二日目―02

文字数 5,076文字

 結衣と僕が窓側の後ろから二番目の席に並んで座ったことを、生徒も教師も誰ひとり怪しまなかった。確かにそうして座ってみれば、特段怪しむべき景色でもないことがわかる。僕はちょっと拍子抜けがする気分だった。湊斗と泉美の母親が

ことはすでに知られていて、結衣と僕が本来の席に座れば縦に並ぶ(結果として窓際の二席が縦に空白となる)事態は予想できていたはずだ。むしろその景色のほうが落ち着かないと思っていたのだろうか。一学期のちょうど真ん中あたりに始まった泉美の不登校と、二学期の初めから始まった泉美の再登校とは、なにしろ記憶に新しく、そう簡単に消えて無くなるものでもない。そして窓際の後ろから四つの席が、泉美がこの世界に戻ってくるための揺り籠のような役割を果たしていたことも。だからそこがふたたび空席となる景色は歓迎されないのだ。――僕は勝手にそう解釈させてもらうことにした。
 敢えて断りを入れるのも馬鹿々々しいことだけれど、僕らは授業中にこっそり机の下で手を握ったりはしなかった。ここにこうして座ってみれば、そんなことは思いもしないものだ。湊斗と泉美の不在はとにかく大きい。湊斗は元より大きいのだが(体の話をしているのではない)、泉美はその不登校と、従兄妹だと聞いていたのが実は兄妹だったという衝撃的な事実のために、かくも不在を大きく周囲に感じさせるようになった。〈不在〉は文字通り〈在〉の否定であり、そうであってみれば理の当然のごとく、〈不在〉の大きさは〈在〉の大きさを反映する。「無い」は「かつて在ったものが無くなってしまった状態」を意味するのであり、あるいは「いずれ在ることが予定されている状態」を期待して用意されるのである。
 昼休みにクラスの違う須藤愛莉が現れた。この学校のこの学年では、もしかすると刀矢湊斗が別のクラスに現れることに次いで、居心地を悪くさせる出来事かもしれない。そのうえ悪いことに(と言ったら愛莉には申し訳ないけれど)手に弁当箱を持って現れた。それはすなわち、須藤愛莉がこのクラスに決して短くはない時間、湊斗の不在を埋め合わせるかのように居座ることを示していた。
「栂野と手塚が寂しかろうと思ってわざわざ出向いてきてやったぞ!」
「愛莉、残念なお報せがあるんだけど――私たち今日は湊斗からなんの連絡も受け取っていないのよ」
「そう言えば部室にちょっと忘れ物をしているような……」
「せっかく来たんだから一緒に食べようよ!」
「あんたらと弁当を食べる動機が吹き飛んだところなんだけどなあ」
 そう言いながらも、愛莉は僕らの教室にとどまった。しかしそこで、僕と結衣がイレギュラーな――本来の自分たちの机ではないところに座っていることに気がついて、露骨に顔を顰めた。言わんとするところはすぐにわかったので、僕と結衣は本来の自分たちの机に移り、授業中に僕が座っていた湊斗の席を愛莉のために開放した。ひとつ空いた泉美の席には、昼食になるといつも僕らに加わってくる木島美乃利が座った。美乃利と愛莉は同じ女子陸上部だから、結果的にこの日の(湊斗と泉美のいない)昼食は、絵面としては違和感の薄い席次となった。
「栂野さ、ところで事故ってなんの事故? 車かなんか?」
「そこは誰も聞いてないの。愛莉も昨夜は湊斗と話してないよね?」
「さすがにこっちから電話はかけられない。向こうからも来なかったけど。――手塚も栂野も聞いてないんじゃ、もう可能性のあるやつはいないな」
「こうして見るとさ、あの二人って友達少ないよねえ」
「栂野に言われたらお終いだ。あんたなんか初めっから一人もいないじゃないか」
「え、愛莉は私のトモダチじゃないの!?
「湊斗が何故かあんたを大事に扱ってるからそれを尊重してるだけ」
「酷い……。でも私には玲央がいるからトモダチなんて要らないのよ」
「そう思ってるのは栂野のほうだけだぞ。手塚は間違いなくあんたには言えないなにごとかを湊斗と共有しているはずだ」
「そうなの!?
「それを言ったら湊斗だって須藤さんに言えないなにごとかを僕と共有していることになるよ」
「ん、そうなのか!?
