二日目―01

文字数 6,655文字

 御堂の両親が仕事に出る前に父から電話があり、母親の容体は昨夜からなにも変わっていないことが伝えられた。それで御堂の両親はいつも通り仕事に出かけ、俺と泉美は少し考えてから、午前中に病院に顔を出し午後は学校に行こうと決めた。兄妹ふたりで丸一日辛気臭い顔を突き合わせているよりも、そのほうがいくらか気が休まるのではないかと考えた。
 今朝、目が覚めてみると、床に敷いた布団の中にいつの間にか泉美が潜り込んでいるのを発見し、俺は驚きながらもぐっすり眠り込んでいる(じつ)の――同じ母親から産まれた――妹の顔を眺め、この夏から急激に似通ってきたあの人の顔を思い出してしまった。泉美はきっとなかなか寝つけず、恐らくかなり遅い時間になって俺の布団に潜り込んできたのに違いなく、軽く揺すったくらいでは目を覚まさなかった。つい最近、眼差しを投げかけなくなるといつにない美貌と威厳を帯びる人たちがいる――という文章を読んだ。確かに眼を開けている泉美には、美貌はともかく――それは母親から表現型として受け継がれている――威厳を見出すことなど不可能だが、こうして眼を閉じていると、十七歳の少女でありながら、あの人が備えている「威厳」とまでは言えないにしても、なにごとか侵し難い気配を感じさせた。決して無邪気な子供の寝顔のようには見えなかった。
 間もなく目を覚ました泉美は、目覚めた人が最初に遭遇するあの不確かな時間を瞬く間に跳び越えて、大慌てで布団から飛び退くとベッドに這い上がり、大いに動揺しながら顔を真っ赤にして「ごめんなさい…」と言った。当人の目論見としては、俺よりも先に目を覚まし、なにごともなかったかのようにベッドに戻っているつもりだったのだろう。要は「抜かった…」という話である。泉美には昔からこうしたところがあり、言うなれば、そのたびガッカリさせられてきた。そう、泉美はこちらがガッカリするような抜かり方をする。たとえばこのケースにおける泉美の問題は、俺よりも先に目を覚ませば大丈夫だと考えたところにあるのではなく、俺よりも先に起きられるという前提を疑わなかったところにある。本来そこが議論の争点であるはずなのに、そうすれば大丈夫かどうかのほうを考えてしまう。確かに先に目を覚ましたとしても大丈夫でない結果となる事態だってあるには違いない。しかしなによりもまず先に起き出さないことには、大丈夫である可能性はゼロだ。
 十時少し過ぎに病院に着いた。母親はなんらか処置をしている最中だとかで俺たちは昨日と同じ待合室に案内された。中に先客がいた。向かい合うソファーに男女が一人ずつ、正面ではなく左右にズレて座っているもので、最初は二人がセットなのかバラなのか迷わされた。が、迷いはすぐに解消した。二人は俺たちが入ってきたのに反応して腰を上げた。歩み寄るべきであることは明白だった。二人は母の親族である「池内」を代表してそこに座っていた。
「湊斗と泉美ね。――久しぶり。私のこと憶えてる?」
「ええ、憶えています。常葉(ときわ)伯母さん、でしたね」
「あなたたちと顔を合わせるつもりはなかったし、ましてこんなところで会いたくはなかったんだけど、仕方ないわね、事情が事情だから。――ああ、こっちは甥の夏馬(なつめ)よ。あなたたちの従兄になるわね」
 紹介された男はにっこりと笑った。この俺よりも明らかに背が高い。池内常葉という伯母にあたる人も、恐らく大半の成人男性より大きい。この人たちは親族なのだと、そんなところで俺は妙に納得し、同時にほッとして、「池内」が姿を見せたことへの最初の驚きから、気持ちが切り替わり落ち着いて行くのを感じた。
「はじめまして、湊斗くん」
「はじめまして」
「はじめまして、泉美ちゃん」
「……はじめまして」
「しかし驚いたね。雪乃さんにそっくりだ」
 従兄にあたる大男は――俺も大男だが――そう言って伯母に顔を向けると呆れたふうに笑った。
夏馬(なつめ)、あなたは帰ってちょうだい」
「そうだね。じゃあ、またいつか。そんな機会がないことを祈るよ」
 訳のわからないうちにあっさり男(要するに従兄である)が姿を消したあと、俺と泉美は伯母の向かいに座るよう促された。母親にそっくりだと言われて、嬉しいのか哀しいのか心情はなんとも測り兼ねるが、泉美は人見知りの強い女の子のように俯いたまま、俺の隣りに座った。改めて正対してみると、この伯母が放つ只ならぬ気配に圧倒された。それこそ歯を食いしばらないとまともに眼を見て話しができないような威圧感がある。こんな人間に出会ったのは初めてだった。いや、この人とは以前一度会ってはいるのだが、俺は確かまだ中学に上がったばかりの頃で、向かいに座るどころか「こんにちは」の挨拶をしただけである。母親に呼ばれて部屋に顔を出すとこの伯母がいた。そのときちょうど泉美が遊びにきていたか試験勉強をしにきていたのか――きっと後者だろう――二人とも呼ばれて挨拶をした。その程度の記憶であり、こうして相対するのは実質的にこれが初めてだった。
「ついさっきお父さんとはお話ししたのよ」
「ああ、そうなんですね」
「泉美。――ちゃんと私の顔を見て話が聴けないなら、家に帰るか学校に行きなさい」
 ビクッと飛び跳ねるように泉美が反応し、大きく見開いた眼で伯母を見つめた。
「どうなの?」
「ちゃんと聴けます」
「ならそうして。――雪乃の容体はよくないのね。泉美、お母さんと最後に話をしたのはいつ?」
「先週、お話ししました」
「どれくらい?」
「二時間くらい、です」
「そ、よかったわ。あなたたち試験が近いのよね。いつから?」
「来週です」
「来週いっぱい?」
「そうですね」
「弟のほうも一緒なのかしら?」
「ええ、ほとんど一緒だと思います」
「ほとんどじゃ困るわね。あとで確認して。そこまではもたせるように話をつけるから」

