第18話 無かった事にしよう
文字数 2,166文字
大変なことが起こってしまった。
ある田舎町の高校生が百メートル走で、七秒九八という人間離れした記録を作ってしまった。しかも、その翌日にはフルマラソンを一時間二八分という宇宙人並みの記録で走ってしまった。
陸上関係者やマスコミがこの高校生に殺到した。
「とんでもない記録ですね」
「あ、そスか?」
高校生は全く気にも留めていないようだった。
「この記録だと、世界選手権もオリンピックも金メダル確実ですよ!」
記者は興奮気味に叫ぶのだが、高校生は面倒臭そうに答えた。
「そんなの興味無いっス。世界選手権の頃は田んぼの草取りだし、オリンピックの頃は牛の種付けで忙しいんスよ」
「き、君は世界選手権より田んぼの草取りが、オリンピックより牛の種付けが大切だと言うのか!」
高校生は恐ろしい顔つきで記者を睨んだ。
「あたりまえじゃないスか! 田んぼの草を刈らんかったら米が獲れんでしょうが! 牛に種付けしなかったら子が増やせんでしょうが!」
高校生は憮然とした表情で競技場を去って行った。しかしこの高校生は一週間後に、またとんでもないことをやってのけた。
なんと水泳の二百メートル自由形で一分五秒という、頭を抱えるような記録を作ってしまったのである。しかも一度も息継ぎなしで。さらに百メートルバタフライで、三七秒という記録まで作ってしまった。
今度色めき立ったのは競泳関係者達だった。彼等は早速その高校生の所に行き、陸上関係者が失敗した勧誘は繰り返さないと、言葉を慎重に選んだ。
「どうだい? 世界水泳選手権に出ないか。その頃は田んぼの草取りも、牛の種付けも終わっているはずなんだが」
「そうスね。終わってますね」
「じゃあ、日の丸を背負って出場してくれるかな」
しかし高校生は悲しそうに答えた。
「やっぱ、駄目っスわ」
「どうして、何も予定はないだろう?」
「いや、今年は先の爺さんの三三回忌の法事なんスよ」
「法事? そんなの一日で終わるだろう」
高校生はさらに悲しそうに言った。
「うちの村の慣習じゃ、三三回忌は七日七晩かけるのが常識で、それをしなかったら末代まで祟られるんスよ」
高校生はさすがに申し訳なさそうにプールサイドを去って行った。
このスーパー高校生はその後も、体操の世界で滞空時間が一七秒もある大技を繰り出したかと思えば、フィギュアスケートで八回転、七回転、六回転の連続ジャンプを成功させてしまった。ありとあらゆる世界記録が次々と書き換えられていったのであった。
収まりがつかないのはこの国のスポーツ関係者達であった。確実に金が獲れる逸材が目の前にあるというのに、全く手も足もでないのである。
とうとう各競技の連盟や国、県、市を巻き込んでの大勧誘大会になってしまった。報奨金はあっという間に一億を超え、もうすぐ十億に届きそうである。もっとも目の色が変わっていた大学の体育系のスカウト達は、入学金、授業料の免除は当然のこととして、海外への留学や親元を離れた後の住居や、実家の面倒までみようという大学まで現れてしまった。
しかし、それでも高校生は動かなかった。
そんなこんなで世間がこの高校生に注目している間に、陸上界、水泳界、スケート界や体操界に微妙な空気が流れ始めた。
それまで世界記録を目指してがんばっていた選手達は、自分達がどれだけがんばってもあの高校生を超えることは出来ない。そしてどんなに自己記録を更新しても、世界記録として残ることは有り得ないとが分かると、練習はいい加減になり、各種大会参加者も激減し、みすぼらしい全国大会が続いたのである。
もう打つ手なしと考えた関係者は、ついに政治決着をつけようと有名政治家に頼むことにした。
「なんとかなりませんか」
「うーん」
「出れば確実に金ですよ」
「でも本人は出たくないんだろう」
「そうなんです。草取りだか法事だか言いましてね。金にもなびきません」
「家族を説得したらどうなんだ」
「駄目です。あの高校生以上に変わり者で、猪の血を飲まされそうになりました」
「うーん」
政治家は腕を組んだままじっと考え込んでいた。やがてポンと膝を叩くと言った。
「無かった事にしよう」
「は?」
「だから、そんな記録は無かった事にしよう」
そこにいた全ての人間の目から鱗が落ちた。
「そうだ。簡単な話だ。無かった事にしよう」
かくして百メートル走の記録は台風並みの追い風があったことになり、マラソンは先導した白バイのコースミス、水泳に至っては計器の故障にされてしまった。さらに体操やフィギュアの大技は画像の合成にされてしまった。
あの高校生の所にはとてつもないバッシングの嵐が吹いたが、当の本人には何が起こっているのか知るはずも無く、本人も全く気にすることはなかった。
やがてあの高校生の話題も尽きたのか、世の中は静まり、各種選手たちは希望に胸を膨らませて練習に励むのだった。
全てが丸く収まった頃、陸上と水泳の団体関係者があの政治家の所に来ていた。
「一時はどうなるかと思いましたが、さすがは先生、妙案をお持ちで」
政治家はでっぷりと太った腹を波打たせて笑った。
「まぁ、よくあることだ。政治の世界では、無かった事にするのは当たり前だからな」
