第22話 スナック
文字数 3,724文字
源三は気持ち良く酔っていた。今日は彼の昇進祝いだったのである。何軒かの飲み屋をはしごしている内に日付はすでに変わり、一緒に居た仲間も一人帰り、二人帰りと減って行き、最後に残ったのは源三と同期の友人の二人になってしまった。
二人が千鳥足で歩いていると、友人がもう一軒行こうと言い出した。
「もう夜も遅いぞ。明日も仕事なんだから、今日はお開きにしようや」
源三はやんわりと断ったのだが、友人の方は納得しない。
「ばかやろう! こんなめでたい日に何をショボイ事を言っているんだ。なぁ、あと一軒だけ、一軒だけでいいから付き合え」
源三も誘われたら嫌とは言えない性格である。友人は細い路地を何本か曲がり、一軒のスナックの前まで源三を連れて来た。
「おぅ、ここだ、ここだ」
そこは何の変哲も無いスナックで、店の看板の『微熱』と書かれたピンクのネオンが艶めかしかった。
「おい、大丈夫か? ヤバい店じゃあないだろうな」
源三が訊くと友人は笑って言った。
「ははは、心配するな。俺は何度も来ているから」
友人を先に、店に入って行く源三だった。
店の中は薄暗く、カウンターだけがぼんやり明るい。ボックス席が四つほどあって、二組の客が入っていた。女の子もそれなりにいるようである。
「いらっしゃいませ」
そう言って出てきたママは、年の頃なら四〇代半ばほどの美人だった。友人とママは簡単な挨拶をした後、源三達をボックス席に案内した。
「いらっしゃいませ、お久しぶりですね」
差し出されたお絞りを受け取った友人は、もう自分は常連だとでも言いたげに横柄な態度で言う。
「そうか? 俺も忙しくてな。そうそうママ、こいつは俺の同期で源三って言うんだ。今日が初めてだからよろしくな」
「まあまあ、それはようこそ、これからもよろしくお願いしますね」
そう言って微笑むママは、何処となくタレントの何某に似ているなと思う源三だった。
ひとしきり手や顔をお絞りで拭いた友人は、「いつものやつ」と慣れた口調で言った。そして立ち上がると、「じゃあ、俺は隣のボックスに行くから」と、腰を上げた。
「おいおい、ここで一緒に飲むんじゃあないのか?」
源三が驚くと「後はママに任せるから」と勝手に移動してしまった。残された源三はなんとも困るのだった。
隣の友人に女の子を付けた後、ママがメニューを持ってやって来た。
「源三さんは初めてですから、驚かれたでしょう」
全くその通りなのだが、彼はできるだけ平静を装った。
「いや、ちょっとは驚いたが、飲み屋も最近は色々な手を使って来るからな。こんな店もあっていいかなぐらいだよ」
ママはまたタレントに似た顔に微笑を浮かべた。
「それじゃあ、簡単にこの店をご紹介しますね。ここは普通のスナックとは違うのです」
彼女の言葉に、一瞬身を強ばらせる源三だった。
「ど、何処が違うんだ?」
ママは微笑んだまま言う。
「ここはお酒を楽しむ所ではなくて、病気を楽しむ所なのです」
「はぁ? 病気を楽しむってどういうこと」
「世の中には変わった趣味をお持ちの方が増えて参りまして、高熱にうなされてみたいとか、体中に発疹を作ってみたいとか、様々な方がおられます。ですから、私達はそのようなお客様に、様々な病気を楽しんで頂いているのです」
源三には信じられなかった。
「へー、そいつは珍しいな、でも大丈夫なのか? 死んでしまったら殺人じゃあないか」
源三は驚きで目を丸くしていたが、ママは全く気にしていないようだ。
「そこがこの店だけのお楽しみになるのです」
そう言ってママは、テーブルの下からコーラのビンのような形をした容器に入った白い液体を取り出した。
「これはある製薬会社が開発した万能薬です。これを飲めばどんな病気も三分以内に完治します。ですから、安心して皆様病気になっていただけるのです」
源三は何か胡散臭い話に思えたので腰を上げ、隣の友人のボックスを覗いた。彼はネクタイを緩め、女の子の膝を枕にして息も荒く、火照った顔をして横になっていた。
「あちらは今、インフルエンザの高熱を楽しんでおられるのですよ」
ママがやんわりと教えてくれた。友人の様子を見た源三は納得した。
「それなら俺も何か試してみようかな。でも、初めてだからあまり強いのは嫌だな」
「ではまず扁桃腺などを腫らしてみたら如何でしょう。これなら熱も出ますし、喉の違和感などは最高ですよ」
「扁桃腺炎か、じゃあそれを貰おうか」