…?」
「最悪のシナリオを話しているのよ、私は。少なくともあなたたちの試験が終わるまでは、雪乃はここに静かに寝かせておく。それは約束する。だからしっかり試験に集中しなさい。わかった?」
「……ああ、はい。わかりました」
 俺はそのとき唐突に、この人が医者だと聞いていたことを思い出した。同時に、母親がすでにもう見込みの薄い状態であったとしても、俺たちの試験が終わるまでは俺たちの日常を騒がせるようなことにならないよう、この病院と話をつけると言っているのだとも理解した。あの人は要するに今そのような形で生かされている状態に近いのだ、と。
 確かに昨夜、父も同じ意味合いのことを口にした。しかし伯母の口から出た「もたせる」という言葉の破壊力は大きかった。父はボールがいまどこにあるともはっきりしないという言い方をした。伯母はすでにボールはこちらの手の中にあると言い切った。だからこの先の十日余りを請け合うことができる。俺はさすがに隣りに座る泉美に顔を向けないわけにはいかなかった。
 泉美は瞬きを忘れたように蒼褪めた頬で伯母を凝視していた。それは間違いなく伯母が口にした言葉の背景を理解したからそうなのだと言える顔つきだった。あの人と最後に話したのはいつか? そのときはどれくらいの時間話したのか? 伯母がそんなことを泉美に尋ねたのは、どうにも解釈の紛れようがなく、剥き出しの意味合いでしか受け取れない。むしろほかの意味で受け取るほうが難しい。
 次の瞬間――そうするだろうと予感した通り――泉美はソファーを立って待合室を飛び出した。扉を開け放しにして行ったので、仕方なく俺はそれを閉めて伯母の前に戻った。戻った俺を、伯母は不思議そうな顔で迎えた。追いかけるものと思っていたのだろう。しかしここで泉美を追いかけたところでなにがどうなるわけでもない。泣き出す泉美を黙って眺めるだけだ。
「追いかけないんだ?」
「どうせひとりじゃ帰れなくて、ここに戻ってきますよ」
「あなたがあの子のいちばんの理解者である、と」
「そうですね。今のところは」
「そうした留保を付けておくのは大事なことね。親族であれば猶更のこと」
 伯母の言葉の意味を俺は推し量り兼ねた。しかしその理解が喫緊の課題でないことは明らかで、だからせっかく泉美もいなくなったことだし、確かめておくべきことを確かめておこうと決めた。
「あの人はもう難しいという話なんですね」
「あの人?」
「ああ、母のことです」
 そう聞いて、伯母は一瞬だが目に険しい光を走らせてから、すぐに穏やかに口を開いた。が、その口から出てきたセリフは穏やかさとは遠いものだった。
「さっきお父さんと話したときもちょっと感じたことなんだけど、刀矢の男たちは雪乃がいつかこうなることを想定して暮らしてきたのかしら?」
「想定……してきましたね」
「やっぱりそうなのね」
 俺たちは決して実体としてのあの人がそこに存在することは否定していない。が、それでもあの人がもう

