。あっしゃ大工ですぜ。鋸やのみ持つ手にカマやクワなんざ持てませんや」
「おい、おい、何を聞いているんだ。人にものを頼む時はそれなりの気持ちをお包みしろって話だ。たかが野良仕事ごときで、ちゃんと土産まで持たせてくれるなんざ。そんじょそこらの人にゃできねぇ話だ。さすがは八兵衛さんだね」

「へぇ、そんなもんですかい。あっしゃぁ駄賃代わりだと、てっきり割り切ってやしたが」
「馬鹿をいうもんじゃない。で、そろそろ教えてくれてもいいんじゃないか? 品物を」
「へい。その土産にもらったってのが柿でして」
「柿? ほぅ、時節ものだね」

「その畑仕事を手伝って、いざ帰る時に庭先に実った柿を好きなだけ持って行けなんてことになりやしてね。遠慮なく大きいのを幾つか頂戴したって訳でさ」
「なるほどね。そういうことかい。それで柿のお裾分けってことかい」
「へい。その通りで」

棟梁は熊吉の優しさが嬉しいのか、顔中を皺だらけにして喜んでおります。熊吉は熊吉で、懐に大切に仕舞っておいた柿を棟梁の前に並べたのでございます。

「おお、見事な柿だ。これは相当丹精込めたもんだな」
「棟梁にはそんな事もお分かりで」
「見てみろ。この見事な大きさと艶。これは随分と手を掛けなきゃ出来ねぇしろもんだ」
「そんなもんですかい? あっしにゃ、長屋の前にある柿の実と変んねぇような気がしやすが」
「だったら一つ食ってみろ。おまえはもう食ったのか?」
「いいえ。まだで」
「食ってみたら一口で味の違いが分かるはずだ。こんな大きな柿は、私は一つでいいから、もう一つを食ってみな」
「そ、そうですかい。じゃあ遠慮なく」

そう言うと熊吉は目の前の柿を一つ取り上げますと、大きな口を開けてがぶりと一口。
そのとたん。熊吉の顔がこれ以上ない程緩んでまいります。

「うめぇ! こいつはうめぇ柿だ」
「どうだい。そうだろう。じゃあ私も一つ頂くとするかね」

棟梁も柿を手にしますとまずは懐から手拭いを出しまして、柿の実を磨くように吹き上げます。そして熊吉に負けぬとも劣らぬ大きな口を開けてがぶりと一口。
口の中には確かな甘みが広がり、何とも幸せな気分になるのでございますが、棟梁は手にした柿のかじった後をしげしげと眺めております。それを観た熊吉が思わず尋ねるのでございます。

「棟梁。何か不都合がありやしたか?」

棟梁は柿を持ったまま熊吉に申しました。

「この柿はまるでおまえさんみたいだな」
「へ? 柿があっしと同じとはどういうことで」
「ほらご覧よ。この柿は種がないじゃねぇか」
「種が無けりゃ、手間が省けていいじゃないですか」
「そんなもんじゃないよ」
「どんなもんなんで?」
「種が無いだけに、芽が出ない」

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