ママは立ち上がり、奥の女の子に声を掛けた。
「洋美ちゃん、こちら扁桃腺炎お願いね。ではごゆっくり」
入れ替わりに源三好みの女の子が、ショットグラスに入った青色の液体と体温計を持って隣に座った。
「今晩は、私は洋美といいます。今日が初めての出勤なんですけど、よろしくお願いします」
源三は一瞬嫌な予感がしたのだが彼女が好みのタイプであったので、それ以上は考えないことにした。
「そうか、洋美ちゃんかよろしく。ふーん、これが扁桃腺炎になるやつかぁ」
さすがに躊躇する源三だったが、酔いに任せて思い切って喉の奥に流し込むのだった。かすかに甘く、そして僅かだがアルコール臭がした。やがて体中を疲労感が襲い始め、唾を飲むのが困難になってきた。それと同時に両耳が熱くなるのが感じられ、遂には自分でも発熱しているのが分かるようになってきた。源三は息も荒くなる中で、洋美に訊いた。
「今どれ位ほど体温は上がったんだろう」
彼女は体温計を源三の舌下に押し込んで、しばらくして答えた。
「そうですねぇ、三九度前後ですね」
その声に源三は、子供の頃にかかった麻疹の時を思い出した。
「あの時もキツかったなぁ」
そうこうしている内にどうにも喉の痛みがひどくなったので、洋美に頼んで例の万能薬を飲むことにした。その液体を飲むと、ものの一分も経たないうちに体が楽になり、元の源三に戻るのだった。
「これは凄い! たいしたものだ。しかし、熱にうなされるというのも案外楽しいかもしれないな」
妙なことで納得する源三であった。次に源三はもう少し重い病気に挑戦したくなった。
「ねぇ洋美ちゃん。もう少し症状が重くなるヤツはないだろうか」
洋美は困った顔をして言った。
「そうですねぇ、コレラなんかどうですか? 熱も凄いですけれど下痢も凄いらしいですよ。奥のお客さんが、ダイエット代わりに試した事があるって言っていましたけど」
「コレラかぁ、何か不吉な名前だな。他にはお勧めは無いの?」
「うーん、今日が初めてなので、私もあまり詳しくないんです」
困る洋美を横目に、店に並んだボトルの中から源三は濃い紫色のボトルを見つけた。
「ねえ、あのボトルは何なんだい?」
源三の質問に彼女は首を傾げていった。
「さあ、私もまだ教えてもらっていないんです。何せ今日が初めてですから」
「そうか、でもこの薬があれば大丈夫だろう、何て言ったって万能薬だからな。よし、あれを貰おう」
やがて運ばれてきた液体は透き通っており、微かに桃の香りがする。源三はしばらく眺めた後、一気に喉へ流し込んだ。五分経ったが変わらない。十分経っても変わらない。
「あれ? 何も起こらないじゃあないか。これは一体何の病気の素なんだ」
イラつく源三に困った洋美はママを呼びに言った。やって来たママに源三は噛みついた。
「ママ、せっかく楽しもうとグラスを空けたのに、何も起こらないじゃあないか。こんなんじゃ金は払えないぞ」
「まあまあ、そうおっしゃらずに、お客様はどれを御飲みになりましたの?」
源三が指差すボトルを見るや、ママの顔色が変わった。
「えっ! まさか、あの紫のボトルを」
「どういう事だ? 何を驚いているんだ。あれは何の病気なんだ?」
ママは顔面蒼白で答えた。
「源三さん。確かにこの薬は万能薬です。しかしそれは原因のはっきりしている病気に対してのみ効くのです。世の中には原因不明の病気もありますでしょ。先天性の病気とか遺伝性の病気とか、残念ながらそんな病気には、この薬は効かないのです。あのボトルの中身に対しては効果があるのか無いのか、まだはっきりしていないのです」
「な、なんだよ、それ」
不安な気持ちが丸だしの源三だった。しかし彼には確かにママの言う話も理解できた。
「では、改めてママに訊くけれど、俺が飲んだのは一体何の病気になる代物だったんだ?」
源三にはさっきの彼女の狼狽ぶりが何とも気になっていた。彼女は申し訳なさそうに答えた。
「あれを飲まれた方がかかる病気は、果たして病気と言えるかどうかが問題でございまして、熱が出るとか、お腹が痛くなるとかという物ではございませんし、かと言って原因が不明と言う訳でも無いようでございますし、正直言いまして、治ったかどうかの判定も微妙な所がございまして」
「えーい、イライラするなぁ! はっきり言ってくれ。あれは何の病気なんだ、そしてそれは完治するんだろうな」
源三が語気も荒くママに迫ると、彼女は襟を正して言った。