として振る舞うことはできる。俺たちが接してきたのはあの人の亡霊にすぎなかった。俺たちは俺たちの中にいるあの人と話をしてきた。そうしないことには「終わり」を括弧に入れて繰り返される喪失劇に耐えられないからだ。それは俺たち刀矢の男たちが生き延びて行くための知恵だった。最初に始めたのが父だったのか兄だったのか記憶にないが、俺と優斗は父や兄の振る舞いを模倣することでそれを学んだ。これは否定しようのない事実である。
「同じ家に暮らす人間にしかわかりません」
「そうかもね。だけど私たちもそうした経験をいくつも重ねてきているのよ」
「それじゃあ、もしかして御堂にその話を聞かせたのは――」
「刀矢は初めから聴く耳を持たなかったでしょう?」
 あの人の出自について、その一族について、つまりはこの伯母の親族について、なぜか御堂のほうがよく知っていた。泉美の双子の兄であるという俺の属性が、この十七年間のあいだに幾度かそれを耳にする機会を与えられたのだろう。兄や弟は恐らく聞いていない。あるいは父も知らないことを俺は聞いているかもしれない。そもそも御堂の家に足を運ぶのは日常的には俺のほかにはいなかった。両家のあいだの人の往来は、泉美が刀矢に来るか俺が御堂に行くかのいずれかだった。だから、それは御堂が抱えて行く物語でないことは間違いなく、それを受け取るべき刀矢の人間として、御堂は俺を選んだか、あるいはその資格の有無を見定めようとしていたのか――
「伯母さんにお尋ねしたいことがあります」
「どうぞ」
「泉美もいつか母のようになる可能性はありますか?」
「こないだの不登校で心配になった?」
「ええ、ちょっと……」
「可能性という言い方をしたら、絶対にないと請け合うのは難しいわね。ただ、私たちの経験値から推し量ってみると、それは極めて低いと思っていていいわよ」
「どうしてそう言えるんです?」
「あなたたちの世代にはすでに一人確認できているから」
「一世代に二人は出ない?」
「私たちの知り得る限りでは、ね」
「その話は御堂から聞いたことがあります。でもそれはあくまでも経験上という話なんですね?」
「遺伝的な要素はきっとあるんでしょうね。サイコロを振るような話としてだけど。ただ泉美にはひとつ他の人間とは大きく異なるところがある。――さあ、当ててみて?」
「エピジェネティックな要因が多分にあると言ってますか?」
「偶然にも泉美は雪乃から引き離された。それが湊斗、あなたであったかもしれないのに、泉美のほうが選ばれた。――いい? 湊斗、選ばれたのは泉美のほうなのよ。あなたではなく」
「そう説明されてしまったら、僕は納得するしかありませんね」
「あなた、おもしろい子ねえ。退屈したら遊びにいらっしゃい。泉美には内緒でね」
 俺は伯母から名刺を受け取った。職場の名刺だ。俺の記憶にある大学病院ではなく製薬会社だった。誰でも耳にしたことのある大企業の研究所――伯母はいまそこに勤めているらしい。そして俺に名刺を受け取らせた姿勢から、伯母はそのまま腰を上げた。「遊びにいらっしゃい」という社交辞令の表出は、概ね、話はこれでお終いという一方的な意思表示でもある。
「弟の試験日程を確認したらそこにメールしなさい」
 伯母を見送るために俺も腰を上げ、待合室を一緒に出た。エレベーターホールに向かって殺風景な廊下を並んで歩いた。少なくとも俺が知る人間の中にこの人より大きな女性はいない。並んで歩けばそれがわかる。たとえば、そうしたことがわかる。
「一緒に降りなさいよ。迎えに行ってあげたら喜ぶわよ」
「どこにいるのかわかりません」
