七日後―03

文字数 3,931文字

 晩飯を〈Am-mE(アムミー)〉で終えて帰宅した俺はさっそく刀矢の男たちに、あの人の部屋のドアに掛けられたプレートの意味を説明した。あれには恐ろしい(まじな)いがかけられており、ドアに耳を押しつけるような真似をしただけで、その男の前立腺を不可逆的な機能不全に追い込む力があると口にすると、全員が震え上がり、絶対にそんな真似はしないと誓いを立てた。俺もその一人である。そのように泉美から宣告されてしまったのだから致し方ない。十七歳で前立腺不全に追い込まれてしまったら、この世界に生まれ落ちた意味を喪失する。
 弟の優斗は殊勝にも、今後は家に友達を呼んでもいいのか?と父に確認した。無論、是である。しかしそこに「女の子も?」といかにも中学二年生らしい無邪気さで(優斗に邪気が薄いのは事実だ)重ねたものだから、兄の頬が引き攣った。聞けば、弟にはいわゆる〈彼女〉なる女の子がおり、この正月はその子が家族そろって両親いずれかの郷里に出かけてしまったので退屈していたのであって、決して無暗と冬休みを持て余していたわけではなかったことが判明した。同時に、まことに気の毒なことだが、兄に

そのような女の子が存在しないという不都合な真実もまた、この夜ついに白日の下に晒された。

そうなのか

そうなのかに関する追及が控えられたのは、開き直られる事態を恐れたからである。兄に開き直られてしまったら、せっかくの「是」に従って字義通り振る舞ってよいものか、俺は兎も角、優斗は大いに悩まされることになり兼ねない。兄は接頭に「大」を付けたくなる手前くらいの秀才であり、それが故に目に余る独断専横を日常的に繰り返してきたわけだが、これ以来、牙を抜かれたとまではいかないものの、これまでついぞ見せたことのないやや恨めし気な眼差しを獲得し、いくらか人間らしい機微なり綾なりを覗かせるようになった歴史的事実を、ここに記録しておこう。
 夜更けて愛莉から電話があった。これと言ってやることもない生活をしている癖に、あまり電話をしてこない女である。それは多分に電話をされたくないという心情の裏返しであるらしいことが、最近になってわかってきた。自分からちょくちょく電話をすると、先方のほうでそうしていいものだとする解釈が生じる可能性を高めることにつながり(確かにそうだろう)、それを恐れるわけだ。電話はなにしろ唐突かつ乱暴に他人の生活を侵す。愛莉は要するに自分のタイミングで話したいのであり、それなら俺は用件がない限り電話などしないから心配するなと言ってやったところ、それはそれでちょっと寂しい…とかなんとか、まるで女の子みたいな物言いをした。
『さっき帰ってきたんだけどさ』
「ん? ああ、今日だったっけ」
『ほんと温泉しかないとこで、むちゃくちゃ寒くて参った。で、少し太った』
「少しなのか?」
『どっちの意味?』
「なにとなにを比較してどっちと言ったのか知らないが、おまえはいくらか太ったほうがいい」
『いやいやいや――陸上部だから、私』
「うん、それは知っている」
『ああ、あれね、ちょっとふっくらしたほうがエロいって話ね』
「むろん個人の嗜好性の振れ幅は思いのほか大きいわけだが」
『また絞る前に一度は味わっておきたい、と』
「それで実は驚くべき事実を知ってしまったんだよ」
『なに?』
「手塚と栂野がしかるべき場所を探し回っている」
『えッ!? ほんとにやったんだ……』
「ん? いま明らかに事情を知る人間の物言いをしたな?」
『ごめん。実はちょっと相談された』
「なにをだ?」
『シャワーを浴びる手順、とか』
「それはまた難しいことを聞かれたもんだね。おまえ、なんて答えたんだ?」
『私たちはコイントスで決めた…て言っちゃった』
「ちゃんと五円玉を使うようにも言ったかい?」
『イジメないでよ……』
「まあ、とにかくあいつらはそれでいま困っているという話でね」
『なにに困ってるんだっけ?』
「知っての通り手塚にはスーパーエキセントリックな姉がいて、栂野には小賢しくも