「アルツハイマー型認知症です」
呆気に取られてポカンと開いた彼の口元から涎が一すじこぼれたが、全く気が付かない源三であった。
―了―
二人が千鳥足で歩いていると、友人がもう一軒行こうと言い出した。
「もう夜も遅いぞ。明日も仕事なんだから、今日はお開きにしようや」
源三はやんわりと断ったのだが、友人の方は納得しない。
「ばかやろう! こんなめでたい日に何をショボイ事を言っているんだ。なぁ、あと一軒だけ、一軒だけでいいから付き合え」
源三も誘われたら嫌とは言えない性格である。友人は細い路地を何本か曲がり、一軒のスナックの前まで源三を連れて来た。
「おぅ、ここだ、ここだ」
そこは何の変哲も無いスナックで、店の看板の『微熱』と書かれたピンクのネオンが艶めかしかった。
「おい、大丈夫か? ヤバい店じゃあないだろうな」
源三が訊くと友人は笑って言った。
「ははは、心配するな。俺は何度も来ているから」
友人を先に、店に入って行く源三だった。
店の中は薄暗く、カウンターだけがぼんやり明るい。ボックス席が四つほどあって、二組の客が入っていた。女の子もそれなりにいるようである。
「いらっしゃいませ」
そう言って出てきたママは、年の頃なら四〇代半ばほどの美人だった。友人とママは簡単な挨拶をした後、源三達をボックス席に案内した。
「いらっしゃいませ、お久しぶりですね」
差し出されたお絞りを受け取った友人は、もう自分は常連だとでも言いたげに横柄な態度で言う。
「そうか? 俺も忙しくてな。そうそうママ、こいつは俺の同期で源三って言うんだ。今日が初めてだからよろしくな」
「まあまあ、それはようこそ、これからもよろしくお願いしますね」
そう言って微笑むママは、何処となくタレントの何某に似ているなと思う源三だった。
ひとしきり手や顔をお絞りで拭いた友人は、「いつものやつ」と慣れた口調で言った。そして立ち上がると、「じゃあ、俺は隣のボックスに行くから」と、腰を上げた。
「おいおい、ここで一緒に飲むんじゃあないのか?」
源三が驚くと「後はママに任せるから」と勝手に移動してしまった。残された源三はなんとも困るのだった。
隣の友人に女の子を付けた後、ママがメニューを持ってやって来た。
「源三さんは初めてですから、驚かれたでしょう」
全くその通りなのだが、彼はできるだけ平静を装った。
「いや、ちょっとは驚いたが、飲み屋も最近は色々な手を使って来るからな。こんな店もあっていいかなぐらいだよ」
ママはまたタレントに似た顔に微笑を浮かべた。
「それじゃあ、簡単にこの店をご紹介しますね。ここは普通のスナックとは違うのです」
彼女の言葉に、一瞬身を強ばらせる源三だった。
「ど、何処が違うんだ?」
ママは微笑んだまま言う。
「ここはお酒を楽しむ所ではなくて、病気を楽しむ所なのです」
「はぁ? 病気を楽しむってどういうこと」
「世の中には変わった趣味をお持ちの方が増えて参りまして、高熱にうなされてみたいとか、体中に発疹を作ってみたいとか、様々な方がおられます。ですから、私達はそのようなお客様に、様々な病気を楽しんで頂いているのです」
源三には信じられなかった。
「へー、そいつは珍しいな、でも大丈夫なのか? 死んでしまったら殺人じゃあないか」
源三は驚きで目を丸くしていたが、ママは全く気にしていないようだ。
「そこがこの店だけのお楽しみになるのです」
そう言ってママは、テーブルの下からコーラのビンのような形をした容器に入った白い液体を取り出した。
「これはある製薬会社が開発した万能薬です。これを飲めばどんな病気も三分以内に完治します。ですから、安心して皆様病気になっていただけるのです」
源三は何か胡散臭い話に思えたので腰を上げ、隣の友人のボックスを覗いた。彼はネクタイを緩め、女の子の膝を枕にして息も荒く、火照った顔をして横になっていた。
「あちらは今、インフルエンザの高熱を楽しんでおられるのですよ」
ママがやんわりと教えてくれた。友人の様子を見た源三は納得した。
「それなら俺も何か試してみようかな。でも、初めてだからあまり強いのは嫌だな」
「ではまず扁桃腺などを腫らしてみたら如何でしょう。これなら熱も出ますし、喉の違和感などは最高ですよ」
「扁桃腺炎か、じゃあそれを貰おうか」
ママは立ち上がり、奥の女の子に声を掛けた。
「洋美ちゃん、こちら扁桃腺炎お願いね。ではごゆっくり」
