十七日目―03

文字数 5,359文字

 湊斗が第二体育館から部室棟に走り込み、どうやらシャワーもせずに着替えをして、校舎への渡り廊下を駆け抜けた様子を、女子陸上部が校庭の反対側にあるトラックから見ていた。湊斗は校舎に飛び込む直前に足を止め、ほぼ全員が見守っていた陸上部のトラックに向かい、スマートフォンを掲げて手を振った。その瞬間どよめきが沸き上がったと、美乃利が結衣に話したそうである。まさかあの刀矢湊斗がそんなふうにして彼女に配慮する行動をとるとは、誰も予想だにしなかったという意味だ。それは当事者である愛莉にも予期できなかったらしく、頬から耳から首から胸の辺りまで真っ赤に染めて、呆然とトラックの途中に立ち尽くしたまま動けなくなったらしい。
「いよいよ湊斗も

って感じね」
「それは実に適切な形容かもしれない」
「湊斗から〈無愛想〉を引き剥がしたらなにが残るの?」
「まだまだいっぱい残ってると思うけど」
「玲央だったらどうする?」
「僕はトラックに向かって手を振ったりなんかしない」
「当たり前じゃない。私はトラックになんかいないもの」
「結衣がどこにいても…という話だよ」
「じゃあ、どうするの?」
「駅のホームか電車の中でメッセージを送る」
「それはもちろん当然そうする前提でどうするか?て話よ」
「あ、そうか」
「わかった? で、どうする?」
 女子陸上部と吹奏楽部の練習が同時に終わり――僕らの学校ではふつうにあることだ――校舎の昇降口で愛莉と美乃利に出くわした結衣が、今年の十大ニュースに年末ギリギリで滑り込んできたこの大珍事を聞き込んで、僕の部屋に上がるなり真っ先に口にした。
 

というのは言い得て妙である。これまでの湊斗ならきっとトラックに愛莉がいるなんて考えもせず校舎の中に姿を消してしまったはずだ。そこでふと足を止めるなんてことは夢想だにできない。ましてや手を振るなんて。もちろんそれは「あとでメッセージを送るから見ろ」というサインに過ぎなかった可能性が高い。そんなことはわかっている。問題はそれを、足を止めてまでして愛莉に知らせたというところだ。部活が終われば愛莉は間違いなくスマートフォンを手に取るはずであり、従ってそこにメッセージを届けておけば事は足りるというのが、湊斗のお馴染みの思考経路のはずなのに。
 しかし実際のところそれでは事は足りていないのである。湊斗が泡を食った様子で学校を飛び出して行くのを見てしまった愛莉が、部活を終えてスマートフォンを手に取るまでの時間が、そこではすっかり捨象されている。どちらかと言えば、あとでメッセージを送ることをしなくても、そこを埋めておくほうが重要なのだ。むろんメッセージを受け取れなければなにが起きたのかわからない。しかしひとつ手を振ってくれたことで、ひとまず愛莉には、なにが起きたのかなどわからなくてもよくなっている。そういう絡繰りのことを結衣は僕に気づかせようとしていたのだった。
「うん、湊斗は正しい」
「そこよね?」
「なにが?」
「だからさ、確かにそれで愛莉の不安はほぼ解消されるかもしれない。メッセージがなくても穏やかに待っていられるかもしれない。だけどね、玲央、こっちをちらりと見ることもなく姿を消すからこそ、愛莉は湊斗に痺れるんじゃないの? それってきっと自分ではわからないことなのよ。少なくとも今はわからないことなのよ。そうじゃない?」
「僕にはそれは女の子特有の訳のわからないやつだとしか思えない」
「訳のわからないやつ? ……ま、そうかもね」
 ふつうの高校生の部屋にはソファーやそれに類する機能を果たす家具が置いてあることは稀である。ホームセンターとかで売っている格安のラブチェアみたいなものならあっても不思議はないけれど、僕の部屋にそんなものはない。だから僕らはカーペットの上に座り、ベッドに背中を凭せかけている。僕らふたりの気分が求めている態勢を、そのポジションが最も近似的に提供してくれるからだ。
 しかし今、僕らはどうにも噛み合わない会話を交わし、結衣がそれ以上の追及を諦めて、ふっと黙り込んだところだった。どうするのかな?と思っていると、結衣はもぞもぞと体を動かして、ベッドに預けていた背中を僕の胸に預け替えた。つまりは後ろから僕に抱きしめられる体勢に移行した。柔らかさとあたたかさと香しさとが僕を内側から包み込む。僕の手は思わず結衣の髪に振れ、肘に触れた。
 結衣はなにかまったく違うことを考え始めている。だから僕の手は払い除けられることなく髪や肘や、そこから下ってお尻から太腿にまで到達した。いや、なにか考えごとを始めてしまったからそうなのではなく、髪や肘やお尻や太腿に触れるくらいで――

