第9話 海に行きたい!
文字数 3,036文字
源三はごく普通の日本人であった。ごくあたりまえの家庭に生まれ人並みの教養を身につけ、中堅どころの商社ではあったが、大学を卒業後新卒で採用され、美人ではないがよく気がつく妻と二人の子供に恵まれ、今年の春、念願だったマイホームも手に入れた。
性格的には温厚で、何人かいる部下にも慕われ、もちろん若い頃には感情の思うままムチャもしたが、今では理想の上司であった。
バクチもやらないし、毎晩飲み歩くこともなく、まったく平凡そのものの人生を歩んできたのだった。彼の趣味と言えば、ネット配信の野球中継をビール片手に「あーでもない」「こーでもない」と、自己流の解説を入れながら観戦することであった。
その日彼はいつものようにビールを片手に、ひいきチームが負けていることに、これもいつものように、あーでもない、こーでもないと、誰に対して話すでもなく一人ぶつぶつ言っていた。
妻は、またいつもの癖と、平凡な夫に対して多少の物足りなさを感じながらも、「これでいいのよ。この平凡さがなによりも幸せなの」と自分に言い聞かせつつ、夕食の支度をすすめていた。
キッチンで動き回っているうち、妻はテレビを見ている夫がやけに静かだと気がついた。さっきまで、いつものタメ口がここまで聞こえていたのに、どうしたのだろうか。妻は手を止め、夫に声をかけてみた。
「あなた? いらっしゃらないの」
返事は返ってこなかった。妻はなにかしらの不安にかられ、居間をのぞいた。そこには間違いなく夫が座っていた。
「あなた! あなた! 聞こえないの」
彼は、妻の声が聞こえているのかいないのか、ぼーっと宙をみつめたままだった。
「あなた! しっかりして」
そういうと妻は彼の体を何度か強くゆすった。
「えっ? おっ!」
彼はやっと正気になったようで、妻の顔を見て言った。
「俺はどうしたんだ?」
源三はまるで夢からさめたような顔をしてそう答えた。
「しっかりしてください。まだ虚ろになる年でもないでしょう。一体どうしたんです?」
彼は目を閉じ妻に言った。
「野球を見ていたら、ちょうど外野席の部分がアップになったんだ。そうしたら、何処かのの化粧品メーカーの看板みたいのが見えて、そこに海の画像があったんだ」
「それで、その海の画像がどうかしたんですか?」
「いや、特別なものじゃないとは思うんだが、その看板を見たとたんに行きたくなって」
「行きたくなったって、海ですか?」
妻は目を丸くした。なぜなら、源三は泳げないのである。それよりも何よりも極度の水恐怖症なのである。小さい頃に何があったかは知らないが、海とかプールとかの類は全くといっていいほど苦手だったからである。
「あなたが海へ行きたいなんて、子供達が聞いたら大喜びよ、いつもパパと海に行きたい、プールに行きたいとか言っても、全然相手にしていなかったでしょ? でも突然、変なことを言うのね。あら?」
そこまで言うと妻はふと、自分自身にも抑えきれないもやもやした感情が生まれているのに気がついた。
「あなたがそんな事を言うからかしら、何だか私も海へ行きたくなってきたんだけど、どういうことかしら?」
「そうだろう。不思議と海へ行きたくて仕方がないんだ。何故と問われても答えられないけど、海へ行きたいんだ」
そのとき、電話が鳴った。彼が受話器を取ると、相手は実家の母親だった。
「源三かい? ああ、ちょうどよかった。あんた今忙しいかい」
「いや、そういうことはないけど」
「いや、あのね、変な話で申し訳無いけど」
「何? 早く言ってよ」
「笑って聞いてもらうと困るんだけど、実はさっきからお父さんが変なんだよ」
「どういうこと?」
「田んぼから帰ってくるなり、いきなり海へ行くとか言い出してね。最初のうちは私も冗談は大概にとか言っていたんだけど、自分でどんどん用意をし出すし、それを見ていた私までなにか海へ行きたくなってね。それで結局、おまえの所も誘って全員で行こうということになったのさ」
彼にはそれを拒むことはできなかった。すでに頭の中は、海のことで満ち溢れていたのである。
翌日の早朝、彼の家族と両親を乗せた車はそろって海に向かう道を走っていた。初夏とはいえ、まだ海水浴には早い時期である。道は空いているはずなのだが、なんと大渋滞をおこしていた。彼らのように家族連れや、恋人同志がこぞって海を目指していたのである。
一人で車を運転している者もいれば、一台の自転車に三人乗って汗をかいている中学生ぐらいのグループもあった。全てに共通していることは、みんなひたすら海を目指していたということであった。
「なんてことだ。こんなに道が混むなんて」
後部座席で源三の両親に挟まれていた小学二年の長男は「まだ着かないのか」と、ぐずりはじめている。