妹がいる。いずれの母親も表に干した洗濯物を取り込めるくらいの時間には帰ってきてしまう。小遣いだけでは月に何回もホテルには入れない。にもかかわらず二十四時間

いるわけさ」
『自分の幸運を神様になんて言って感謝すればいいのかしら!』
「おまえ、どこか知らないか?」
『私がどこか知ってると思ったの?』
「日頃の言動を裏切る世間知らずなお嬢さんだったな」
他人(ひと)のことよりさ、湊斗、どうする?』
「なにをだ?」
『だから、このカラダ。来週末には元に戻っちゃうよ』
「あ、もうひとつ重大な報告があった」
『私たちに関係することしか聞きたくない』
「おまえは明日から俺の部屋に入ることができる」
『……ウッソ!?
「ついに〈タタールの軛〉が解かれたのだよ」
『タタールは関係ないでしょ。でもほんとに明日行ってもいいの? まだ一週間だよね?』
「今日すでに栂野と手塚がやってきた」
『え、なんで?』
「栂野はあの人の部屋で泣いてくれたよ」
『……あ、そっか。……ごめん、それ忘れてたよ』
「おまえは忘れていい。俺たち四人が憶えておけばいい。それだってあの人にしては望外の幸せってもんだぜ。正確にいつの時点で掛け違いが生じたのか知らないけど、少なくとも泉美の話では、俺たちくらいの頃からすでに世界は歪んで見えていたらしい。本人の言うことだからな、どこまで信じていいかはわからんよ。それでも全面的にあの人を咎めていいわけじゃない。誰だってそうだ。それで俺にはひとつ宿題が残されたわけだよ。そのときあの人がなにをされたのか、俺はそいつをつきとめる。制限時間は五年――俺たちが大学を卒業するまでだ。どうしても必要なんだよ。悪いが愛莉、そこだけは許してくれ。――明日は九時半に駅まで迎えに行く。いいかい?」
『いいよ。女王陛下のお部屋を見られるなんて、滅多にないことだもんね』
 そこからは愛莉の話をずいぶんと長く聞かされた。こちらの用件は済んでおり、俺はベッドに寝転んで適当に相槌を打ってやりながら、その寒くて退屈極まりない温泉旅館の二泊三日を頭の中で再現した。まるで嵐の夜に古い城館で起きた密室殺人もののミステリーのように、よくもそれだけの出来事を二泊三日の中に押し込めるものだと感心するくらい、確かに退屈極まりない温泉旅行であったことは十二分に理解できた。兎にも角にも愛莉は愉しかったのである。目出度いことだ。
 さっさと歯を磨いてしまい、寝落ちするまで本を開こうと考えて階下に降りると、リビングで父が一人、酒を飲みながらテレビを観ていた。先に寝るよと声をかけると、ソファーに腰掛けた背中で(首を後ろに捻るのも億劫なのだろう)軽く手を上げた。いつもと違うのはテーブルの上にノートパソコンが見えないことくらいである。さすがに正月休みは仕事をしないらしい。洗面所で歯ブラシを使っているところに弟の優斗が図ったように入り込んできて、お互い鏡に映る姿を相手に話を始めた。
「ねえ、湊斗。ほんとに彼女とか呼んでもいいのかな?」
「もう呼んだんだろう?」
「あれ、なんで知ってるの?」
「俺も呼んだからさ。何時に迎えに行く?」
「九時半だよ」
「俺たちは兄弟なんだって納得させられる瞬間だね」
「湊斗の彼女って凄い美人だったりする?」
「いや、しない」
「よかった。…あ、でも今日夕方にきてた人さ、なんかむちゃくちゃ可愛かったよね?」
「一緒にいたパッとしない男が彼氏だぜ」
「マジで? そんなことってあるんだ」
「全能なる龍神様のお計らいが頂戴できればな」
「なんだか不思議な巡り合わせみたいなやつが必要だってことか。…ま、そうだよね。…あ、姉ちゃんもまた来るの?」
「来るなら昼飯のあとだな。午前中は小夜美(こよみ)の宿題を見る約束だ」
「え、姉ちゃんが? 面積求めるやつとかって、けっこう難しいよ?」
「あのむちゃくちゃ可愛い女もつけておいたから心配ない」
「へえ、頭もいい人なのかあ」
小夜美(こよみ)は小学生だぜ?」
「姉ちゃんは信用できないよ。俺は前に酷い目に遭った」
「おまえ、泉美に訊いたのか? なぜ俺に訊かない?」
「そもそも俺がなにをどうわからないのか、湊斗はそこからわかってくれないだろう?」
「なるほど。確かにそうかもしれない」
「姉ちゃんなら同じレベルだと思ったんだよ。でも違った。姉ちゃんはなんだかもっと変なふうに間違ってた。なんて言うか、同じゲームをしてるはずなのに、ルールが違ってるみたいな感じ。わかる?」
「いい喩えだ。非常によくわかる」
「やっぱり似てるよね」
「娘だからな」
「うん」
 でもな、優斗、よく聴けよ。あの人のすべては

だったんだ。それは俺がこの目で確かめている。これからそいつの裏付けを取ってやるから、不必要に泉美を恐れるな。あいつの上には幾ばくかの反復可能性すらもない。泉美は確かにおかしなルールでゲームをやっているかもしれないが、そのルールはあの人から受け継いだものじゃないんだ。泉美がひとりで、あの御堂の家で作り上げたものなんだよ。だから恐れる必要はない。もうあの人の亡霊は去った。今日の夕方にだって、おまえは知らないだろうが、あのむちゃくちゃ可愛い女が、そのために泣いてくれた。泉美は俺たちの(がわ)にいる。決して向こう(がわ)にはいない。優斗、俺を信じろ。泉美は怖くない。
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