四日目

文字数 5,185文字

 来週から二学期の期末試験が始まる。今日が年内最後のお昼休みだ。私はいつものように教室の中央の前のほうの自席から、お弁当を手に、窓際のいちばん後ろに座る四名に加わった。目の前に栂野結衣と手塚玲央が向かい合い、その向こうに御堂泉美と刀矢湊斗が向かい合う。そのような二組の男女を見るお誕生日席が私に用意された定位置である。二学期が始まってしばらくは男子バスケ部キャプテンの泊里純也(とまり・じゆんや)がこのグループにいた。そのときは結衣と泉美のあいだに私が、玲央と湊斗のあいだに純也が座った。――そう、私と純也がペアだった。あぶれた二人としてそうだったのではなく、私たちは短い期間だったけれど本当にペアだった。電車では肩と腰の辺りを少しだけくっつけて座り、プラットフォームや商店街を指先のほうだけ手をつないで歩いた。でも、それくらいの短い時間で終わってしまった。私と純也はお互いに同じ小学校・同じ中学校からこの高校にやってきた唯一の二人だった。唯一の二人なのだからお互いにそうなのは当たり前だけど。純也はバスケ部のキャプテンで、すらっと背が高くハンサムで、誰にでも(女子限定だけど)例外なく優しい微笑を向ける、校内の人気者だった。それは今も変わっていない。だから純也が私と付き合い始めたことに驚嘆の悲鳴が聞こえたし、純也が私との付き合いをやめたことに安堵の溜息が漏れた。だけどみんなには知られていない純也にとって不都合な真実がある。純也の例外なき優しい微笑は、内面の優しさの表明ではなく、単なる顔の造作に過ぎない。純也はただ生まれつきそのような顔つきをしているだけなのである。それを動かそうとしないだけなのである。動かすのが怖いからそのままにしているだけなのだ。けれども純也はなにしろハンサムで背が高いから女子は誰ひとりそれを疑わない。純也が私のような地味な女子と短い期間とは言え付き合ったという事実から、そんなことは凡そ想像できるはずだと思うのだけれど、なにしろハンサムで背が高いから疑おうとしないのだ。彼女たちの中ではすでに私のその一件はきれいに抹消されている。なかったことになっている。そのほうが世界が素敵に見えるから、だから彼女たちはそうするのだろう。
 さて、問題は、どうして私が今だに泉美のグループと一緒にお弁当を食べているか、という点だ。いや、たぶん問題というような話ではない。私にはほかに寄るべきところがないからそこにいる。私は本来ここにいるべき人間ではない。そうしたことは当人がいちばんよくわかるはずのものだ。
 泉美の不登校をめぐる一連の出来事は、三つのフェーズに分けることができる。三つとも同じ目的――泉美の再登校を助けることを目指していた。最初のフェーズは湊斗がひとりで泉美に寄り添っていた。二つ目のフェーズで私と純也と愛莉が加わった。三つ目のフェーズで私と純也と愛莉の三人は、結衣と玲央に置き換えられた。泉美は三つ目のフェーズの二人によって再登校を果した。二つ目のフェーズの私たち三人はまったくの役立たずだった。登校はおろか、最寄り駅に向かうバス停のベンチから泉美を立ち上がらせることすらできなかった。が、結衣はそれを簡単にやってのけた。簡単ではなかったのかもしれないけれど、とにかく結衣にはそれができて、私たち三人にはできなかった。湊斗と玲央は、泉美と結衣がバスに乗って電車に乗って校門の前まで行って帰ってくるところまでのプロセスを、二人でのんびり見守った。やがてつまらない事件が起きて純也の姿が消え、愛莉は入学以来ずっと好きだったらしい(信じられないことだけれど…)湊斗の恋人になり、私は今ひとりでここに座っている。だけど私は苦しんでいるわけではない。強がりではなく。
「ねえ、湊斗、夏休みの最初の頃に言ったこと、覚えてる?」
 この日はお弁当を食べ終えたところに別クラスから愛莉が加わってきた。
「俺がなにか言ったか?」
「私たちの順位を引き上げてくれる、ていう話」
「実際、上がってるじゃないか」
「私はね。でも美乃利は変わってない。あのときは美乃利も一緒だった」
「私のことは気にしなくていいよ」
 愛莉がおかしなことを言い出したので慌ててしまった。私と純也と愛莉は役立たずだったのだから、泉美の再登校を助ける際に提示された湊斗の約束など、とっくの昔に反故になっているはずだ。
「そうか。そうだったな。――じゃあ愛莉、週末におまえから木島に傾向と対策を伝えておいてくれ」
「あ、いいの?」
「改めて同じ話をするのは面倒だ」
「だから、私はそんなのいいって」
「美乃利、いつまでもねじくれてちゃダメだよ。明日私のうちにきて。いい?」
 素直に頷くことができなかった。確かに私は

