第17話 三分間だけの証人
文字数 3,772文字
源三は極悪非道の凶悪犯であった。しかし、彼は何度捕まっても微罪で済んでいた。なぜなら証拠らしい証拠は何一つ残していなかったのである。
今度も若い女性を殺めてしまい、逃げようとしたところを万全の体制で備えていた警察に捕まってしまった。しかし彼は薄ら笑いを浮かべるのであった。
もう顔なじみになった看守に源三は平然と言った。
「この国の法律じゃ、俺は裁けないぜ。なにしろ証拠第一主義だからな。さっさと釈放した方が恥の上塗りをしなくて済むぜ」
「馬鹿なことを言うな。この国の警察は優秀だから、おまえを必ず絞首台に送ってやる」
「へっへっへっ……そうなればいいがな」
全く動じない源三であった。
しかしその日はいつもと違っていた。いつもなら担当の刑事の前に座らされて、厳しい追及があるのだが、今日に限っては妙に穏やかで、笑みさえ浮かべている。気味が悪くなった源三は尋ねてみた。
「おい。どうしたんだ。へらへらと笑いやがって。気持ちが悪いじゃねぇか」
刑事はその表情を崩すことなく柔らかな口調で言った。
「そういきり立つな。なぁ源三。今日はちょっとドライブと洒落こもうじゃないか」
「ドライブだと? 何をふざけているんだ。こんな姿でドライブもクソもあるかよ」
そう言って彼は、今装着された手錠をガチャガチャ鳴らした。
「まあ、黙って付いて来い」
結局源三は二人の刑事に付き添われ、警察のマイクロバスに押し込まれると、どこに行くかも知らされず、ただ車に揺られるのだった。
初めは街中を走っていた車は次第に海の方に向かい、やがて波の音が大きく聞こえるようになると岬の突端に近い所で止まった。
「ここは何処だよ? まさかここから俺を突き落すんじゃないだろうな」
源三は恐々下を覗き込んで言った。
「警察がそんなことをすると思うのか? おまえが行くのはあそこだ」
源三が刑事の指差した方を見ると、車では近づけない細い道の先に何やら白い建物が見えた。
「ありゃ何だ?」
源三の問いに刑事が静かに答えた。
「あれは診療所だ」
「診療所? 俺はどこも悪くないぞ。熱もない」
刑事はまた笑みを浮かべて言った。
「まあ、いいから歩け」
源三は後ろから小突かれるように細い道を進むのだった。
遠くから見えた白い建物は刑事達が言うように確かに診療所ではあったが、街中の診療所のように診療科を示すボードも何も無かった。ただ『白髭診療所』とだけ書かれた古びた木製看板が風に揺れていた。
怪訝な様子の源三を無視するように、刑事はドアのチャイムを鳴らした。すると中から白衣を着た医師と思われる白髪の老人が出て来た。その顔を見た刑事が丁寧に頭を下げた。
「先生。今日は無理を言ってすいませんでした」
先生と呼ばれた老人は、掛けていた丸メガネの奥から人懐こい視線を送った。
「なぁに構わんよ。わしの研究が活かされるのなら本望じゃ」
彼はそう言って源三達を中に入れた。
その建物の中はまさに診療所そのもので、入ってすぐに待合と受付、その奥には診察室だの処置室だののプレートが見えていた。源三達はその処置室に入った。
そこは通常であれば処置用のベッドが置かれ、周囲には各種医療機器が並んでいるはずなのだが、この処置室に限っては何も無い殺風景な部屋だった。
「わざわざこんな所まで来て、これから何が始まるんだ?」
刑事はやっといつもの厳しい顔に戻って言った。
「取り調べだ」
「取り調べ? 警察署の中でなくて、こんな場所でか?」
「そうだ。不服か?」
「いや、別に……俺としたらどこでやってもらっても構わないさ。証拠が無いんだからな」
源三はふてぶてしく笑っていた。
昨日までの取り調べでは、彼がこんな態度を取ると刑事達は鬼の形相で迫って来ていたのだが、今はそんなこともなく、じっと彼を見つめるだけだった。
やがて刑事の一人が老人に言った。
「じゃあ先生、お願いします」
「ああ」
老人は一度処置室から出て行くと、十分ほどして戻って来た。その時彼は患者移動用のストレッチャーを押しており、その上に横たわっている女性の顔を見た時、源三の顔が思わず引きつっていた。
今彼等の目の前に横たわっている女性は、源三が殺めてしまった女性であった。動揺する源三を見ていた刑事が言った。
「ほほう。この顔に見覚えがあるようだな」
「な、な、何を言うんだ。は、初めて見る顔だ」
「その割には汗をかいているじゃないか」
「い、いきなりこんなものを見せつけられたら誰でも汗をかくさ」
