第5話 体調不良
文字数 2,089文字
源三は会社の自分のデスクに着くと、思わず大きな伸びをしてしまった。それを見た同僚が声をかけた。
「どうした。随分疲れているみたいじゃないか」
「ああ、ここ一週間ぐらい体が重くてな」
「疲れが溜まっているんじゃないか?」
確かに十日ほど前から夏の暑さも本格化し、昨年に比べても日差しは強く感じられる。しかも夜は連日の熱帯夜で、寝苦しいことこの上なかった。
源三はそれでも平気な顔をしている同僚に尋ねた。
「おまえは、どうしていつもそんなに丈夫なんだ? 去年も平気な顔をしていたろう」
彼は笑って答えた。
「何言ってんだよ。夏場は稼ぎ時じゃないか。今稼がなかったら、いつ稼ぐんだ?」
彼等の仕事は営業である。それぞれに担当するエリアがあって、その中で基本的にはルート営業なのだが、最近の不景気からエリア内の飛び込み営業の比率も高くなっていたのだった。
「おまえには営業の天性の才能があるからいいけど、俺なんか元々はエンジニアだったんだぞ。そんな営業スキルなんて最初から無いんだからな」
思わずぼやく源三を同僚は慰めていた。
「そう言うなよ。俺だって疲れている時はドロのように眠るんだから、誰だって全てが万事上手く行くわけがないさ」
「まあ、そう言われるとそうかもな」
二人がそんな話でお互いを慰め合っていると、課長が源三を呼んだ。
「ちょっと、来てくれ」
源三は、今日は何を言われるのかと肩を小さくして課長の前に立った。
課長は手元の資料を、眼鏡越しに目を細めて見て言った。
「君、先月の新規が五軒とはどういうことだ? 他は皆、平均十軒は取ってるぞ」
「いや、あの、それは……」
源三は痛い所を突かれたと言葉に詰まった。
「しかし課長。その分既存先では、去年に比べて百五十パーセントも伸ばしてますよ。そこは評価して頂かないと」
課長は眼鏡の奥の目をさらに細くして言った。
「それは認める。しかし、今の我が社の目標は分かってるだろう。全社一丸となって新規獲得に走っているんだ。君一人が現状のままというのも、ただの数字合わせに取られても仕方がないぞ」
「はあ、それは重々承知しておりますが……」
返す言葉の無い源三に課長がさらに追い打ちをかけるように言った。
「このままじゃ担当エリアを変えなきゃならないな」
「えっ! それは待ってください。困ります」
慌てふためく源三を尻目に、課長はパソコンを操作しだした。
「そうだな……いっそのこと五反田辺りを担当してみるか」
「五反田! あそこは勘弁してください」
「どうして? 客単価は大きいぞ。一つ新規を取れば相当な成績になる」
「でも人間性が……」
「人間性? 何を言ってるんだ。そんな選べるような立場だと思っているのか」
「いや……」
源三には何も言えなかった。しかし課長は冷酷に言った。
「五反田が嫌なら町田だな」
「えー!」
源三はうな垂れてしまった。町田も客単価は大きいのだが、五反田以上に源三とは反りの合わない顧客ばかりのエリアであった。
「あそこも駄目、ここも嫌だ。君は仕事をする気持ちがあるのかね」
課長はついに怒り出してしまった。源三は仕方なく今の体調の話を口にした。
「実は課長、ここしばらく体調が良くなくて、体がやけに重いのです。仕事に出ても何か積極的になれないのです」
「そんなに悪いのか? 風邪か」
「いや分かりません。原因が分からないので余計に億劫になるんです」
課長は手元の資料に目を戻して「うーん」と唸っていた。
「確かに、八王子の市場でこの数字はおかしいとは思ってはいたが、体調が悪い状態だと分からん数字でもないな」
源三は、少しは風向きが変わったと、内心喜んでいた。
「そうですよ。こんな体調じゃ西多摩とか青山のような巨大市場でも満足な数字は残せないと思いますよ」
課長は源三の顔をじっと見て言った。
「最近、検査を受けたか?」
「はい? 検査ですか。も、もちろんですよ」
源三の会社では三カ月に一度、健康診断を受けなければならなかった。しかし彼はここ半年、面倒臭いことから検査を受けてはいなかったのである。
源三の不自然な態度に違和感を覚えた課長は、引き出しから鏡を出すと源三の前に置いて言った。
「私の前で鏡を覗いてみたまえ」
源三は恐る恐る鏡を取り上げると、自分の顔を映してみた。疲れた青白い顔が写っていた。それを見た課長の目がつり上がった。
「なんだ君は! 鏡に映ってるじゃないか。もしかして君は生きているんじゃないか?」
「そ、そんな、まさか……」
源三は明白な証拠を突きつけられた犯人のように震え上がっていた。
「君は我が社の仕事をまだ理解していないのか! 我々はこの世に執着している浮遊霊達を言葉巧みにあの世に送るのが仕事なんだぞ。そんな生きたままの姿で、仕事なんか出来ると思っているのか」
課長はもう怒りを通り越して呆れ果てていた。そして哀れな目で源三を見て言った。
「まあ、今回は大目に見てやる。とにかく早く、とっとと死んで来い!」