いるのだろう。湊斗から傾向と対策を授かって、それに真面目に取り組めば、二百七十位が百七十位になる。それがつい先日ここで結衣が愛莉に向かって口にした〈ドーピング〉の正確な意味内容だ。しかし愛莉は湊斗の恋人なのだから構わないけれど、私はなにものでもなく、見返りに差し出すものすら持っていない。
「木島さんは要するに、一方的な贈与を受け取ることに抵抗があるんだよね?」
 と、玲央が素直に頷くことのできない私の想いを驚くほど正確な言葉にしてくれた。
「そもそもあれは、御堂さんのリハビリ支援活動に対する報酬だって聞いたよ」
「だけど私たちは役立たずだったから……」
「俺は『成功報酬』だなんて言ってないぜ」
「だから木島さんの気持ちの問題なんだって、これは」
「じゃあさ、玲央。木島さんは湊斗になにか

できればいいってこと?」
「俺はなにも要らないよ」
「私思うんだけど、木島さんの最大の売り物ってさ、やっぱりその

おっぱいよね?」
「結衣、なに言ってるんだよ」(玲央がさすがに慌てている)
「湊斗は木島さんの

おっぱい触ってみたくないの?」
「だから、なにバカなこと言って――」(ほんとに誰か止めてほしい)
「栂野は要するに、その目障りな木島の大きな胸に、なんらか

がしたいわけだろう?」
「なッ…!?
 ガタンと椅子を鳴らして結衣が立ち上がった。私は目の前で勝手に展開されている無責任な会話に眩暈を感じはじめているところだった。私の最大の売り物はこの大きな胸だったのか…と、愕然としつつもなんだか妙な納得感もあって、本当に頭がくらくらしてきた。
「いいか、栂野、よく聞け。おまえの胸が大きくならないのはな、木島の胸が大きくなったことの反動ではないぞ。それらのあいだにトレードオフの関係は発見されていない。ゼロサムゲームではないと言い換えようか。おまえたちは有限な胸の総量を分け合っているわけではないんだよ」
「そ、そんな説明要らないし!」
「そうか。それならひとまず座れ」
 憮然とした顔で結衣が言われた通り椅子に座った。確かに結衣の胸は大きくない。はっきり「小さい」と言ってしまってもいい。他方で私の胸は大きい。不必要に大きいと言ってしまってもいい。陸上部で中距離(千五百メートル)を走っているのに、こんなに胸が大きくなってしまったのは、本当に残念なことだと思っている。
(おっぱいというのは謎だと、僕はかねがねずっと思ってきた。おっぱいを思わず見ていることが僕にはある。いくら見ていても飽きないということがある。触ってみたらどんなだろうと思うことがある。謎だと思うのは、おっぱいのことを考えると心が平和になるということだ。美乃利には確かに素晴らしく豊かなおっぱいがある。しかし結衣にだってすでに大人のほんのわずか手前なのだからおっぱいが存在する。大いに存在している。それはきっとやわらかくてあたたかなものだろう。恐らくだからおっぱいのことを考えると心が平和になるのだ)
 しかし結衣の胸と私の胸とは湊斗が言ったように相互に影響する関係にはない。私のほうで(へこ)ませれば結衣のほうで()てくるというものではない。そこは生徒数三百五十人の中で成績が順位付けがされる話とは違う。そこでは私が二百七十位から百七十位に順位を上げれば、誰かが新たに真ん中より下に落ちる。一から三百五十までの順位の総和は不変だからだ。誰かが()れば誰かが(へこ)む。実際、一学期の期末試験の際、湊斗から傾向と対策を授けられ、真面目にそれに取り組んだ愛莉が上半分の順位に()たとき、明確に誰とは名指しできないものの、間違いなく誰かが下半分の順位に(へこ)んだはずだ。明日、私が愛莉のうちに行き、そこから真面目に取り組めば、私と不特定の誰かのあいだにも、同じ交換が起きる可能性がある。しかしふと思ったのだけれど、湊斗が愛莉に授けた傾向と対策をたとえばLINE上に拡散した場合、いったいなにが起きるのだろうか。そのときは全員が同じ条件下に置かれるわけだから、全体の平均点はきっと上がるだろうけれど、順位自体はその人間がそもそも持っていた能力と、その後の努力とを正しく反映することになるはずだ。従って湊斗の傾向と対策はやはり一種の〈ドーピング〉なのだと断言できる。
