第7話 昨夜の出来事

文字数 3,208文字

 朝起きると、猛烈に頭が痛かった。窓にかかったカーテンの隙間から太陽光が差し込んでいる。そちらを向こうとすると、その光が目に沁みた。

 二日酔いなんて学生時代以来かもしれない。定まらない視線をテーブルの上にやると、空になったビール缶や酒瓶が散乱している。その上、よく覚えてはいないが、どうやらピザの出前を頼んだようで、一人で食べるには大きすぎるサイズが、半分以上残った状態で無残な姿を晒している。

 この様子では僕一人で飲んでいたようには思えない。誰かもう一人いたような記憶があるのだが、思い出そうとすると頭がズキズキと痛み出す。
 仕方なく僕はベッドから降りるとキッチンに向かい、水道の蛇口をひねるとそのまま口を付け、喉を鳴らして水を飲んだ。ついでに汗臭い髪の毛をその流水の中に突っ込むと、頭から水浸しにしてやった。
 季節は初冬。防寒具を出すには少し早いが、朝の水は相当冷たい。お蔭で少しは頭の中がすっきりとしたようだ。

 タオルで頭を拭きながらベッドサイドに戻るとテレビをつけた。その画面を観て僕は、今日が土曜日だと分かった。そうだ。僕は昨夜、明日は休みだからと深酒をしたのだ。じゃあ誰と飲んだのだろう。その辺りになるとまた頭が疼きだした。

 時計を見ると午前七時十八分。早朝と言うには少し遅いような気もするが、休日の朝七時ではまだ世の中は目覚め切っていないと思った。僕は澱んだ部屋の空気から逃れようと朝の散歩を決め込んだ。
 ジーパンに履き替え、少々厚手のセーターを着込み、以前付き合っていた彼女が編んでくれたマフラーを巻いて、僕は外に出た。吐く息が白く見えている。これから街は本格的な冬支度に入るのだろう。


 僕の住むマンションから東へ五分ほど歩くと、幅が十メートルほどの川がある。両岸はまだ整備が済んでおらず傾斜する地面がむき出しなのだが、その岸の川沿いに桜の木が等間隔に何十本も植えられており、春になると花見の人々でごったがえす。
 今はもう全て葉を落としており、来年の春に芽吹く予定の小さな塊が無数に点在しているのが分かる。
 僕はその裸木の下を、大量の落ち葉を踏みしめながら歩いた。風も無く陽の光は充分に差し込むのだが、川沿いということもあって冷気が溜まっているのか冷え冷えとしている。僕は肩をすぼめ、両方の手をポケットに入れて歩かなければならなかった。

 そのうち、この辺りの町内会が設置した木製のベンチが見えてきた。季節が良ければ、僕のように散歩の途中の高齢者や、小さな子供をベビーカーで押す若い母親、そして時にはペットの犬の散歩の途中で休憩する人々の姿が見られる。
 僕はそのベンチに腰を下ろすと、思いきり冷たい空気を吸い込んだ。そして大きく吐き出すと体の中から悪い『気』が抜け出て行くようだった。

 僕は大学を卒業してすぐに、ウェブデザイナーとして社員数十人ほどの会社に採用された。そんな小ぢんまりした会社だから、人間関係のぎくしゃくしたものなど無く、働く環境としては申し分なかった。
 もちろん、仕事の上で意見をぶつけ合うことはあっても、それはあくまで仕事上の意見の相違であり、それをいつまでも根に持つ者などいなかった。

 ただ二年前、ある新人が入社してから少し会社の雰囲気が変わった。

 僕達の業界は他のIT関連企業と同じで、常に新しい技術が開発されている。一年前は最新の技術であっても、今は既に使い物にならなくなっていることもざらにある。
 彼は最新の技術とスキルを持って入社したのは良いのだが、次第にそれを鼻にかけるようになった。本人には悪気はなかったのだろうが、先輩にあたる僕にしてみれば、時々腹を立てることが多くなった。
 しかしどんなに僕が腹を立てても、新しい技術を持つ者には叶わない。次第に僕の仕事は減り、彼の仕事は増えて行った。同時に僕が邪魔者扱いされているような気がしてならなくなった。遠回しで会社を辞めてくれと聞こえる毎日が続いた。

