二十六日目―01

文字数 8,289文字

 男の子が手に入れる情報は概ね間違っている(あるいは正確に言えば情報を間違って受け取るよりほかどうしようもない)ものだから、事前にネットを検索するような無駄骨、悪足掻きの類いは慎むようにと言い渡されてしまった。仮にそれが事実だとした場合、結衣がどこからその事実を入手したのか非常に気にかかる。だってそうだろう? 彼女には妹はいても姉はいないわけだし、僕が接してきた限り母親も決して開けっぴろげな人ではないし、学校にもそうした方面に明るい経験豊富な友達なんていない。そうなると、男の子である僕が情報を受け取り損なうのであれば、そんなふうに孤立無援な女の子もまた、情報を受け取り損ねている可能性は否定できないはずだ。僕らはチンパンジーのような同じ霊長目に比べても、あるいはモルモットのような気の毒な齧歯目に比べてさえも、分類学上は目・科・属・種まで同じくするヒトの異性に関し、充分な相互理解を得られているとは到底言えないわけだから。――他の霊長目や齧歯目の雌雄が充分な相互理解を得られているのか知らないけれど。
 決戦の日はクリスマスの明けた週末の土曜日の栂野家に設定された。すでにクリスマス明けというより年の瀬と言ったほうがいい日取りだ。その日、どうやら仕事納めのあとだから父兄も集まりやすいという理由で、結衣の妹の年末最後のピアノ発表会があり、例によってフィナーレにはベートーヴェンの交響曲第九番第四楽章の

を、カタカナでルビのふられた楽譜を手に父兄ともども合唱するプログラムである。イベントは関係者を終日拘束するもので、結衣の妹は母親にも義父にも無茶苦茶に可愛がられているものだから、栂野家はその日、大雪に見舞われて首都圏の交通機関がすっかり麻痺するような不運にでも見舞われない限り、ベッドはもちろんバスルームまで結衣の自由になると言うのが――つまり、大人たちがやっている素晴らしい秘密の行為を妨げるものは、僕たちの無知以外になにもなく――要するに、僕はいまいわゆる「選定事由」というやつをくどくどしく申し述べているわけである。
 結衣の言葉を信じるならば、

にいわゆる汚れ物が出る可能性があり、その善後処置を施さなければならない事態を想定すると、手塚家ではなく栂野家であるほうが融通が利くという話だった。これに関して言えば僕にもちょっとした知識がないわけではない。だけどここでは知っているふうを装うのは禁物だ。もしかすると結衣が言っているそれと、僕が考えているそれとは、まったく様相を異にする出来事を指している恐れだってある。結衣はつまりそうしたことを言いたかったのではないか。どこまで