しかし車は全く動こうとはせず。ラジオからはとんでもない渋滞が発生していると、何度も繰り返していた。ついに我慢の限界まで来た源三は叫んだ。
「車を降りるぞ! ここからだと、そこの草むらを抜ければ海はすぐそこだ」
家族の誰一人反対する者はいなかった。
源三を先頭に腰辺りまで伸びている草むらをかき分けるように歩いていると、彼等と同じ考えを持った連中も多いのか、何十人もの人がこぞって草の海を歩いている。大人から子供まで、みんな同じであった。真っ直ぐ前を見て何も語らず、黙々と歩いて行くのである。
やがて源三達にも波の音が聞こえ始めたかと思うと、目の前に広い海岸が現れた。誰からともなく歓声が上がった。
「海だ!」
そう言って駆けだす源三や彼の妻、子供達だったが、走って海を目指したのは彼等だけではなかった。海岸一杯に人が溢れているのである。見渡す限り人、人、人……恐ろしくなるほどの数であった。
そして波打ち際まで走って行った人々は、躊躇せず海の中に飛び込んで行った。何百、何千、いや何万という数の人間が海に向かって飛び込んで行くのである。当然、あまりの人の数で海岸線は足の踏み場も無くなるのだが、それでも人間達は目を血走らせて、我も我もと身を躍らせて行くのである。
いつしか波打ち際には溺れ死んだ者、あるいは踏みつぶされた者達の無残な姿で目も当てられない状態になった。それでもその上を人間は飛び越えて海に飛び込んで行ったのであった。
そんな筆舌に尽くしがたい惨状を、遥か宇宙空間から観ている者達がいた。
銀色の円盤の中で茶色のグニャグニャした塊が、宙に浮きながらモニターに映されている海岸沿いの人間達を観ていた。
「大成功だな」
もう一つの塊がふわふわ飛んできて、隣で言った。
「司令官殿、さすがです。これで我々がこの星を侵略する時間が大幅に短縮されました」
「ふふふ……そうであろう」
「しかし、どのような手を使われたのですか? 催眠術のようなものでしょうか」
司令官と呼ばれた最初の塊は、ぶよぶよと姿を変えながら答えた。
「なあに簡単な事だ。三日ほど前……この星にしてみれば三百万年ほど前になるが、この星の『サル』という生物が『ヒト』という生物に進化する時、私はある別の生き物の遺伝子を埋め込んでやっただけだ」
「ほほう、ではその遺伝子が覚醒したのですね。ではその遺伝子とは?」
「うむ、この哀れな生き物たちの単語でいうとレミング(注)だったかな」
地球上の全ての『ヒト』が海に飛び込むには、あと三カ月が必要だった。
(注)一部伝承あり
―了―
性格的には温厚で、何人かいる部下にも慕われ、もちろん若い頃には感情の思うままムチャもしたが、今では理想の上司であった。
バクチもやらないし、毎晩飲み歩くこともなく、まったく平凡そのものの人生を歩んできたのだった。彼の趣味と言えば、ネット配信の野球中継をビール片手に「あーでもない」「こーでもない」と、自己流の解説を入れながら観戦することであった。
その日彼はいつものようにビールを片手に、ひいきチームが負けていることに、これもいつものように、あーでもない、こーでもないと、誰に対して話すでもなく一人ぶつぶつ言っていた。
妻は、またいつもの癖と、平凡な夫に対して多少の物足りなさを感じながらも、「これでいいのよ。この平凡さがなによりも幸せなの」と自分に言い聞かせつつ、夕食の支度をすすめていた。
キッチンで動き回っているうち、妻はテレビを見ている夫がやけに静かだと気がついた。さっきまで、いつものタメ口がここまで聞こえていたのに、どうしたのだろうか。妻は手を止め、夫に声をかけてみた。
「あなた? いらっしゃらないの」
返事は返ってこなかった。妻はなにかしらの不安にかられ、居間をのぞいた。そこには間違いなく夫が座っていた。
「あなた! あなた! 聞こえないの」
彼は、妻の声が聞こえているのかいないのか、ぼーっと宙をみつめたままだった。
「あなた! しっかりして」
そういうと妻は彼の体を何度か強くゆすった。
「えっ? おっ!」
彼はやっと正気になったようで、妻の顔を見て言った。
「俺はどうしたんだ?」
源三はまるで夢からさめたような顔をしてそう答えた。
「しっかりしてください。まだ虚ろになる年でもないでしょう。一体どうしたんです?」
彼は目を閉じ妻に言った。
「野球を見ていたら、ちょうど外野席の部分がアップになったんだ。そうしたら、何処かのの化粧品メーカーの看板みたいのが見えて、そこに海の画像があったんだ」
「それで、その海の画像がどうかしたんですか?」
「いや、特別なものじゃないとは思うんだが、その看板を見たとたんに行きたくなって」
「行きたくなったって、海ですか?」