などと軽んじる必要もないけれど――僕の手が払い除けられるような事態はこれまでもなかった。服の上からだけれど、結衣は特定の部位に対して――つまり僕は外性器のことを言っている――禁忌の札を貼ったりはしていない。
 だけど僕の手は――腕は――この日は結衣を包み込むところでその活動を停止した。穏やかに、優しげに、ゆっくりと染みるように境界が侵食されて行く、そんなふうに。この姿勢になるといつも思うことだが、結衣の体は――あるいは女の子は総じてそうなのかもしれないけれど――僕は結衣の体しか知らないので断言はできないけれど――思いがけないほどに柔らかくあたたく香しくできている。そこにもなんらかの経緯があるのだろう。経緯と言うか、無意識の選択というか、なにかを捨ててなにかを拾ってきた、そんな類いのものだ。
「湊斗は病院に行ったのよ」
「うん」
「愛莉にそういうメッセージが届いてた」
「ああ」
「でも湊斗は泉美ちゃんを救いに行ったのよ」
「え、そうなの?」
「うん。それで泉美ちゃんは事なきを得たみたい」
「それはよかった」
「そう言えば

は現れなかった?」
「なにごともなく電車に乗るところまでは見届けたよ」
「そう」
 結衣がなにを考え始めたのかは明らかだった。それは今ここで考えはじめたことではなく、帰りに愛莉から湊斗が病院に飛んで行ったと聞いたときからずっと考えていたのに違いない。僕も結衣からその話を聞いてまずやはりそれを考えた。僕らはただ真っすぐにそこへ行くのを遅らせるために、いよいよ湊斗も

だとか、そんなところをつついてみたりしていた。
 結衣はさらに体を小さくしようとするように膝を抱えた。包み込む僕の腕もそれに応えて外延を狭めた。そんな体勢からくいッと頭を捻り、斜め上に差し出された頬に、そして耳たぶの下に、そして首の付け根に、僕はキスをした。結衣がくすぐったそうに笑うから、僕は明確なサインが示されるまで、そうしてキスを続けた。やがて結衣は顔を正面に戻し、それがサインとなった。
「ねえ、玲央。わかってると思うけど、あれは湊斗と泉美ちゃんのお母さんだったのよ」
 わかっている。それはこの夏に僕らが知った中でもいちばん重要なポイントだ。〈明神池〉のフェンスを突き破ったのは、結衣の父親と不倫関係にあったのは、結衣が硯を投げ損ね殺し損ねたのは、湊斗と泉美の母親だった。誰もはっきりと姿を目にしたことのない幻の女――幻の美しい女。いまは病院にいる。たぶん僕らが彼女の姿を目にすることはこの先もない。
「変な言い方かもしれないけど、私と玲央をくっつけたのはあの人よね」
「くっつけたとまでは言えないよ。あの事故がなくても僕らが出会ってた可能性はある。同じ学校に行って、同じクラスになって――」
「それでも今こうして私が玲央の部屋にいるのはあの人がいたからだわ。あの人がいなかったら、どこかずっと遠いところに住んでたりしたら、お父さんの車に乗るようなことなんてなかった。そしたらあの事故は起こらなかったはずだし、そしたらフェンスは壊れなかったはずだし、そしたら私は玲央と会えなかったはずだし、そしたら今こうして玲央の部屋にいて、玲央に背中から抱き締められるようなことにはならなかった。そうでしょう?」
「起きたことはすべてなんらかの経緯の結果として説明できてしまうというだけの話だよ」
「だからずっと根っこを掘って行けば、私たちの今はあの人のところに行き着くのよ。それなのに、もしかしたら死んじゃうかもしれないとか、それってどういうこと? もしあの人が本当に死んじゃったら、結び目がほどけるみたいにして、なにもかもバラバラになっちゃったりしない? ねえ、そんなことない?」
「そんなことは起きない」
「もしあの人が本当に死んじゃったら、目の前からパッと玲央が消えちゃったりしない?」
「あのとき結衣の投げつけた硯が今度は命中するって話をしてる?」
「そう、そうよ」
「それはタイムパラドックスの誤った解釈だ」
「本当に? 本当に大丈夫?」
「大丈夫。そんなことは絶対に起きない」
「誰かのお母さんが死んじゃうとか、私、嫌だよ……」
 結衣はさらに膝を折り曲げて、もっと深く僕の腕の中に潜り込もうとするように、背中を捻りながら体を押しつけてきた。頭を僕の首に、肩を僕の胸に。エアコンの効いた暖かな部屋で。東京の郊外の静かな住宅街で。二十一世紀に入ってから十八回目の十二月の午後に。
 僕らが今もしかすると失うかもしれない人は、決して「誰かのお母さん」ではない。結衣の十七年間の人生のちょうど真ん中あたりに折り目ができる契機をつくった人だ。でも僕と結衣を結びつけたのは彼女ではない。起きてきたことをそんなふうにしてつなげてはいけない。どうしてつなげてはいけないのかと言えば、それらが本当にはつながっていないからだ。
 だけど僕にはそれ以上の説明ができない。それとこれとは違うのだと、紛れようもなく違うのだということはわかるのに、いま僕の腕の中で体を小さく丸めている少女に、そのことを納得させてあげることができない。それらが本当にはつながっていないのだとすれば、どうして僕らがいまここに一緒にいるのか説明できないではないかと言い募る少女に。
 