「いいなあ、二人ともバカできて。私もそんなバカな顔したいなあ……」
 美乃利が思い切り皮肉を込め、周りに聞こえるくらいの大きな声でそう言って、わざとらしい身振りを交えた嘆息を吐き出して見せた。美乃利は愛莉の友達である。同じ女子陸上部であるという属性を超えた友達である。そうであれば、愛莉もまた同様に、湊斗には言えないなにごとかを美乃利と共有している、という結論が導かれるはずだ。しかし愛莉は恋をしているので、それはもう誰の目にも明らかなように、もしそれを天秤量りにかけることが許されるのなら(そしてそんなことが可能であれば)、圧倒的に愛莉のほうに傾く恋をしているので、愛莉にはそんなことなど思い至らないというか、思いも寄らないわけである。同じ事情が(天秤量りの喩えだ)、僕自身に撥ね返ってくるのでちょっとばかり気恥ずかしいけれど、結衣にも言える。だから二人とも(美乃利が言うところの)バカな顔をして、そんなことがあるのか!?と大真面目に、心の底から驚いたのだった。
「明日は来るかなあ。てか来てくれないと困るんだよね。来週から試験だしさ。湊斗が出てきてくれないと、私また美乃利と一緒のバカ組に転落しちゃうよ」
「そこが本来の愛莉のポジションなんでしょ。ここ二回は湊斗にドーピングの注射打ってもらって、百五十番とかになっただけなんだから」(結衣はいつも余計なことを口にする)
「アスリートに向かってドーピングとは聞き捨てならないこと言ったね」
「泉美もずっとドーピングしてきたって話だよね」(これは美乃利の発言)
「泉美ちゃんは入試からドーピングだった、て聞いてるけど」(結衣、それも余計なことだよ)
「それってもう脳ミソぼろぼろじゃん」
「使いものにならない大人になっちゃうよね」
「泉美はいいんだよ、スッゴい美人なんだから」
「そういう方向で問題を解決するのは感心しないな」
「相変わらず湊斗を盾にしてるって本当なの?」
「湊斗を踏み倒せる男なんているのかねえ」
「踏み倒した

ならここにいるけどねえ」(こういう方向にもっていくのも結衣だ)
「それも色仕掛けでねえ」
「エッロい体を存分に駆使してねえ」
「人聞きの悪い言い方するな!」
 少女たちは恐らく今ここに一人の純朴な少年(僕のことだ)が同じ場を共有しているという事実をうっかり失念しているのだろう。早く思い出して欲しいところではあるが、わざとらしく咳払いをしてみたりするのは憚られる。それでは僕が今ここで彼女たちの会話をすっかり聞いていたと告げるのと変わらない。むろんこの会話を聞き知ったとしても、それで泉美が泣くとか湊斗が怒るとか、そうした事態にはならないだろうけれど、問題は、話題になっている人物の上にはなく、それをすぐ脇で聞いている少年…という僕の立ち位置があまりよろしくないという点だ。結衣はきっと「玲央はどうして黙ってるの?」と無邪気に首を傾げるだろう。愛莉はきっと「手塚はそこでなにをしている?」といつものように睨みつけるだろう。美乃利はきっと「手塚くん顔が真っ赤だよ?」と無慈悲な突っ込みを入れてくるだろう。そして僕にはいずれの問い掛けに対しても、気の利いた返答の持ち合わせがない。
「でも真面目な話さ、あの二人、試験はどうするんだろうね?」
「そりゃ受けるでしょ。二年の期末って推薦考査の比重そこそこ高いっていう話だし」
「刀矢くんは問題ないにしても泉美が心配だよね」
「御堂はそうは言ってもずっと真ん中くらいにはいたんだよ」
「ああ、少しは貯金があるってことかあ」
「私と美乃利は貯金どころか借金抱えてるくらいなわけだから」
「注射打ってもらわないと困る、と」
「注射とか……」
「注射だって……」
 まことに天はイタズラ好きと見える。三人はよりにもよってこのタイミングで僕に顔を向けた。
「さっきから玲央はどうして黙ってるの?」(差し挟む言葉がひとつも見当たらないからだよ)
「そういえば手塚はそこでなにしてる?」(僕はただ自分の席で弁当を食べているだけだよ)
「ねえねえ、手塚くんて中間何位だった?」(どうやら美乃利だけは違うことを考えていたらしい)
「二十八」
「栂野さんは?」
「二十九だよ」
「おまえらそんな上にいるのかよ!?