か?という話だ。そこは

ではない。世の中どうも

ことに対して無暗にそれを称揚する風潮があるようだけれど、

ことでは実際的な問題はなにひとつ解消されない。そこを軽視してはいけない。いくら

みたところで

ことに到達できなければ、相手方の負担は幾分たりとも軽減されないのだ。
「私ちょっと愛莉から凄いこと聞いちゃったんだけど、玲央も聞きたい?」
 約束通り午前九時半に栂野家のインターフォンを鳴らした僕は、久しぶりに結衣の部屋に上がり、暖かに空調の効いた中で女の子らしい装飾品に囲まれて、毛足の長い柔らかなカーペットに座った。
「聞きたくないって答えを想定してないよね?」
「あの二人さ、シャワーを浴びる順番をコイントスで決めたんだって!」
 愛莉が結衣にそんなことを話したなんて湊斗はきっと知らないだろうな…と思った瞬間、結衣の情報収集先が判明した事実に思い至り、僕は正直かなりのショックを受けた。そうだ、愛莉がいた! 湊斗と愛莉がそのような関係にあることは、もちろん二人が自ら進んで喧伝していないとはいえ、まったく否定する考えもない振る舞いから、間違いのない事実と断定されている(実際いま結衣の口からそう告げられたわけだ)。愛莉の存在を忘れるなんて僕はどうかしている。
「どっちが先でもいいんだったら、単純で冴えたやり方だね」
「感動が薄いわねえ。私たちだって当然これからシャワーしなくちゃいけないのよ? どっちが先とか、玲央、考えてみたことある?」
「そうしたことを一切考えてはいけないって言ったのは結衣だよ?」
「結論から言うとね、あの二人のやったことは正解なのよ」
「どっちが先でも構わない、と」
「幸せの形はそれぞれに違うって言ったのはトルストイだったわね」
「トルストイがそれぞれに違うと言ったのは不幸のほうだよ」(どっちでもいいけどね)
「それで私たちはどうすると思う?」
「どうすると思うか想像してもいいの?」
「どっちを先にしたとしてもよ、その決して短いとは言い難い時間、私たちは一人きりで過ごさなくちゃいけなくなるわけ。これってちょっと酷いことだと思わない?」
「確かに。ちょっとどころか、かなり酷い。どうしていればいいのか見当もつかない」
「うん。だから一緒にしようかと思って」
「え、一緒!?」(さすがに声が裏返ってしまった!)
「二人なんだから『別々』か『一緒』しか組み合わせは存在しないのよ。二者択一なの。――順列まで含めて場合分けすれば四つになるけどね」
「四つって?」
「私が先、玲央が先、一緒、それと、シャワーはしない」

はないよね」
「だから、

よ」
 十七歳の世間ずれしていない少年の感覚からすれば、こうしたときに一緒にシャワーを浴びるという導入部は、端からプロセスなるものを放棄しているようにしか思えない。が、世間ずれしていない十七歳の少年にとって、どっちが先かを決めることはもちろん、どっちが先であったとしても、それを待つ状況が耐え難く想像されるのもまた確かな事実だ。実際なにをしていればいいのだろう? 映画とかだと確かにぼんやりタバコを吸ったりしているみたいだから、世間ずれしても事態は変わらないのかもしれない。――僕らは結衣の部屋を出て階段を降りた。真っ白で綺麗なバスルームだった。大きさはたぶん我が家と同じ規格だ。廊下から入って左手に洗面台があり、右手に洗濯機がある。これも同じ。どれが私の歯ブラシかわかる?と尋ねられ、黄色い一本を指差したところアタリだった(ピンクの一本は間違いなく妹が使っているはずだとの推察である)。言うまでもなく洗面台には大きな鏡がついていて、変な顔をしている僕らが映っていた。――結衣の家の中はぜんぜん寒くなかったけれど、表は数日前に冬至を越したばかりの冬の最中(さなか)であり、僕らは少なくない衣服を身につけている。何枚?と尋ねられて三枚と答えると、私は四枚だよと応じた。上からなのだな…と思ったところ、まず靴下を脱ごうと言う。なるほど、靴下が残るとかなりみっともない絵面になりそうだ。結衣が脱いだ靴下を廊下に置いたので(洗面所と廊下を仕切る扉は開かれている)僕もそれに倣った。靴下を脱いだだけなのに、恐らくそれでプロセスの始動が明確になったからだろう、僕らは顔を見合わせて、やや引き攣ったような笑みをつくった。――結衣の四枚目はブラジャーだった。僕の三枚目がただのアンダーシャツであるのとは景色がまるで違う。アンダーシャツに性的なシンボル性は皆無だと言っていいけれど、ブラジャーは極めて象徴的な異彩を放っていた。たぶんだから結衣は背中を向けた。僕は結衣の手が背中で器用にホックを外す様子を呆然と眺めた。そのとき、洗面台の鏡が澄ました顔で僕らを映していることに、僕らはほぼ同時に気がついた。結衣は慌ててさらにバスルームのほうへと体の向きを変えた。なんて可愛いんだろう…とふだんは感動の薄いこの僕もさすがに痺れた。結衣はなぜか鏡のほうに首を向けて僕を見た。僕は小さく柔らかく微笑んだ。結衣も小さく柔らかく微笑んだ。鏡の中でだ。――そこで唐突に空気が入れ替わった。鏡の向こうにパラレルワールドがあるなんて設定はアリスの昔から無数に語られてきた仕掛けだけど、このとき僕はもしかするとそれは本当に起こり得る事態なのかもしれないと思った。結衣が鏡のほうから振り返ったせいかもしれない。まるで鏡の中から出てきたかのように感じたのだ。白くて、艶々としていて、だけど柔らかそうで、しかもあたたかそうな、結衣の小さな胸を初めて見た。僕の視線が胸に下り、顔に上がってくるのを、結衣は待ち構えていた。唇をキュッと結び、両腕をピタリと脇につけ、強い意志をもってそうしないと腕が自律的に胸を隠すべく動き出そうとするものだから、結衣は頑張って腕を体の脇に押しつけている。――結衣をいつまでもその状態にしておくのはマズいという判断が働いて、僕は先にズボンを脱いだ。結衣もすぐに追いかけてスカートを脱いだ。僕らはズボンとスカートを、放り投げる先を見ずに放り投げた。視界の隅に散らかった衣服が見え、それは今ここにあるべき正しい景色のように思えた。僕が廊下を指差すと、結衣も廊下に顔を向け、散らかった衣服を見て笑った。最期の一枚はその上にわざと乱暴に投げつけた。――どちらともなく手を前に差し出して、その手を握り合い、額と額を、白色と白色を、黒色と黒色とをぴったり合わせて立ち、唇と唇とを合わせた。純粋に背丈の差の関係で、結衣の腕が僕の脇の下に入った。しかしどうやらそこは気に入らなかったようで、結衣はいったん腕を抜き、僕の肩の上から首に腕を回し直した。なるほどそうしたほうが密着感がより増すものらしい。結衣がそれを承知していてそうしたのかはわからない。もうそんなのはどうでもいいことだった。――どこがどう違うわけでもなく、道具立てにしたところで僕にも姉がいるから見慣れたものばかりであり、とは言うものの、他所の家のバスルームにいるのは不思議な感覚だった。僕らはすでに最初の羞恥心を乗り越えていた。結衣はしみじみと僕のシンボルに見入った。見れば見るほど不思議な代物だ…という顔をして。結衣のそれはふつうにしていれば見えないものだが、僕のそれは只今現在の状態ではどうしたって隠しようがない。僕はふと、「