入れ替わりに源三好みの女の子が、ショットグラスに入った青色の液体と体温計を持って隣に座った。
「今晩は、私は洋美といいます。今日が初めての出勤なんですけど、よろしくお願いします」
源三は一瞬嫌な予感がしたのだが彼女が好みのタイプであったので、それ以上は考えないことにした。
「そうか、洋美ちゃんかよろしく。ふーん、これが扁桃腺炎になるやつかぁ」
さすがに躊躇する源三だったが、酔いに任せて思い切って喉の奥に流し込むのだった。かすかに甘く、そして僅かだがアルコール臭がした。やがて体中を疲労感が襲い始め、唾を飲むのが困難になってきた。それと同時に両耳が熱くなるのが感じられ、遂には自分でも発熱しているのが分かるようになってきた。源三は息も荒くなる中で、洋美に訊いた。
「今どれ位ほど体温は上がったんだろう」
彼女は体温計を源三の舌下に押し込んで、しばらくして答えた。
「そうですねぇ、三九度前後ですね」
その声に源三は、子供の頃にかかった麻疹の時を思い出した。
「あの時もキツかったなぁ」
そうこうしている内にどうにも喉の痛みがひどくなったので、洋美に頼んで例の万能薬を飲むことにした。その液体を飲むと、ものの一分も経たないうちに体が楽になり、元の源三に戻るのだった。
「これは凄い! たいしたものだ。しかし、熱にうなされるというのも案外楽しいかもしれないな」
妙なことで納得する源三であった。次に源三はもう少し重い病気に挑戦したくなった。
「ねぇ洋美ちゃん。もう少し症状が重くなるヤツはないだろうか」
洋美は困った顔をして言った。
「そうですねぇ、コレラなんかどうですか? 熱も凄いですけれど下痢も凄いらしいですよ。奥のお客さんが、ダイエット代わりに試した事があるって言っていましたけど」
「コレラかぁ、何か不吉な名前だな。他にはお勧めは無いの?」
「うーん、今日が初めてなので、私もあまり詳しくないんです」
困る洋美を横目に、店に並んだボトルの中から源三は濃い紫色のボトルを見つけた。
「ねえ、あのボトルは何なんだい?」
源三の質問に彼女は首を傾げていった。
「さあ、私もまだ教えてもらっていないんです。何せ今日が初めてですから」
「そうか、でもこの薬があれば大丈夫だろう、何て言ったって万能薬だからな。よし、あれを貰おう」
やがて運ばれてきた液体は透き通っており、微かに桃の香りがする。源三はしばらく眺めた後、一気に喉へ流し込んだ。五分経ったが変わらない。十分経っても変わらない。
「あれ? 何も起こらないじゃあないか。これは一体何の病気の素なんだ」
イラつく源三に困った洋美はママを呼びに言った。やって来たママに源三は噛みついた。
「ママ、せっかく楽しもうとグラスを空けたのに、何も起こらないじゃあないか。こんなんじゃ金は払えないぞ」
「まあまあ、そうおっしゃらずに、お客様はどれを御飲みになりましたの?」
源三が指差すボトルを見るや、ママの顔色が変わった。
「えっ! まさか、あの紫のボトルを」
「どういう事だ? 何を驚いているんだ。あれは何の病気なんだ?」
ママは顔面蒼白で答えた。
「源三さん。確かにこの薬は万能薬です。しかしそれは原因のはっきりしている病気に対してのみ効くのです。世の中には原因不明の病気もありますでしょ。先天性の病気とか遺伝性の病気とか、残念ながらそんな病気には、この薬は効かないのです。あのボトルの中身に対しては効果があるのか無いのか、まだはっきりしていないのです」
「な、なんだよ、それ」
不安な気持ちが丸だしの源三だった。しかし彼には確かにママの言う話も理解できた。
「では、改めてママに訊くけれど、俺が飲んだのは一体何の病気になる代物だったんだ?」
源三にはさっきの彼女の狼狽ぶりが何とも気になっていた。彼女は申し訳なさそうに答えた。
「あれを飲まれた方がかかる病気は、果たして病気と言えるかどうかが問題でございまして、熱が出るとか、お腹が痛くなるとかという物ではございませんし、かと言って原因が不明と言う訳でも無いようでございますし、正直言いまして、治ったかどうかの判定も微妙な所がございまして」
「えーい、イライラするなぁ! はっきり言ってくれ。あれは何の病気なんだ、そしてそれは完治するんだろうな」
源三が語気も荒くママに迫ると、彼女は襟を正して言った。
「アルツハイマー型認知症です」
呆気に取られてポカンと開いた彼の口元から涎が一すじこぼれたが、全く気が付かない源三であった。
―了―