第3話 言葉の海

文字数 4,056文字

 いつだったか忘れたが、『言葉の海』という単語を聞いた記憶がある。あまりに昔のことなのではっきりとは思い出せないが、なぜだか耳から離れない。現実にそんなものがあるとは思えず、誰かの小説の一文だろうと思っていたのだが、私は今間違いなく『言葉の海』を目の前にしている。
 米寿を前にした老体はついついまどろむことが多く、現実と虚構の世界の区別がつかず、これも夢の続きかと思うのだが、今私の前に広がる海は、確かに私が慣れ親しんだ故郷の海に似ている。いや、あの海そのものかもしれない。

 どこまでも続く砂浜に打ち寄せる波。それはあくまで穏やかで聞こえる音も優しい。海は全くの蒼色そのもので、遠く水平線を見渡せば、どこまでが海でどこからが空なのか分からないほどだ。辺りを見回しても防風用の松並木は見えず、人工物らしき物も目に入らない。

 その蒼い海に目を凝らすと多くの『言葉』が漂っているのである。その数は無数と言っても良いくらいで、透き通った海中にもゆらゆらと影が見えることから、とんでもない数の『言葉』が漂っていることになる。
 私はよろよろと立ち上がり、杖を頼りに歩き出した。足元は細かな砂で、足を取られるような感覚だが転んでしまうほどではない。慣れれば上等の羽毛布団の上を歩いているような気持になる。

 波打ち際まで行くと、遠くから打ち寄せる波に乗って『言葉』もやって来る。そして砂浜に波が駆け上がり、引いて行く時に幾つかの『言葉』を残していく。

 私は幾つか砂に埋もれている『言葉』を拾い上げてみた。

【嫌だ】

 もう一つ拾い上げてみた。

【嘘だろう】

 私には全く意味が分からない。もっと他にはないのかと探してはみるが、【無理】とか【分からない】【知らない】など、否定的な言葉しか見つけられない。

 ようやく【愛している】という『言葉』を見つけた時は、思わず「やった」と叫んでしまった。
 これらの『言葉』は一体どこからやって来るのだろう。分からないまま歩みを進めると、初めて固有名詞が出て来た。拾い上げた『言葉』は【恵理子】だった。
 恵理子。確か若い頃にそんな名前の女性としばらく付き合ったような気がするが、今や覚える量より忘れる量の方が多い私の頭脳では、正確な所は出て来ない。

 事実、その後幾つか拾った名前を示す『言葉』で思い返すと、【勇吉】は確か幼馴染だったはずである。【正志】は……これも良く思いだせないが、多分大学時代の上級生だったと思うのだが、所詮はこの程度なのである。

 私は自分の適当さ加減に、つい笑ってしまっていた。

 他にも昔の記憶に繋がる『言葉』は無いか探していると、相変わらず【嫌だ】【勝手にしろ】【嘘に決まっている】など、あまり宜しくない『言葉』の中に、【君だけを】とか【世界で一番】などの『言葉』が出てくるようになった。
 私は拾い上げた言葉をポケットに仕舞いながら考えていた。これらの言葉にどんな意味があるのだろう。そしてこれらの言葉はどこから流れて来るのだろう。さらには誰が海に投じているのだろう。
 そんな事を考えている間も、波は相変わらず穏やかで、寄せて来る度に幾つかの『言葉』を残していく。文章ではないので意図する内容は全く分からないが、どこか私に関係しているような気がしていた。


 そんな私に遠くの方に小さな船の影が見えた。
 遥か遠くに見えるので船であるのは分かるのだが、その大きさとか色、人が乗っているのかいないのか、全く分からなかった。
 しかしその船は随分と速いようで、みるみるうちにこちらに近づいてくる。やがて私にもその船の全貌が見えてきた。

 その船は江戸時代に『渡し』に使われたような和船で、細長い形をしている。木製ではあるのだろうが、濃い茶色は後から塗られたもののように思える。

 そしてその船には一人の男が乗っていた。
 背の高いひょろっとした男で、全身を白い服で包んでいる。見た感じは香港映画の功夫の達人が着るようなデザインで、日本のものとは思えない。しかも立ったまま長い棒を持っていて、おそらくこの棒で操船するのだと思った。

 男の顔は薄く化粧したように白く、唇の赤が妙に目立つ。細い目、細い眉に通った鼻筋からは冷たい感じがするが、見ようによっては美男子の部類かもしれない。

 男は私の目の前の砂浜に船を着けると言った。

「お待たせしました」

 私は何のことだか分からず、つい尋ねてしまっていた。

「貴方は誰ですか?」

 男は細い目を更に細くして笑って言った。

「私は黄泉の使いです」
「黄泉の使い? 黄泉の使いが私に何の用ですか」
「貴方を黄泉の国へお連れします」

 私はようやく自分にめぐって来た最後の時を知った。

「じゃあ、私はもうすぐ死ぬのですか?」

 男は笑みを浮かべたまま頷いていた。
 この歳になると人間、死への恐怖は半減する。いつそうなってもいいような覚悟が出来るのだろう。実際に私も特に驚くようなことにはならなかった。

