零日目―04

文字数 4,289文字

 話の場を学校へと移そう。高校生である僕らの日常は、言うまでもなく、その知見の多くが学校という場において規定(あるいは制約)されている。悲喜劇の大半がそこを舞台に(あるいは契機にして)繰り広げられるという意味だ。
 昼休み、食事を終えた湊斗は残り時間を図書室の閲覧スペースのいちばん前の席に陣取って、本を開く。椅子を斜め後ろに傾け、その長大な体躯を投げ出すようにして座る。この体勢は授業の合間の短い休み時間にも(そのときは教室で)見ることができる。この体勢に入った湊斗に声をかけることのできる人間は、現状、四人しかいない。御堂泉美、須藤愛莉、栂野結衣、手塚玲央(僕)の四人だ。以前はバスケ部キャプテンの男がもう一人そのポジションにあったのだが、訳あって(これも端折るけれど)、今はバスケットコートの外でこの二人が交わることはない。
 須藤愛莉は女子陸上部のキャプテンであり、湊斗の恋人である。
 栂野結衣は学年一とも謳われる美少女であり、僕の恋人である。
 どちらもまず少女のほうが熱烈に欲し、少年がそれに(ほだ)されるという同じ経過をたどった。――嘘じゃない。湊斗の人となりと、僕の人となりとを、すでにあのように描いてみせたあとにこんなことを聞かされたら、嘘みたいな話にしか聞こえないかもしれないけれど。しかし実際、いかに冷淡な人間でも母親の死に目には駆けつけるように、どれほど禁欲を守る者でも一度は女の子にモテることがある――といった箴言の、これはひとつの稀なる例証なのだ。
 愛莉と湊斗の組み合わせは万人に受け入れられている。が、万人は決して彼らを寿(ことほ)いでいるわけではない。それは彼ら二人の幸せのためにではなく、万人の側の心の安寧のために喜ばれている。愛莉もまた湊斗と似た扱いを受けてきた少女であり、不用意に声をかけると痛い目に遭うタイプだったから、この二人が思わぬ形で窓だか扉だかを閉じてくれたことに、実はみんな密かに安堵した。実際、愛莉は普通の女の子に少しばかり近づいた(ように僕には思える)。もちろん公的な用事もないのに声をかけるのは今でもやはり回避しておいたほうが無難ではある。が、少なくともこちらにしかるべき用件がある限り、最初にそれをきちんと匂わせておけば、その鋭利な眼差しできつく睨み返され、なんだか蔑まれているような気分になるようなことはなくなった。
 須藤愛莉は呆れるほどにスタイルがいい。それも、なんだか丸々として可愛らしい系統の、外性器としての胸やお尻が扇情的に主張するタイプの

ではなく、僕とほとんど変わらない(女の子としては)長身の上で、それらの凹凸が理想的な(ミケランジェロやティツィアーノが現代に生まれていればきっと描いたはずの)曲面を形成し、日に焼けた褐色の肌が眩しく照り輝いているようなタイプの

だ(僕はむろん着衣の彼女しか見ていないけれど)。公平を期すために情報のレベル合わせをしておけば、顔の造りは十人並みである。ちょっと笑えば(そこは言っても十七歳の女の子なのだから)それなりに可愛い。しかし滅多にちょっと笑ったりしないところが、愛莉の

問題だった。
 他方、結衣と僕の組み合わせは万人の理解をまったく得られていない。万人どころかまず僕自身が時々これは本当なのだろうか…?と怪んでいるくらいだ。たとえば周りに人目のないところで結衣が舌を絡ませるようなキスをしてきたようなとき、僕は気取られぬよう薄眼を開け、いま僕の口中に舌を挿し入れている少女が他ならぬ〈栂野結衣〉に間違いないことを確かめずにはいられない。そのような衝動(怖くて居ても立ってもいられない感じ)はなかなか払拭できるものではなく、そこには未だに新鮮な驚きが待っている。本当に

