第25話 一流の証

文字数 2,540文字

 朝、源三が起きると体は重く、頭もしびれるような感覚があった。考えてみれば、ここ一ヵ月の間は仕事が忙しく、毎晩が徹夜のような日々が続いていた。大学を卒業して就職し、まだまだ新人だと先輩や上司に揶揄されながらも五年の月日が過ぎていた。

 源三は寝ぼけ眼で洗面台まで行き、鏡に映った自分の顔を見た。こころなしか目の下にクマが出来ているようにも見える。

「ああ、俺もかなり疲れているな。休暇でもとろうかな?」

 彼が独り言をつぶやき、歯ブラシを取ろうとした時、伸ばした手が思わず止まった。

「おや?」

 源三は何度か瞬きをし、そしてもう一度右手を歯ブラシの方に伸ばしてみた。

「何だ、これは?」

 彼が右手を動かすと、ほんのわずかではあるが右手が二重に重なって見えたのである。それはまるで壊れる寸前のテレビのように、輪郭とは少しズレて見えるゴースト現象のようでもあった。

「かなり疲れているようだな。モノが二重に見える。こりゃあ本当に休暇が必要かもしれないぞ」

 彼はそう思いながら身支度をし、朝の街に出た。
 しかし、一歩玄関を出たとたん、彼は言葉を失った。全ての物が二重にブレて見えるのである。歩く人間はもちろん、走る車や空を飛ぶ鳥、風にそよぐ街路樹さえ、全てが二重に見えるのである。

「これはまずい! 悪い病気にでもなったかもしれない」

 そう思った彼は走るように玄関を戻り、自分の部屋に駆け込んだ。彼は電話で上司に連絡し、どうも体調が思わしくないので、とりあえず今日は休むことを伝えた。上司も連日の勤務には理解を示してくれ、すんなり認めてくれた。

 一人になった源三は、いつもの医者に行こうか。それともいきなり大きな病院にでも行こうかなどと、ベランダから二重に見える外の景色を眺めていた。そのうち、彼はあることに気が付いた。

「あれ? 人や車は二重に見えるのに、ポストやブロック塀はまともに見える」

 これに気づいた源三は街のあちこちを注視し、一つの規則性があることが分かった。

「そうか。どうやら動く物は二重に見えて、静止している物はまともに見えるようだ」

 彼は洗面台の前に行き、動かずにまっすぐ立ってみた。まともに見える。次に右手をそっと上げてみた。わずかだが二重に見えた。

「やっぱりだ。動いている物は二重に見えるんだ」

 彼は鏡の前で腕を上げたり、首を捻ったり、様々なポーズを取ってみた。その結果、彼は自分が今どういう状況になっているのかがおぼろげながら分かってきた。
 源三はそれを確かめようと、机の引き出しをひっくり返してある物を探し出した。祖父の形見の腕時計で、昔ながらのゼンマイ巻き、長針と短針、そして秒針が規則正しく動くタイプのモノであった。

 源三はゼンマイを巻き、文字盤の上を動く秒針をじっと見つめた。動いている秒針は当然二重に見えている。一本は間違いなく本来の秒針、そしてほとんど重なるようにもう一本、多少薄くではあるが確かに見える。そしてその間隔はちょうど一秒分であった。しかも先行しているのである。

「どうやら、俺は一秒先が見えるようになったらしいぞ」

 源三は鏡の前にとって返すと、またまっすぐ立ち、何度か腕を上げ下げしてみた。

「なるほど、こういうことだったのか」

 源三には全てが理解できた。

 腕を上げようとすると、それより先に上がる腕のゴーストが見えてくる。何かをしようとすると、その一秒先の様子が見えていたのである。

「こういうことだったら、動かないものがまともに見えるのも分かるな」

 全てを納得した源三は改めて外に出てみた。

「あの車が二重に見えるのは、動いているからなんだ。それが証拠に路肩に駐車している車は何ともないじゃないか。だが、車によっては一秒先の見え方が違うな。あれは一メートルほど先に出ているし、こっちは五十センチほどだ。どういうことなんだ?」

 しかし、源三の疑問はすぐに解けた。

「なるほど、走っている速度が違うからだ。動きが速ければ速いほど一秒間の移動距離は大きくなるからな」

 源三は歩いて地下鉄の駅に向かった。自分も含めて、周りの人間が重なって見える。理屈が分かったとはいえあまり気分が良いものではない。次第に彼は船酔いに近い気分の悪さを感じていた。

 ホームから満員の電車に乗った源三は、さらに気分が悪くなった。電車が止まっている時は良かったのだが、いざ動き出すと、隣のサラリーマンから幽体離脱のように一秒先のこの男が抜け出て、速度を増すにつれて源三を素通りするように先に行ってしまうからだ。
 もちろん、源三自身の姿もそうである。電車が最高速に達した時などは、十人ほど離れている女子高校生がぴったり源三と重なってしまい、落ち着かないことこの上ない。しかも、満員であるので源三にしてみれば、誰が誰やら収拾がつかなくなっていた。

 そして、電車が次の駅に着くと、離れていた一秒先の姿はまたスーッと元に戻って行くのである。
 さすがにたまらなくなった源三はあわてて電車を下り、地上へ出ると何度も深呼吸をしてこの先自分はどうすればいいのか悩んだ。結局、彼が向かったのは上司の元であった。とにかく一度相談するしかないと思ったからだ。

「すいません。どうも自分は一秒先が見えるようになったようで、気分が悪くて仕方がありません。どうすればよいでしょうか?」

 源三のゲンナリした様子を見た上司は、なぜか嬉しそうに彼の肩を叩いた。

「そうか! やっとおまえもそうなったか。やっぱり俺が見込んだだけはある」

 源三には意味が分からなかった。しかし、上司はとんでもないことを口にして源三を慰めた。

「一秒ぐらいなんだ。俺なんかズーッと三秒先が見えているんだ」
「えっ! そうなんですか。自分より強烈じゃないですか。それでよく毎日生活できますね」
「まあな、最初は辛かったが慣れてしまえばどうってことないさ。しかし、こうなることは俺達の仕事の上ではすごく重要なことでもあるんだぞ。それにこうなることが一流の証でもあるんだ」
「なぜですか?」
「おまえぐらいの腕なら、一秒あればどんなミサイルも避けられるからな」

 彼らの仕事は戦闘機のパイロットだった。

            ー了ー


                  
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