「そうか。しかしな。おまえがこの人を知らないと言い張っても、この人がおまえを覚えているかもしれないぞ」
「はぁ?」
源三は刑事の顔をまじまじと眺めた。この刑事は何をいっているのか彼には理解できなかったのである。
呆気に取られている源三を尻目に、刑事は老人に「お願いします」と言った。彼は壁際の棚からおもむろに注射器セットを取り出すと、白い液体を充てんした。そして横たわっている女性の腕に針先を刺すと言った。
「では今から三分間じゃ」
「分かりました」
老人は注射器のピストンをゆっくりと押し込んで行った、白い液体が徐々に女性の体に入り込んでいった。
すると変化はすぐに起こった。
全く血の気の無い青白い顔にふっと赤みが差したかと思うと、微動だにしていなかった胸の辺りが上下に動き、まるで息をしているかのようだった。そして時間にすれば三十秒ほどでゆっくりと瞼が開きだしたのであった。
源三は今にも腰が抜けそうだった。彼はこの女性が絶命する所を確認していたのである。間違いなく自分の手で彼女を殺害したのである。しかしその当の本人が息を吹き返しているのである。源三でなくとも驚くはずだった。
刑事は女性が完全に目覚めたのを確認すると、彼女の側まで行った。
「すいません。警察です。ご協力をお願します」
女性は横たわったまま無言で首を縦に動かした。
もう一人の刑事も彼女の側まで行き、先の刑事と二人で彼女の上半身を起こすようにしてストレッチャーの上に座らせ、源三を指差して言った。
「あなたを襲い、あなたに手を掛けたのはこの男ですか」
女性は源三の顔をしばらく見ていたが、やがてその両目が大きく見開かれ、右手をゆっくりと上げて源三を指差し、はっきりと言った。
「この男です。この男が私を殺しました」
源三を指差した女性の指が震えていた。それが恐怖からなのか、憎しみからなのかはそこにいた人間達に知るよしもなかった。
二人の刑事は互いに顔を見合すと源三に言った。
「これが俺達の用意した証拠だ。もう逃げられないぞ」
源三は唇を噛んでいた。
刑事達は女性をゆっくりと元の姿勢に戻すと、深々と頭を下げていた。やがて老人の「そろそろ三分じゃ」と言う声が聞こえたかと思うと、女性の目は閉じられ、何事も無かったかのように源三の前に横たわっていたのだった。
一連の流れを見ていた源三が、かすれた声で訊いた。
「これはどういうことだ?」
刑事が笑いながら言った。
「おまえも運の無い男だ。おまえがあの女性を殺害する一か月前に、この先生がある薬を発明したんだ」
「ある薬? なんだそれは」
老人が答えた。
「亡くなった人間を三分間だけ生き返らせることができる薬じゃ」
「生き返らせる?」
言葉に詰まる源三に刑事が続けた。
「今回の事件が起こった時、俺達はおまえの仕業だと思った。そしてこんな事もあろうかと家族の承諾を得て遺体を冷凍保存しておいたんだ。どうせお前のことだ。証拠はほとんど残さないだろうからな。しかし、こんなに早く役立ってくれるとは、多分この女性が導いてくれたんだろう」
二人の刑事は女性に向かってもう一度深々と頭を下げた。
「ふっ、ふっ、ふっ……」
突然部屋の中に源三の含み笑いが響いた。
「何がおかしいんだ。もう観念したのか?」
刑事の問いに源三は鼻で笑って答えた。
「おまえ達も少しは頭がいいかと思ったが、やっぱり抜けてるな」
「何がだ」
源三は不敵な笑みを浮かべて言った。
「おまえ達は『死人に口なし』って言葉を知ってるか? 死んだ人間が証言するはずがないし、死んだ人間の言葉なんて証拠になるはずがないんだ。そんなことも分からないのか」
すると今度は源三の言葉を聞いた刑事が不敵な笑みを浮かべた。
「それはどうかな? 先生、あれをお願いします」
老人は傍らの机の引き出しから一枚の紙を出して源三の前に差し出した。同時にもう一人の刑事も胸元から一枚の紙をだして源三に突き付けた。
「な、何なんだよこれは」
刑事は胸を張って言った。
「これはこの女性の『死亡診断書』だ。そしてこっちが『死亡届』だ。これにどんな意味があるか分かるか?」
「なんだよ。どんな意味があるんだ」
「よく聞け。『死亡診断書』がここにあるということは、この女性の死は証明されていない。そして『死亡届』がここにあるということは、この女性の死は認められていないのだ。いいか。つまり、この二つが提出されずにここにあるということは、この女性は法律上はまだ生きているということなんだ。万が一を考えて先生に提出を待ってもらっていたんだ。だから今の証言は有効なんだ。どうだ? この国の法律もまんざらじゃないだろう」