「そうですか。ついに私も呼ばれるのですか」

 いくら覚悟はしていたとは言え、さすがに気持ちは萎えていく。私は落ちこまないようにと敢えて彼に尋ねてみた。

「一つ教えてもらってもいいですか」
「何でしょう」
「この海に漂っている『言葉』にはどんな意味があるのでしょうか」
「意味?」
「そうです。何だか私に関係がありそうな『言葉』ばかりなんですよ」

 男は細い目を少しばかり大きく開いて私に言った。

「ここに浮かんでいる『言葉』は、貴方が生まれて今日まで口にした『言葉』の全てです。あなたが一生の間に口にした『言葉』が漂っているのです」

 私はそう言われて、何となく理解出来た。しかし幾つかの疑問も浮かんだ。

「私の『言葉』としたら何か釈然としませんね」
「どうしてでしょう」
「【嫌だ】とか【分からない】【知らない】なんて『言葉』が山のようにあったのですが、あれはどうしてでしょう。そんなに言いましたか?」

 男は困った顔を見せた。

「この海の『言葉』は嘘をつきません。貴方の『言葉』に【嫌だ】とか【知らない】などが多いという事は、貴方は昔からそう言って何事も否定し、嫌な事から逃げていたのではありませんか? どうやら貴方は無意識に口に出していたようですから、相当逃げ回ったのではありませんか?」

 私の体が羞恥心で火照るのが分かった。その通りだったのである。私は、学生時代はもちろん、社会人になってからも何につけても適当に言い訳をして嫌な事から逃げていたからである。

「参りましたね。まさかこんな所で昔が暴露されるなんて」

 私が小さくなっていると、男は追い打ちをかけるように厳しい目で言った。

「一つ教えてあげましょう」
「何ですか?」

 男は波打ち際に散らばる『言葉』を指差して言った。

「このように流れ着く『言葉』は軽いから流れて来るのです」
「軽い?」
「そうです。心のこもらない軽い気持ちで言った『言葉』が流れ着くのです」

 私は何も言えなくなった。あの【愛している】とか【君だけを】などの言葉には気持ちがこもっていなかったということになる。しかし、その通りだったかもしれない。
 酒の勢いを借りて心にもない告白をして女性の気を引き、飽きたら捨てる。そんな自堕落な日々を過ごしたのも嘘とは言い切れない。私は猛省するしかなかった。

 しかし男はまた元のように穏やかな表情に戻ると、優しく慰めてくれた。

「でも、もう人生の清算は済んでおられるでしょうから、今さらお考えになる必要も無いでしょう」

 私もそうだと思った。そうあって欲しいと思った。

 私は男に言われるまま船に乗り込んだ。男は私が船にある椅子に腰を下ろすのを見届けると、あの長い棒で砂浜をゆっくりと押した。船もゆっくりと砂浜を離れるのだった。
私は離れ行く砂浜を眺めながら訊いた。

「この海にはどれくらいの『言葉』が漂っているのでしょうか」

 男は棒を操りながら答えた。

「貴方の一生分ですからね。相当なものでしょう」
「そうですか。じゃあもう一つ質問しても良いですか?」
「何でしょう」
「一番多い『言葉』は何でしょうね? 私が一生の間に一番多く口にした言葉は何なのでしょう」

 男は先ほど見せてくれた柔らかな笑みで答えてくれた。

「その質問はどなたもされますが、答えは皆ほとんど同じです。皆さん同じ『言葉』を口にされていたようですね」
「へぇ、そうなのですか。それは何ですか?」

 男は笑みを浮かべたまま言った。

「先ほど、軽い『言葉』は流されると言いましたが、反対に重い言葉もあります。貴方の思いがこもった心からの『言葉』です」
「そんな『言葉』があるんだ! 教えてください」

 男は持っていた棒で海の底をそっとかき回して、やがて一つの言葉を引っ張り上げた。

「重い『言葉』は海の底に沈んでいるのですよ。さぁ、そしてこれが貴方の一生のうちで一番多く口にした『言葉』です」

 私は胸をときめかせて、その言葉を手にした。

【母さん】

「こ、これが私や、他の人も含めて一番多く口にした言葉ですか?」
「そうです。その『言葉』を口にしてみてください。その重さがわかりますよ」
「母さん……」

 もっと他にも『言葉』は沢山あると思うのだが、この言葉が一番だなんて……しかし、その言葉の響きに、何故だか私の目に涙が溢れていた。

 船はいつの間にかかなりの速さで、海の上を滑るように進んで行く。やがて私のはるか前方に小さな光の粒が現れたかと思うと。それはどんどん近づいてくる。そしてその光の粒が大きくなり私を包むと、その中に二つの人影が見えてきた。

「か、母さん!」

 その時私は、私の姿が米寿を目前にした老人ではなく、中学生を思わす私の姿である事に気がついた。そして光の中の母さんも、当時の若い母さんのままだった。更にその後ろには懐かしい父さんの姿もあった。
 私は海の上である事を忘れて二人の方に駆けだしていた。

 白い服の男の顔はこれ以上ないほど優しかった。

                               ―了―
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