 私は愛莉に一晩考えさせてほしいと言った。考える事柄はいま結衣が言った「お返し」のことではなく〈ドーピング〉のことだ。〈ドーピング〉もやはり結衣が口にした言葉だった。私が考えたいのは、私の中に百七十位になりたいという気持ちがまったくないことだ。〈ドーピング〉の注射を打ったところでせいぜい百七十位に過ぎないということだ。要するに、私がこの世界で受け入れるべきものの本当の姿を見極めたいのだ。
 十七歳であるというのは、つまるところ、そこに行き着くのだと私は思っている。ドーピングをしたらその本当の姿が霞んでしまうのではないかと恐れている。だけど愛莉はいい。愛莉は湊斗に恋をしているから〈ドーピング〉なんてまったく関係がない。なにしろ十七歳の私たちが受け入れなければならない事柄は学年順位のほかにもたくさんある。きっと本当に実のところそれは無数にあるのではないかと思う。私たちは日々傷ついて行く。心痛という意味で傷つくのではない。(こぼ)れるという意味で傷つくのだ。私たちは日々(こぼ)れて行く。なぜか?――私たちが明日に期待しているからだ。
 私たちはオンリーワンだなんて言うつもりはさらさらない。そんな恥ずかしいことは口にしたくない。それが、生まれながらに私たちが授かったはずの牙を抜いてしまう甘い誘惑に過ぎないことくらい、二百七十位の私にだってわかる。そもそも私たちは例外なくオンリーワンではないか。オンリーワンでない人間なんていないではないか。私たちにはそんなものに慰められている暇なんてないはずだ。百七十位でも二百七十位でも構わないと言えるのは、そのことに意味がないからではない。十七歳の私たちは明日に期待しないでは生きていけないはずなのに、オンリーワンだんて言葉を受け入れてしまったら、もう明日に期待する意味がなくなってしまうからだ。それは十七歳の少女に今日中に死ねと言っているのに等しい。
 私はとても単純なことを言っているつもりだ。オンリーワンであることを受け入れるのは、三百五十人中の二百七十位であることを受け入れるのと、まったく同じ意味である。もちろん私だって確定記述と固有名をめぐる議論くらいは承知して言っている。三百五十人中の二百七十位であることは確定記述のほうの問題であることくらいわかっている。私が湊斗から〈ドーピングの注射〉を打ってもらい百七十位になったとしても、私が〈木島美乃利〉であることは変わらない。その通りだ。でも、だから二百七十位のままでいいという議論にはならないし、湊斗の〈ドーピング〉の力を借りて百七十位になってもいいという議論にもならない。〈私〉はこの世で

〈木島美乃利〉であると胸を張るからには、それと同時に、「三百五十人中の二百七十位の生徒」である事実も受け入れなければならないはずだ。そうでなければおかしなことになる。
 明日も引き続き

〈木島美乃利〉であり続けられることと、明日に期待して眠ることとは、まったく違う話だ。大人たちがすぐにオンリーワンだとか口にして、子供たちが釈然としない顔をするのはそのためだ。絶対に実現される事柄を約束とは言わない。大人たちが実のところなにひとつ約束などしていないことを、なにひとつ請け合ってくれてなどいないことを、子供たちは理解している。君はオンリーワンだと慰められたいのは実のところ大人のほうなのだと理解している。明日に期待して眠ることができなくなってしまった、気の毒な大人たち。だからどうか、君はオンリーワンなんだよ、なんて口にしないで欲しい。あまりに痛々しくて、自分の将来を見せられる悪夢のようで、思わず顔を背けたくなる。
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