を見極めるより

を見極めるほうが簡単だ」と言った湊斗のセリフを思い出し、結衣にも思い出させた。結衣はころころと笑ってから、ふと難しい顔をして、「でもこれのどこかどうだと生物学的に

って言えるの?」と首を傾げた。そんなの僕にもわからない。ところがその次に結衣が口にしたのはもっと驚かされるセリフだった。――「男の子っていいわね。私のなんて醜い襞のついた単なる穴よ」「醜いなんてことはないさ」「醜いわよ。見て。これのどこが美しいの?」「僕のだって美しいとは言い難い」「そう、美しいとは言えない。でも醜くはない。神様がちゃんとデザインしたのがわかる。でもこっちにはデザインの痕跡すらもない。ちゃんと見て。ね?」「わかった。わかったよ。だけどその分だけ女の子のほうが顔も髪も美しい」「斬新な発想ね」「古くからある議論だよ」「ギャップ萌えの起源みたいな話?」「まさにそれだ」「玲央もこれが醜いことを認めるわけね」「君がそう主張して譲らないからさ」「我が夫となる者はさらにおぞましきものを目にするだろう」「それは言い過ぎだよ」――(このあと僕らは神様がデザインを割愛した不出来な器官をお互いにしばらく検分した)――お湯を張りたい!と急に結衣が言い出した。僕らは体を丁寧に(自分で)洗ったあと、まだ湯の入り切っていないバスタブにいったん向かい合わせに座り、ゆっくりと水面が上がってくる中で、ここではどういう体勢をとるのが正解なのかを探った。向かい合わせに座ったままでは足が邪魔になり、相手が酷く遠く感じられ、そもそもが狭苦しく、従って間違った体勢であることは明らかだった。でもバスタブの中で取り得る体勢はひとつしかないように僕には思えた。僕は結衣に背中を向かせ、僕が拡げた脚のあいだに抱き寄せた。