源三の開いた口が閉じることはなかった。
―了―
今度も若い女性を殺めてしまい、逃げようとしたところを万全の体制で備えていた警察に捕まってしまった。しかし彼は薄ら笑いを浮かべるのであった。
もう顔なじみになった看守に源三は平然と言った。
「この国の法律じゃ、俺は裁けないぜ。なにしろ証拠第一主義だからな。さっさと釈放した方が恥の上塗りをしなくて済むぜ」
「馬鹿なことを言うな。この国の警察は優秀だから、おまえを必ず絞首台に送ってやる」
「へっへっへっ……そうなればいいがな」
全く動じない源三であった。
しかしその日はいつもと違っていた。いつもなら担当の刑事の前に座らされて、厳しい追及があるのだが、今日に限っては妙に穏やかで、笑みさえ浮かべている。気味が悪くなった源三は尋ねてみた。
「おい。どうしたんだ。へらへらと笑いやがって。気持ちが悪いじゃねぇか」
刑事はその表情を崩すことなく柔らかな口調で言った。
「そういきり立つな。なぁ源三。今日はちょっとドライブと洒落こもうじゃないか」
「ドライブだと? 何をふざけているんだ。こんな姿でドライブもクソもあるかよ」
そう言って彼は、今装着された手錠をガチャガチャ鳴らした。
「まあ、黙って付いて来い」
結局源三は二人の刑事に付き添われ、警察のマイクロバスに押し込まれると、どこに行くかも知らされず、ただ車に揺られるのだった。
初めは街中を走っていた車は次第に海の方に向かい、やがて波の音が大きく聞こえるようになると岬の突端に近い所で止まった。
「ここは何処だよ? まさかここから俺を突き落すんじゃないだろうな」
源三は恐々下を覗き込んで言った。
「警察がそんなことをすると思うのか? おまえが行くのはあそこだ」
源三が刑事の指差した方を見ると、車では近づけない細い道の先に何やら白い建物が見えた。
「ありゃ何だ?」
源三の問いに刑事が静かに答えた。
「あれは診療所だ」
「診療所? 俺はどこも悪くないぞ。熱もない」
刑事はまた笑みを浮かべて言った。
「まあ、いいから歩け」
源三は後ろから小突かれるように細い道を進むのだった。
遠くから見えた白い建物は刑事達が言うように確かに診療所ではあったが、街中の診療所のように診療科を示すボードも何も無かった。ただ『白髭診療所』とだけ書かれた古びた木製看板が風に揺れていた。
怪訝な様子の源三を無視するように、刑事はドアのチャイムを鳴らした。すると中から白衣を着た医師と思われる白髪の老人が出て来た。その顔を見た刑事が丁寧に頭を下げた。
「先生。今日は無理を言ってすいませんでした」
先生と呼ばれた老人は、掛けていた丸メガネの奥から人懐こい視線を送った。
「なぁに構わんよ。わしの研究が活かされるのなら本望じゃ」
彼はそう言って源三達を中に入れた。
その建物の中はまさに診療所そのもので、入ってすぐに待合と受付、その奥には診察室だの処置室だののプレートが見えていた。源三達はその処置室に入った。
そこは通常であれば処置用のベッドが置かれ、周囲には各種医療機器が並んでいるはずなのだが、この処置室に限っては何も無い殺風景な部屋だった。
「わざわざこんな所まで来て、これから何が始まるんだ?」
刑事はやっといつもの厳しい顔に戻って言った。
「取り調べだ」
「取り調べ? 警察署の中でなくて、こんな場所でか?」
「そうだ。不服か?」
「いや、別に……俺としたらどこでやってもらっても構わないさ。証拠が無いんだからな」
源三はふてぶてしく笑っていた。
昨日までの取り調べでは、彼がこんな態度を取ると刑事達は鬼の形相で迫って来ていたのだが、今はそんなこともなく、じっと彼を見つめるだけだった。
やがて刑事の一人が老人に言った。
「じゃあ先生、お願いします」
「ああ」
老人は一度処置室から出て行くと、十分ほどして戻って来た。その時彼は患者移動用のストレッチャーを押しており、その上に横たわっている女性の顔を見た時、源三の顔が思わず引きつっていた。
今彼等の目の前に横たわっている女性は、源三が殺めてしまった女性であった。動揺する源三を見ていた刑事が言った。
「ほほう。この顔に見覚えがあるようだな」
「な、な、何を言うんだ。は、初めて見る顔だ」
「その割には汗をかいているじゃないか」
「い、いきなりこんなものを見せつけられたら誰でも汗をかくさ」
「そうか。しかしな。おまえがこの人を知らないと言い張っても、この人がおまえを覚えているかもしれないぞ」
「はぁ?」