を重ねて行けばすべてが崩壊する。だからつなげてはいけないのだという説明は説得力に欠ける。なにかを回避するためだとか、なにかから逃れるためだとか、そんな話ではダメなのだ。真っすぐに突き刺さるやつでなければダメなのだ。でもたぶん、もしかすると、そんなものは存在しないのかもしれない。僕らは

を重ねて行くことでしか、そうでない今を説明することができないのかもしれない。
 ずいぶん酷い話だ。目の前の、それも腕の中にいる柔らかであたたかで香しい少女に、そんなものしか示すことのできない少年である僕は、だから口をつぐむ。少女の柔らかとあたたかさと香しさとに目をつむる。少女もまたそんな僕の腕の中にあって口をつぐみ、目をつむってくれることを期待して。
「玲央」
「ん?」
 少女が僕の名前を呼ぶ。
「玲央」
「なに?」
 ふたたび少女が僕の名前を口にする。僕は一瞬、確定記述と固有名をめぐる議論を思い出し、急いでそれを掻き消す。代わりに、サリンジャーがエズミという名の少女に向けて語りかけた言葉に、それを置き換える。ほかに故障はないかと思いながらも、ゼンマイを巻いてみる勇気のない僕は、少女がこのまま僕の腕の中で眠ってしまうことを期待する。――いや、そうじゃない。僕らはもう無傷のままの人間に戻る可能性など失っている。僕はただ、少女の柔らかであたたかで香しい体に、いつまでも触れていたいだけだ。――いや、それも違う。僕はきっと、少女の柔らかであたたかで香しい体を、この腕で壊してしまいたいのだ。こんなふうにやさしくありつづけることに我慢がならないのだ。――でも、だけど、それはなんなのだろう? どうしてそうなのだろう? 大切なものなのに、なによりも大切なもののはずなのに、どうして僕は壊してしまいたいなんて思うのだろう? 少女もまた壊されてしまいたいと思っているのだろうか?
 もちろん僕はその答えを知っている。知らないふりをする考えはない。僕の中には結衣の可愛らしさを冒涜したいとする欲動があるのだ。結衣があまりにも可愛らしいから――一般的な尺度での話ではない――それを穢したいとする欲動が、どうしたって生まれてしまうのだ。結衣が生まれながらに美少女であることが問題なのではなく、いつも髪や肌を艶やかにしていること、いつも皺や汚れのない服を身に着けていること、いつも綺麗に爪を手入れしていること、つまりは象徴的な意味合いではなくただ清潔で美麗であろうとしていることが、そうであればあるほどに、それを穢したいとする僕の中の欲動を大きく激しく揺さぶってくる。
 僕はまだ相手が誰であれそれを穢したことがない。だから、少女のほうが果たしてそれを希求しているのかどうかも、僕にはわからない。まったく、わからないことばかりで嫌になる。知っているとか言っている自分にうんざりする。嘘ばっかりだ。本当に、僕の言葉は薄っぺらだ。
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