妻は目を丸くした。なぜなら、源三は泳げないのである。それよりも何よりも極度の水恐怖症なのである。小さい頃に何があったかは知らないが、海とかプールとかの類は全くといっていいほど苦手だったからである。
「あなたが海へ行きたいなんて、子供達が聞いたら大喜びよ、いつもパパと海に行きたい、プールに行きたいとか言っても、全然相手にしていなかったでしょ? でも突然、変なことを言うのね。あら?」
そこまで言うと妻はふと、自分自身にも抑えきれないもやもやした感情が生まれているのに気がついた。
「あなたがそんな事を言うからかしら、何だか私も海へ行きたくなってきたんだけど、どういうことかしら?」
「そうだろう。不思議と海へ行きたくて仕方がないんだ。何故と問われても答えられないけど、海へ行きたいんだ」
そのとき、電話が鳴った。彼が受話器を取ると、相手は実家の母親だった。
「源三かい? ああ、ちょうどよかった。あんた今忙しいかい」
「いや、そういうことはないけど」
「いや、あのね、変な話で申し訳無いけど」
「何? 早く言ってよ」
「笑って聞いてもらうと困るんだけど、実はさっきからお父さんが変なんだよ」
「どういうこと?」
「田んぼから帰ってくるなり、いきなり海へ行くとか言い出してね。最初のうちは私も冗談は大概にとか言っていたんだけど、自分でどんどん用意をし出すし、それを見ていた私までなにか海へ行きたくなってね。それで結局、おまえの所も誘って全員で行こうということになったのさ」
彼にはそれを拒むことはできなかった。すでに頭の中は、海のことで満ち溢れていたのである。
翌日の早朝、彼の家族と両親を乗せた車はそろって海に向かう道を走っていた。初夏とはいえ、まだ海水浴には早い時期である。道は空いているはずなのだが、なんと大渋滞をおこしていた。彼らのように家族連れや、恋人同志がこぞって海を目指していたのである。
一人で車を運転している者もいれば、一台の自転車に三人乗って汗をかいている中学生ぐらいのグループもあった。全てに共通していることは、みんなひたすら海を目指していたということであった。
「なんてことだ。こんなに道が混むなんて」
後部座席で源三の両親に挟まれていた小学二年の長男は「まだ着かないのか」と、ぐずりはじめている。
しかし車は全く動こうとはせず。ラジオからはとんでもない渋滞が発生していると、何度も繰り返していた。ついに我慢の限界まで来た源三は叫んだ。
「車を降りるぞ! ここからだと、そこの草むらを抜ければ海はすぐそこだ」
家族の誰一人反対する者はいなかった。
源三を先頭に腰辺りまで伸びている草むらをかき分けるように歩いていると、彼等と同じ考えを持った連中も多いのか、何十人もの人がこぞって草の海を歩いている。大人から子供まで、みんな同じであった。真っ直ぐ前を見て何も語らず、黙々と歩いて行くのである。
やがて源三達にも波の音が聞こえ始めたかと思うと、目の前に広い海岸が現れた。誰からともなく歓声が上がった。
「海だ!」
そう言って駆けだす源三や彼の妻、子供達だったが、走って海を目指したのは彼等だけではなかった。海岸一杯に人が溢れているのである。見渡す限り人、人、人……恐ろしくなるほどの数であった。
そして波打ち際まで走って行った人々は、躊躇せず海の中に飛び込んで行った。何百、何千、いや何万という数の人間が海に向かって飛び込んで行くのである。当然、あまりの人の数で海岸線は足の踏み場も無くなるのだが、それでも人間達は目を血走らせて、我も我もと身を躍らせて行くのである。
いつしか波打ち際には溺れ死んだ者、あるいは踏みつぶされた者達の無残な姿で目も当てられない状態になった。それでもその上を人間は飛び越えて海に飛び込んで行ったのであった。
そんな筆舌に尽くしがたい惨状を、遥か宇宙空間から観ている者達がいた。
銀色の円盤の中で茶色のグニャグニャした塊が、宙に浮きながらモニターに映されている海岸沿いの人間達を観ていた。
「大成功だな」
もう一つの塊がふわふわ飛んできて、隣で言った。
「司令官殿、さすがです。これで我々がこの星を侵略する時間が大幅に短縮されました」
「ふふふ……そうであろう」
「しかし、どのような手を使われたのですか? 催眠術のようなものでしょうか」
司令官と呼ばれた最初の塊は、ぶよぶよと姿を変えながら答えた。
「なあに簡単な事だ。三日ほど前……この星にしてみれば三百万年ほど前になるが、この星の『サル』という生物が『ヒト』という生物に進化する時、私はある別の生き物の遺伝子を埋め込んでやっただけだ」
「ほほう、ではその遺伝子が覚醒したのですね。ではその遺伝子とは?」
「うむ、この哀れな生き物たちの単語でいうとレミング(注)だったかな」
地球上の全ての『ヒト』が海に飛び込むには、あと三カ月が必要だった。
(注)一部伝承あり
―了―