 当然僕は注意力が落ち、小さなミスを連発するようになった。そんな僕に対して、今までは遠くで聞こえた噂話が、僕の目の前で聞こえよがしに耳にするようになった。
 全部あの後輩がいけないのだ。あいつが来たばかりに僕の仕事と将来が暗いものになってしまった。何とかしなければならないと思った。

 その時、僕は昨夜彼を誘って飲み出たのを思い出した。そうだ。何かを伝えたくて僕は彼を誘い、会社でよく使う居酒屋に行ったのだ。
 そしてその時、確か今の仕事の進み具合とか、新しいアプリの使い心地とか、そんな話をしたはずだ。彼も珍しく僕が誘ったので、いつもより高いテンションでついて来たのを覚えている。

 その後はどうしたんだろうか。記憶が一点鎖線になりそうになるのを、何とかこらえながら繋いでいくと、僕達は次に彼の提案でカラオケに行ったのを思い出した。最近の歌は知らないからと、僕は学生の頃に流行った曲を歌ったはずだ。
 随分と昨夜の流れが思い出せてきた。僕達はカラオケを出た後、女の子のいる店に行った。そんな店に慣れていなかった彼が、赤くなって小さくなっていたのを思い出した。そうだ。その後にまだ飲み足りないと言って、僕は彼を部屋に誘ったのだ。

 全てではなくとも、これで昨夜の大騒ぎの内容が思い出せたはずなのだが、僕にはまだ釈然としないものがあった。どうにも胸の辺りがもやもやしてすっきりしないのである。
 僕は家に帰ってからのことを思い出そうと、頭を掻きながら必死になって思い返していた。確かピザを頼んだ後に、彼と仕事の進め方で少し議論した記憶が蘇った。いくら技術はあっても、クライアントとの交渉術は僕の方がまだまだ上だ。そんな話をしていたように思う。

 そしてピザが届いて、さらに仕事の厳しさを語っていた時に、彼が僕に対抗する意見を言ったような気がする。何と言われたかまでは覚えていないが、やたらと熱くなった気がする。

「あっ!」

 僕はそこまで思い出して、とんでもない記憶にぶち当たった。
 僕はその場から走って部屋に戻ると、閉まったままだったカーテンを開け、ベランダに続く扉も開けて枯れた花しかないプランターの奥を見た。

 そこには頭から血を流して白目をむいて転がっている彼の姿があった。

「これのことか」

 僕は思わずその場にがっくりと膝をついてしまった。
 僕の釈然としない気持ちの原因はこれだったのである。昨夜、彼と口論になり激高した僕は、彼の頭を鈍器でしたたか殴ってしまったのだ。そっと彼の手を触ると、冷たくそしてもう固くなっていた。
 僕は頭を抱えてしまった。いくら気持ちが高ぶったとは言え、人を殺めてしまうとは、しかもその原因は、はっきりいって僕の嫉妬心である。言い訳など出来ないと思った。

 しかしそんな劇的な場面であるにも関わらず、不思議と僕は落ち着いていた。目の前の彼の恐ろしい表情を見ても、反省する気持ちこそあれ、取り乱すようなことはなかった。もしかすると僕は彼を殺めたことで、冷血な人間に生まれ変わったのかもしれない。しかしそんな劇画の世界のような話が現実にあるわけがない。

 僕は普通の人間ならどうするか考えてみた。おそらく自分のしたことを悔やみ、警察に自首するのが当然の行いだと思った。

 僕は警察に行くにあたり、少しは身綺麗になろうと熱いシャワーを浴びることにした。熱いシャワーを浴びて、身も心もリフレッシュして素直な気持ちで出頭しようと思った。そう思ってバスタオルを持って風呂場に行き、裸になって扉を開けて思った。

 これでは行けない。警察へ行くことなど到底無理なのだ。

 なぜなら風呂場には、手首を切ってバスタブを真っ赤にして絶命している僕がいて、傍にはワープロ打ちで『すべて僕がやりました』と書かれた遺書が落ちていたのだから。

                           ―了―
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