源三は刑事の顔をまじまじと眺めた。この刑事は何をいっているのか彼には理解できなかったのである。
呆気に取られている源三を尻目に、刑事は老人に「お願いします」と言った。彼は壁際の棚からおもむろに注射器セットを取り出すと、白い液体を充てんした。そして横たわっている女性の腕に針先を刺すと言った。
「では今から三分間じゃ」
「分かりました」
老人は注射器のピストンをゆっくりと押し込んで行った、白い液体が徐々に女性の体に入り込んでいった。
すると変化はすぐに起こった。
全く血の気の無い青白い顔にふっと赤みが差したかと思うと、微動だにしていなかった胸の辺りが上下に動き、まるで息をしているかのようだった。そして時間にすれば三十秒ほどでゆっくりと瞼が開きだしたのであった。
源三は今にも腰が抜けそうだった。彼はこの女性が絶命する所を確認していたのである。間違いなく自分の手で彼女を殺害したのである。しかしその当の本人が息を吹き返しているのである。源三でなくとも驚くはずだった。
刑事は女性が完全に目覚めたのを確認すると、彼女の側まで行った。
「すいません。警察です。ご協力をお願します」
女性は横たわったまま無言で首を縦に動かした。
もう一人の刑事も彼女の側まで行き、先の刑事と二人で彼女の上半身を起こすようにしてストレッチャーの上に座らせ、源三を指差して言った。
「あなたを襲い、あなたに手を掛けたのはこの男ですか」
女性は源三の顔をしばらく見ていたが、やがてその両目が大きく見開かれ、右手をゆっくりと上げて源三を指差し、はっきりと言った。
「この男です。この男が私を殺しました」
源三を指差した女性の指が震えていた。それが恐怖からなのか、憎しみからなのかはそこにいた人間達に知るよしもなかった。
二人の刑事は互いに顔を見合すと源三に言った。
「これが俺達の用意した証拠だ。もう逃げられないぞ」
源三は唇を噛んでいた。
刑事達は女性をゆっくりと元の姿勢に戻すと、深々と頭を下げていた。やがて老人の「そろそろ三分じゃ」と言う声が聞こえたかと思うと、女性の目は閉じられ、何事も無かったかのように源三の前に横たわっていたのだった。
一連の流れを見ていた源三が、かすれた声で訊いた。
「これはどういうことだ?」
刑事が笑いながら言った。
「おまえも運の無い男だ。おまえがあの女性を殺害する一か月前に、この先生がある薬を発明したんだ」
「ある薬? なんだそれは」
老人が答えた。
「亡くなった人間を三分間だけ生き返らせることができる薬じゃ」
「生き返らせる?」
言葉に詰まる源三に刑事が続けた。
「今回の事件が起こった時、俺達はおまえの仕業だと思った。そしてこんな事もあろうかと家族の承諾を得て遺体を冷凍保存しておいたんだ。どうせお前のことだ。証拠はほとんど残さないだろうからな。しかし、こんなに早く役立ってくれるとは、多分この女性が導いてくれたんだろう」
二人の刑事は女性に向かってもう一度深々と頭を下げた。
「ふっ、ふっ、ふっ……」
突然部屋の中に源三の含み笑いが響いた。
「何がおかしいんだ。もう観念したのか?」
刑事の問いに源三は鼻で笑って答えた。
「おまえ達も少しは頭がいいかと思ったが、やっぱり抜けてるな」
「何がだ」
源三は不敵な笑みを浮かべて言った。
「おまえ達は『死人に口なし』って言葉を知ってるか? 死んだ人間が証言するはずがないし、死んだ人間の言葉なんて証拠になるはずがないんだ。そんなことも分からないのか」
すると今度は源三の言葉を聞いた刑事が不敵な笑みを浮かべた。
「それはどうかな? 先生、あれをお願いします」
老人は傍らの机の引き出しから一枚の紙を出して源三の前に差し出した。同時にもう一人の刑事も胸元から一枚の紙をだして源三に突き付けた。
「な、何なんだよこれは」
刑事は胸を張って言った。
「これはこの女性の『死亡診断書』だ。そしてこっちが『死亡届』だ。これにどんな意味があるか分かるか?」
「なんだよ。どんな意味があるんだ」
「よく聞け。『死亡診断書』がここにあるということは、この女性の死は証明されていない。そして『死亡届』がここにあるということは、この女性の死は認められていないのだ。いいか。つまり、この二つが提出されずにここにあるということは、この女性は法律上はまだ生きているということなんだ。万が一を考えて先生に提出を待ってもらっていたんだ。だから今の証言は有効なんだ。どうだ? この国の法律もまんざらじゃないだろう」
源三の開いた口が閉じることはなかった。
―了―