「二人そろえば刀矢くんの代役が務まりそうな気がするんだけど……」
 美乃利の言わんとしていることはよくわかるが、僕らが求められていることに応えられるとは思えない。僕は半分は暇潰しだけどせっせと塾に通っており、結衣はこう見えても予習と復習を欠かさないタイプであり、要するに僕らは日々の積み重ねの上に立っている人間だ。従って誰かにドーピングの注射を打ってあげるとか、そんな大それた能力の持ち合わせはない。僕が当人から聞いている限り、湊斗は本当にさっと教科書に目を通すくらいのことしか試験前にはしておらず、加えて泉美と愛莉に傾向と対策を授ける時間まで割いているのであり、それなのに先日の中間試験は七位だったとかいう化け物だ。七位と二十八位のあいだにどれほどの点差が開いているか?が問題なのではない。僕らと湊斗のあいだにどれほどの深淵が覗いているか?が問題なのだ。
 そのとき(もう間もなく昼休みも終わろうとする時間だった)教室の空気が突然ピシッと凍りつき、ガタンッと椅子を鳴らして愛莉が立ち上がった。美乃利のほうはスローモーションビデオを見るようにゆっくりと。――僕と結衣はこの二人の様子から、背後で唐突に襲いかかってきた事案の姿を正しく理解した。振り返ると(果せるかな)湊斗と泉美が後ろの扉から歩み寄ってくるところだった。
「愛莉、どうした? 俺が死んだはずの祖父さんにでも見えたか?」(いつもと変わらない湊斗である)「おまえら昼休み丸々だべってた様子だなあ。教科書眺めるぐらいしとけよ」
 愛莉は警官に追い詰められた逃走犯のように窓に背中をくっつけて、いま立ち上がった目の前の椅子にリュックを置く湊斗を凝視している。椅子から離れた美乃利は心配そうに、俯いてやってきた泉美の真っ白な顔をやはり見つめている。こうしたときに場の空気を上手に浮上させるのは結衣の役割だ。
「ちょっと聞いて。愛莉がさ、湊斗に注射してもらわないと困る、とか言ってるのよ」
「注射? そいつは栂野、どっちの注射のことだ?」
「え、どっちって?」
「上のほうか? 下のほうか?」
「バカ!」
 まったくである。結衣が思わず「バカ!」と叫んで顔を赤くしたのは無理もない。しかし結衣にも幾ばくかの責を問うべきだろう。持ち出した話題がいけない。
 湊斗はいま自分が口にして結衣の顔を真っ赤にさせたセリフなどすぐに忘れてしまい、窓辺に引っ付いて硬直したまま立ち尽くす愛莉に詰め寄ると、
「教科書ぜんぶ持ってきてるか?」
 と尋ねた。愛莉はぶんぶんと激しく横に首を振った。
「試験前はぜんぶ持ってこいと言ってるだろう?」
 愛莉は今度も激しく、しかし今度は縦に首を振った。
「しょうがない。おまえの家に直行しよう。いいか?」
 最後はこくんとひとつ頷いて、慌てたようにバタバタと机の上の弁当箱を片付けた。すぐに予鈴が鳴った。愛莉は女子陸上部エースの美しく長い脚で、突風のように走り去った。湊斗と愛莉はいつもこんな感じなのだが、それでもふたりは恋人同士なのである。二人きりのときの様子を僕らは知らないのでなんとも言えないけれど、愛莉はもしかすると湊斗のこの威圧感が嬉しいのかもしれない。愛莉と結衣を除く女子には、それこそおしっこをちびってしまうほどに恐ろしい湊斗のこれが。
 僕と湊斗が後ろに向いた机を元に戻しているそばで、美乃利と泉美が言葉を交わしたようだった。しかし教室内は予鈴と同時に机を動かす音で充満しており、僕には二人の会話を聞き取ることができなかった。会話になったのかどうか怪しむべきだろう。泉美の顔は真っ白で、その目を見れば少し前に酷く泣いたのは疑いようもなく、彼らが病院に立ち寄ってきたことを僕は知っており、だから悄然とした様子で腰掛ける泉美をちらりと盗み見た。
 二人が登校してきたことで、僕と結衣が並んで座る状況は午前中までで解消された。ホッとしたようでもあり、少し残念なようでもあり、それは僕と結衣ばかりの問題ではなく、教室全体が落ち着かない空気の中で午後の授業を迎えることになった。
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