が当たってるよ…と言って結衣がくすくす笑った。確かに結衣の尾骨に当たっているかもしれないが、それは僕の前に付いているものだから「しっぽ」ではない。やがて水面が結衣の乳首を隠したところで給湯が止まった。――そのまま僕らは黙って温まった。いや、おしゃべりはしたけれど、なにか事を起こすことはしなかったという意味だ。それでも結衣の背中が僕の胸に触れていて、結衣の太腿の外側が僕の太腿の内側に触れていて、僕の腕が遠慮がちに結衣の上体を抱え込んでいるわけで、だから僕は、女の子の肌というのはなんてすべすべしているのだろうと感動しつつ驚嘆していた。もしかするとこれはオスを離れ難くするための戦略的な進化なのではないかと思ったりした。いかにもありそうな話だろう?
 僕らは脱ぎ散らかした服を洗面所の前の廊下に放置したまま、バスタオル一枚で階段を駆け上がった。そうなる事態を想定していたのかわからないけれど、結衣の部屋の遮光カーテンはどれもぴたりと閉じられていた。そして、僕に事前の情報収集を禁じた結衣は、自分にも情報分析を禁じていたと告白した。
「あれ? 須藤さんから聞いたんじゃないの?」
「そうしようと思ってたんだけど、シャワーの順番決める話聞いたとこでやめちゃったの」
「どうして?」
「それは、だから、恥ずかしくなっちゃったからよ……」
「ああ、なるほど」
「でもそういうのってさ、きっとDNAに書き込まれているはずよね?」
「どうかな。霊長目では社会生活の中で継承される性格のものなんじゃないかという気がする」
「だけど玲央、いきなりそれをここに入れようとは思わないでしょ? いきなり入れちゃダメだとか、誰かにそんなこと教わった記憶ある?」
「確かにそうだけど、僕らは社会から完全に切り離されて育った個体じゃないからね、それがDNAの働きかどうかを検証するサンプルにはなり得ないよ」
「そうね。わかった。DNAの話は取り下げる。玲央はしたいと思ったことをそのままして。私もしたいと思ったことをそのままする。その起源(オリジン)がどこにあるかなんてどうでもいいことよ」
「そうだね。…あ、痛いとか気持ち悪いとかあったらすぐに言って」
「玲央もね。だけど反対のことも言ってくれないとダメよ。だってなんにもわからないんだから」
 極めて一般的な意味合いにおいて、この日の栂野家の結衣の部屋では、時間の進み方が外の世界とは違っていたはずだと思う。そのことを示す計測機器かなにかを持っていてそう主張するわけではない。この部屋の外で流れた時間は正確に四時間余りを計測したことと思われるが(こちらにはその証拠を示す計測機器が存在する)、僕と結衣は無限に小さく切り刻まれた時のひとつひとつを拾い上げた。時間と仲良くさえしておけば、好きな時刻にしてくれると言われるように。しかし、だから、僕らは最後になんらかの方法で(それがなにかはわからない)二つの時間のあいだを跳び越えたのである。そうしないことには、僕らは現実社会に(川べりの、お姉さんのひざまくらの上に)戻ってくることができない。たぶんそのタイミングで、部屋の外を流れた時間を確かめたところで、負債を返済したか資産を放棄したか、なんらかの清算をしたのだと思う。期限までに返済すれば負債はなかったことになるわけだから。
 僕らは陽がすっかり暮れる前にふたたび階段を降りてシャワーを浴び、追い炊きをしたバスタブに浸かり、今度は黙ってじっとしているわけにはいかず(じっとしていることなんてできず)、そのままバスタブの中でまた交わった。そこが明らかにそうすることを唆す空間だったからだ。おかげで体がすっかりふやけてしまってからお湯を抜き、廊下に散らかしてあった服を着て、僕が使ったバスタオルだけを手に結衣の部屋に戻った。すでに清算を終えている結衣の部屋は、いつもと変わらぬ空気に落ち着いて、僕らのお茶とお菓子の時間を待っていた。酷く喉が渇き、お腹も空いていた。もちろん僕らを待っていたのは、そのように極めてわかりやすい生理現象ばかりではない。しかし世界が一変するほどのなにごとかが待ち構えていたわけでもない。僕らはそこに昨日よりいくらか親密さを増した(ように思える)恋人の姿を認め、むしろ今日、世界がおかしな具合に折り畳まれたりはせず、昨日までの延長線上に立ちつづけていることに安堵した。世界は僕らの知識と経験とで了解可能な姿のままそこにあった。