我々の知らない所で、何か大変なことが起こっているかもしれない。
―了―
ある田舎町の高校生が百メートル走で、七秒九八という人間離れした記録を作ってしまった。しかも、その翌日にはフルマラソンを一時間二八分という宇宙人並みの記録で走ってしまった。
陸上関係者やマスコミがこの高校生に殺到した。
「とんでもない記録ですね」
「あ、そスか?」
高校生は全く気にも留めていないようだった。
「この記録だと、世界選手権もオリンピックも金メダル確実ですよ!」
記者は興奮気味に叫ぶのだが、高校生は面倒臭そうに答えた。
「そんなの興味無いっス。世界選手権の頃は田んぼの草取りだし、オリンピックの頃は牛の種付けで忙しいんスよ」
「き、君は世界選手権より田んぼの草取りが、オリンピックより牛の種付けが大切だと言うのか!」
高校生は恐ろしい顔つきで記者を睨んだ。
「あたりまえじゃないスか! 田んぼの草を刈らんかったら米が獲れんでしょうが! 牛に種付けしなかったら子が増やせんでしょうが!」
高校生は憮然とした表情で競技場を去って行った。しかしこの高校生は一週間後に、またとんでもないことをやってのけた。
なんと水泳の二百メートル自由形で一分五秒という、頭を抱えるような記録を作ってしまったのである。しかも一度も息継ぎなしで。さらに百メートルバタフライで、三七秒という記録まで作ってしまった。
今度色めき立ったのは競泳関係者達だった。彼等は早速その高校生の所に行き、陸上関係者が失敗した勧誘は繰り返さないと、言葉を慎重に選んだ。
「どうだい? 世界水泳選手権に出ないか。その頃は田んぼの草取りも、牛の種付けも終わっているはずなんだが」
「そうスね。終わってますね」
「じゃあ、日の丸を背負って出場してくれるかな」
しかし高校生は悲しそうに答えた。
「やっぱ、駄目っスわ」
「どうして、何も予定はないだろう?」
「いや、今年は先の爺さんの三三回忌の法事なんスよ」
「法事? そんなの一日で終わるだろう」
高校生はさらに悲しそうに言った。
「うちの村の慣習じゃ、三三回忌は七日七晩かけるのが常識で、それをしなかったら末代まで祟られるんスよ」
高校生はさすがに申し訳なさそうにプールサイドを去って行った。
このスーパー高校生はその後も、体操の世界で滞空時間が一七秒もある大技を繰り出したかと思えば、フィギュアスケートで八回転、七回転、六回転の連続ジャンプを成功させてしまった。ありとあらゆる世界記録が次々と書き換えられていったのであった。
収まりがつかないのはこの国のスポーツ関係者達であった。確実に金が獲れる逸材が目の前にあるというのに、全く手も足もでないのである。
とうとう各競技の連盟や国、県、市を巻き込んでの大勧誘大会になってしまった。報奨金はあっという間に一億を超え、もうすぐ十億に届きそうである。もっとも目の色が変わっていた大学の体育系のスカウト達は、入学金、授業料の免除は当然のこととして、海外への留学や親元を離れた後の住居や、実家の面倒までみようという大学まで現れてしまった。
しかし、それでも高校生は動かなかった。
そんなこんなで世間がこの高校生に注目している間に、陸上界、水泳界、スケート界や体操界に微妙な空気が流れ始めた。
それまで世界記録を目指してがんばっていた選手達は、自分達がどれだけがんばってもあの高校生を超えることは出来ない。そしてどんなに自己記録を更新しても、世界記録として残ることは有り得ないとが分かると、練習はいい加減になり、各種大会参加者も激減し、みすぼらしい全国大会が続いたのである。
もう打つ手なしと考えた関係者は、ついに政治決着をつけようと有名政治家に頼むことにした。
「なんとかなりませんか」
「うーん」
「出れば確実に金ですよ」
「でも本人は出たくないんだろう」
「そうなんです。草取りだか法事だか言いましてね。金にもなびきません」
「家族を説得したらどうなんだ」
「駄目です。あの高校生以上に変わり者で、猪の血を飲まされそうになりました」
「うーん」
政治家は腕を組んだままじっと考え込んでいた。やがてポンと膝を叩くと言った。
「無かった事にしよう」
「は?」
「だから、そんな記録は無かった事にしよう」
そこにいた全ての人間の目から鱗が落ちた。
「そうだ。簡単な話だ。無かった事にしよう」
かくして百メートル走の記録は台風並みの追い風があったことになり、マラソンは先導した白バイのコースミス、水泳に至っては計器の故障にされてしまった。さらに体操やフィギュアの大技は画像の合成にされてしまった。
あの高校生の所にはとてつもないバッシングの嵐が吹いたが、当の本人には何が起こっているのか知るはずも無く、本人も全く気にすることはなかった。
やがてあの高校生の話題も尽きたのか、世の中は静まり、各種選手たちは希望に胸を膨らませて練習に励むのだった。
全てが丸く収まった頃、陸上と水泳の団体関係者があの政治家の所に来ていた。
「一時はどうなるかと思いましたが、さすがは先生、妙案をお持ちで」
政治家はでっぷりと太った腹を波打たせて笑った。
「まぁ、よくあることだ。政治の世界では、無かった事にするのは当たり前だからな」
我々の知らない所で、何か大変なことが起こっているかもしれない。
―了―