彼の周りには、足の無い同僚達がふわふわと浮いていた。
―了―
「どうした。随分疲れているみたいじゃないか」
「ああ、ここ一週間ぐらい体が重くてな」
「疲れが溜まっているんじゃないか?」
確かに十日ほど前から夏の暑さも本格化し、昨年に比べても日差しは強く感じられる。しかも夜は連日の熱帯夜で、寝苦しいことこの上なかった。
源三はそれでも平気な顔をしている同僚に尋ねた。
「おまえは、どうしていつもそんなに丈夫なんだ? 去年も平気な顔をしていたろう」
彼は笑って答えた。
「何言ってんだよ。夏場は稼ぎ時じゃないか。今稼がなかったら、いつ稼ぐんだ?」
彼等の仕事は営業である。それぞれに担当するエリアがあって、その中で基本的にはルート営業なのだが、最近の不景気からエリア内の飛び込み営業の比率も高くなっていたのだった。
「おまえには営業の天性の才能があるからいいけど、俺なんか元々はエンジニアだったんだぞ。そんな営業スキルなんて最初から無いんだからな」
思わずぼやく源三を同僚は慰めていた。
「そう言うなよ。俺だって疲れている時はドロのように眠るんだから、誰だって全てが万事上手く行くわけがないさ」
「まあ、そう言われるとそうかもな」
二人がそんな話でお互いを慰め合っていると、課長が源三を呼んだ。
「ちょっと、来てくれ」
源三は、今日は何を言われるのかと肩を小さくして課長の前に立った。
課長は手元の資料を、眼鏡越しに目を細めて見て言った。
「君、先月の新規が五軒とはどういうことだ? 他は皆、平均十軒は取ってるぞ」
「いや、あの、それは……」
源三は痛い所を突かれたと言葉に詰まった。
「しかし課長。その分既存先では、去年に比べて百五十パーセントも伸ばしてますよ。そこは評価して頂かないと」
課長は眼鏡の奥の目をさらに細くして言った。
「それは認める。しかし、今の我が社の目標は分かってるだろう。全社一丸となって新規獲得に走っているんだ。君一人が現状のままというのも、ただの数字合わせに取られても仕方がないぞ」
「はあ、それは重々承知しておりますが……」
返す言葉の無い源三に課長がさらに追い打ちをかけるように言った。
「このままじゃ担当エリアを変えなきゃならないな」
「えっ! それは待ってください。困ります」
慌てふためく源三を尻目に、課長はパソコンを操作しだした。
「そうだな……いっそのこと五反田辺りを担当してみるか」
「五反田! あそこは勘弁してください」
「どうして? 客単価は大きいぞ。一つ新規を取れば相当な成績になる」
「でも人間性が……」
「人間性? 何を言ってるんだ。そんな選べるような立場だと思っているのか」
「いや……」
源三には何も言えなかった。しかし課長は冷酷に言った。
「五反田が嫌なら町田だな」
「えー!」
源三はうな垂れてしまった。町田も客単価は大きいのだが、五反田以上に源三とは反りの合わない顧客ばかりのエリアであった。
「あそこも駄目、ここも嫌だ。君は仕事をする気持ちがあるのかね」
課長はついに怒り出してしまった。源三は仕方なく今の体調の話を口にした。
「実は課長、ここしばらく体調が良くなくて、体がやけに重いのです。仕事に出ても何か積極的になれないのです」
「そんなに悪いのか? 風邪か」
「いや分かりません。原因が分からないので余計に億劫になるんです」
課長は手元の資料に目を戻して「うーん」と唸っていた。
「確かに、八王子の市場でこの数字はおかしいとは思ってはいたが、体調が悪い状態だと分からん数字でもないな」
源三は、少しは風向きが変わったと、内心喜んでいた。
「そうですよ。こんな体調じゃ西多摩とか青山のような巨大市場でも満足な数字は残せないと思いますよ」
課長は源三の顔をじっと見て言った。
「最近、検査を受けたか?」
「はい? 検査ですか。も、もちろんですよ」
源三の会社では三カ月に一度、健康診断を受けなければならなかった。しかし彼はここ半年、面倒臭いことから検査を受けてはいなかったのである。
源三の不自然な態度に違和感を覚えた課長は、引き出しから鏡を出すと源三の前に置いて言った。
「私の前で鏡を覗いてみたまえ」
源三は恐る恐る鏡を取り上げると、自分の顔を映してみた。疲れた青白い顔が写っていた。それを見た課長の目がつり上がった。
「なんだ君は! 鏡に映ってるじゃないか。もしかして君は生きているんじゃないか?」
「そ、そんな、まさか……」
源三は明白な証拠を突きつけられた犯人のように震え上がっていた。
「君は我が社の仕事をまだ理解していないのか! 我々はこの世に執着している浮遊霊達を言葉巧みにあの世に送るのが仕事なんだぞ。そんな生きたままの姿で、仕事なんか出来ると思っているのか」
課長はもう怒りを通り越して呆れ果てていた。そして哀れな目で源三を見て言った。
「まあ、今回は大目に見てやる。とにかく早く、とっとと死んで来い!」
彼の周りには、足の無い同僚達がふわふわと浮いていた。
―了―