 そう、要するに、僕らにとってはなにもかもが、初めて経験することだった。――彼女は本当にまったくの無知でもう炎の色も失せた夜空みたいに純粋だったのか、それとも何もかも経験していてわざと知らん顔でゲームをする作戦に出ていたのか。まあ、どちらだってかまわない。――僕はただ度し難くお目出度い少年に過ぎず、結衣の巧みな演技にまんまと騙されたのだと言われるかもしれない。生まれながらの華の有無とはどうにもならない代物であり、言うまでもなく眩しいくらいの華を背負って生まれてきた結衣を――自分の愛らしさが僕に及ぼす力を熟知しているこの蠱惑的な少女を――そうした眼で見る人間はきっと少なからずいるだろう。彼らはきっと、町の図書館の小さなデスクに座って本にスタンプを押しているような女性は、いずれ気難しい顔つきの年老いた処女になるとか断言するのだろう。そんなのどうしてわかるんだ?なんて言ってみたところで、言うだけ無駄なことだ。――繰り返すけれど、世界は僕らの知識と経験とで了解可能な姿のままそこにあった。このときの僕に、ほかに確かめるべきなにがあると言うのか?
「そんなことが起きたらどうしよう…とか思ってたのよ」
 わかりやすい生理現象のほう(飢えと渇き)に対処したあと、僕らはベッドに背中を凭せ掛け、カーペットの上に並んで座った。一度切った暖房を入れ直していた。それでも必要以上の熱エネルギーがなお生産されつづけている感覚があり、いくらか設定温度を低めに調整した。
「湊斗が『なんとか』て言ってたやつだと思う」
「なんとかってなに?」
「了解の連続性が断ち切られてしまうような出来事。…出来事って言うか、その『時』かな」
「私どうして男の子と一緒にいるの???…みたいなやつ?」
「え、今そういう感じなの?」
「そうじゃないから言ったの。玲央はずっとそばにいたし、これからもきっとそうよ」
「……僕はお金持ちにはならないような気がするんだ」
「ずいぶん先のほうまで跳んだわね」
 くすくすと結衣が笑い、僕は自分の言葉に赤面した。
「お金持ちじゃなくてもいいんじゃない? この国で飢え死にするって余程のことよ」
「人はパンのみにて生きるにあらず」
「毎日のパンを調達するので精いっぱいな感じってこと?」
「う~ん、そこまでギリギリじゃないかな」
「だったら問題ない――て、玲央、いま私にプロポーズしてる!?
「いや、してない」
「してないのかよ!」
 けらけらと結衣が笑い、僕はさらに赤面の度を深めた。
 そんな中、間もなく結衣の母親から電話があり、夕飯は表で食べるから出てくるようにと言われた。しかし、ピアノ教室のメンバー数組に混ざるのだと聞いた結衣は、自分で適当に済ませると答えてその誘いを断った。私のことは気にしないでゆっくりおしゃべりしてきてちょうだい…とか鷹揚なところを見せたあと、電話を終えた瞬間に僕に抱きついて、「世界でいちばん長い一日になったわ!」と叫んだ。
 僕らは明らかに浮かれていた。いまや世界は全面的に僕らの味方のように思われた。純粋に幸福な人間が抱く感覚として、世界は僕らを中心に回り始めていた。そこに結衣の母親からの電話によって、さらなるボーナスステージまでもが用意された。順番を決める必要があった。「生/性」と「食/殖」の先後を決めるのだ。僕らは昼食なんてものの存在をすっかり忘れていた。とはいえ、お茶とお菓子で一息つき、結衣の家族がいつ帰ってくるかわからない状況に変わったので、先にすべきことは明らかだった。
 そこまでは、確かに世界でいちばん長い幸福な一日となるはずだったのだ。
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