栂野結衣で間違いないことを発見するからだ。
 言うまでもなく、そんな結衣と僕のあいだには、ちょっと信じられないような因縁がある。そうしたレベルの因縁でもなければ、結衣みたいな美少女が僕みたいな凡骨の恋人になるなんてシナリオを、現実世界で見つけられる可能性は極めて低い。そんなことはこの僕がいちばんよくわかっている。だからその因縁をきちんと話しておきたい。果たしてそれで皆さんの理解を得られるかどうか、予断を許さないところであるとは言え。
 僕と結衣の出会いは七年ほど前にまで遡る。小学四年生の秋の終わり頃だ。僕らの暮らす街には〈明神池〉と呼ばれる三日月湖があり、思いのほか水深があって危険なものだから、周りを厳重にフェンスで囲ってある。そして〈明神池〉と呼ばれる池が概ねそうであるように、ここもまた神秘的な気配を漂わせる不思議な池だった。ある日、そのフェンスが自動車事故で破られた。もちろん立入禁止のテープですぐに塞がれたのだが、数日して(数週間だったかもしれない)誰かがテープを破いた。ちょうどそのとき、僕は自転車で当て所なく街を徘徊している途中、事故があったと耳にしていた〈明神池〉にふらっと立ち寄って、テープが破れているのを発見してしまった。入ろうかどうしようか決められず迷っていると(僕はそういう少年である)、すでにフェンスの内側で池の周りを歩いている少女の姿が目にとまった。――つまり、それが結衣だった。
 そのとき結衣は、明神池に棲まうと謂われるウンディーネかなにかによって、水中へと引き摺り込まれることを期待しながら歩いていた。言い直せば、要するに、自ら命を絶とうと考えながら歩いていた。そこに僕がマヌケ面を出したものだから、言うまでもなくウンディーネかなにかは姿を隠してしまい、結衣は何事もなくぐるりと池を一周して、破れたフェンスのところにまで戻ってきてしまったのだ。――そうして僕は結衣から預かりものをした。そのときそこで途絶えなかった彼女の〈未来〉というやつのことである。
 明神池をめぐるフェンスを破った自動車事故をきっかけに、結衣の家庭は崩壊していた。直接的に事故を引き起こしたのは確かに結衣だった。そのとき助手席には結衣の父親が座っており、運転席では見知らぬ女がハンドルを握っていた。結衣は書道教室の帰りにその車と出くわしてしまい、交差点で信号待ちをしている目の前で助手席の父と目が合ってしまい、後部座席に乗り込んだあと、運転席の女の後頭部めがけて硯を投げつけた。が、失敗した。的を外した硯はフロントガラスを粉々にし、驚いた女はハンドル操作を誤って、自動車は明神池のフェンスを突き破り、車体の半分くらいまで突っ込んで止まった。
 従って、結衣の家庭が崩壊したのは結衣のせいではない。ところが、あのとき自分がもし口を閉ざし(心も閉ざし)知らぬふりを通してさえいれば、その後の時間は何事もなく経過したはずだと当時十歳だった少女は考え(そこは確かにそうだったかもしれない)、つまり、家庭を崩壊させたのは自分であると結論づけた。しかしそうは言っても少女には、どうやって自分を罰すればいいのかわからなかったもので、まさに事故現場となった明神池にやってくると、そこに棲まうと謂われるウンディーネかなにかの慈悲にすがり、水中に引き摺り込んでもらうことを期待した。僕は十歳の少女のそんな企図を台無しにしたわけだ。
 いま僕は、言うなればそのときの責任を取らされている。あのとき図らずも結衣を救ってしまった僕にはそうしなければならない責務(あるいは負債)があるというのが、結衣の側の言い分だ。無茶苦茶な理屈だということはお互いよくわかっている。だけど、一度は完全にイカレかけた頭の中から僕を追い出すことが、結衣にはできなくなっていた。フェンスから頭を覗かせた僕のマヌケ面は、結衣の脳ミソの襞のあいだにグサリと(あるいはベッタリと)刻印され、消えなく(消せなく)なってしまった。これを〈因縁〉と呼ぶほかになんと呼ぶべきか、僕は知らない。
 幸運にも、結衣は学年一とも謳われる美少女に成長した。どうしてそれが〈幸運〉なのかと言えば(こんなことを言えば女子から総スカンを喰らいそうだけど)、結衣がもし美少女でなかったとしたら、そんな馬鹿々々しい話を真に受けて、僕が責務の全うというか負債の返済というかに応じるはずなどないからである。従って、それ(結衣が美少女に育ったこと)は僕にとっての幸運ではなく(むろん不運であると言うつもりはないけれど)やはり結衣にとっての幸運だと言っていい。僕がもし拒否すれば、美少女に育たなかった可能世界の結衣は、ウンディーネかなにかに出会えるまで繰り返し(もしかすると永遠に)明神池の周りを歩き続けることになったかもしれないわけだから。
 七年前、僕らは異なる小学校に通い、その後も異なる中学校に通った、お互いに見知らぬ少女と少年だった。しかし同じ高校に進学し、二年生で同じクラスになった。ところが見知らぬ少女と少年であったのはお互いではなく、結衣はあのときの少年が僕であることを(驚くべきことに)七年間ずっと承知していた。僕はあのときの少女が結衣であったことを(情けないことに)七年後に同じ学校の同じクラスになって初めて知らされた。(正確には六年半後という計算になる)
 貧困の撲滅や戦争の放棄や犯罪の一掃や、そして宇宙や生命の謎の解明などに積極的・明示的に関わることはせず、僕らと固有名で関係することになった人たちの幸せに関する事柄に限定して働くべきだと最初に言ったのは、このような文脈においての話である。
 ああ、だけど、どうか安心して頂きたい。これから先、僕らのせいで世界が終末を迎えかけたり、僕らがひょんなことから異世界に転生してしまったり、宇宙人や未来人や超能力者なんかが登場してきたり、そんなことは絶対に起きない。――もちろんそんなことが起きるような世界に暮らしていれば、僕らは退屈などしないで済むだろう。今日が昨日と異なる一日となり、明日も今日と異なる一日となるべく約束されていれば、僕らは退屈などしない。僕らが今どうしようもなく退屈しているという事実が、この考え方を支持している。皆さんもよくご存知の、あの涼宮ハルヒの物語の根底に横たわる世界観は、まさにこれと同じものだ。
 不謹慎であることは承知のうえで敢えて口にするならば、今日を昨日から区別してくれる事件の内容は、不幸なものであっても構わない。知らず知らずのうちに、僕らはそんなものの到来を渇望しているのだ。――さあ、今度こそ始めるよ。
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