「降りればわかるわ。さ、乗りなさい」
 無理やりエレベーターに乗せられたものの、本当に俺には泉美がどこに行ったのか見当もついていなかった。この病院にきたのは初めてではなかったが、指導者のいないまま自然発生的に人が集まって増殖した無秩序な街区のように、建物は表玄関から救急まで訪問者を誘導することすらできない。昨日、役立たずな受付の女のせいで迷ったことがそれを立証している。恐らく増改築を重ねてきた結果なのだろう。言うまでもなく中で働いている人間に不都合はない。患者が彼らの指図から離れられないように出来ている迷路的内部構造は、きっと彼らにとっては無条件に歓迎すべき事態だ。――ところが、エレベーターを降りたところで、外来向けの表玄関に向かう伯母が、それとは反対の方角を指差した。そしてその瞬間、俺もその先に泉美がいることをなぜか理解していた。さすがに思わず伯母の顔を見てしまった。
「どんな魔法を?」
「見つけたのはあなたよ。それに私は滅多に魔法は使わないことにしてるから」
「使える者の言い方をしましたね?」
「使えるわよ。この世代では私がね」
「じゃあ、次の世代にも?」
「そう言えばそれはまだ確認できてないわねえ」
「まさか……」
「そんなロマンティックなお話しなら大歓迎なんだけど。――ほら、早く行きなさい!」
 背中を叩かれた。そして、どうやら揶揄われた。もしかすると俺の人生で、物心ついてから記憶にある限り、誰かに揶揄われたのは初めてかもしれない。我ながらなんとも気の毒な人生で泣けてくる。荒涼とした景色しか見えてこないじゃないか。あるいは俺をそんな場所から救い出してくれるかもしれない伯母の背中を見送って、泉美を迎えるべく踵を返した。
 通路のすぐ先を左にひとつ折れ、しばらく行ってから右にひとつ折れた先に、「職員専用」と但し書きのされている食堂があった。右手にそれを見る廊下の向かい側の窓に、明るい冬の陽射しが揺れていた。光が揺れるのはガラス窓の向こうに中庭があり、樹々が陽射しの直線的な進行を妨げるからだった。そこで泉美は日に焼けたベンチに腰掛けていた。
 俺はガラス窓を叩いた。泉美はすぐに顔を向けた。どうするのかな…と思って見ていると、バカなあいつにもあいつなりの葛藤があるようで、大いに迷ってから、しかし腰を上げ、その長い廊下の端のほうにある扉から、精いっぱい不満そうな顔をつくってやってきた。が、俺の前にきた途端、そこまで支えてきたなにものかが壊れたのだろう、俺の胸に額を圧しつけて泣き出した。驚いたことに、泉美は待合室を飛び出してからそのときまで泣いていなかったらしい。
 しかし幸いにもこのときの泉美はまだ、ある種の小さな精神的破綻――それをこの夏に経験している――の数歩手前に踏みとどまっているように見えた。言い換えれば、世界が歪んで見える事態、あるいは、世界が歪んで感じられる事態、たとえば、自分が立っているところだけピンポイントに重力がこの惑星の平常時の二・三七倍に跳ね上がり、どうしても腰を上げることができないのを発見するような事態――たとえば、そんなものからは、まだ充分に離れたところにいた。
 ひとまずそれであれば大きな問題にはならない。伯母もついさっき請け合ってくれたばかりだ。あの人における

が泉美の上で反復されることは

考え難い、と。伯母にはその

に関する知見があるように思えたが、泉美に影響しないのであれば俺が知る必要はない。
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