八日後―02

文字数 6,915文字

 実におかしな景色だが、三人兄弟の下二人がそろって九時過ぎに家を出ると、まさに同じ電車に乗って到着した、その瞬間までお互いまったく見ず知らずであったはずの十七歳と十四歳の少女を、駅の改札を出た目の前で迎えたのだった。少女たちはそれぞれに、まずは待っているはずの男をそこに見つけて安堵したのも束の間、すぐ隣りで見慣れぬ男がよく似た笑顔で立っていることに気がついて、思わず同時に足を止めたわけである。
 日曜日の九時半に住宅街の駅に降り立つ人間など大した数もいないのであり、従って少女たちのほうでもそれぞれに、やはりすぐ隣りで誰かが同じように足を止めたことに反応して、一方が見下ろし、他方が見上げる形となった。すでに扇情的なほどにパーフェクトなプロポーションを獲得し終えている大柄な少女と、ようやく第二次性徴が目に見える形質化への胎動を始めたばかりの小柄な少女とは、お互いがどうやら極めて似通った状況に招き入れられたらしいと正しくも理解した模様である。
 生憎なことに、二人の少女が並んで抜けた改札は、我々を襷掛けの位置関係へと導いていた。危うく譲り合い的ダブルバインドに陥り兼ねないと見て取った俺は、さっと立ち位置を入れ替えた。むろん俺が動いたのではなく、優斗の腕を引いて弟のほうを動かした。少女たちの顔にふたたび安堵の表情が戻るのを確認したところで、俺がまず一歩足を前に踏み出すことにより、閉塞とまでは言わないまでも放置すべきでない緊張状態を(ほぐ)しにかかった。
「愛莉、弟の優斗だ。――驚いたことに同じ日の同じ時間に女の子を迎えに出るなんて、いかにも仲睦まじい兄弟ならではの情景がいまここに現出しているわけだよ」
「はじめまして、優斗くん。彼女を紹介してくれない?」
「あ、はい。…え~と、安東美由さん。…です」
「美由ちゃん、こんにちは。なんだかおかしなことになっちゃったね。こんなにデカいお兄さんがいるって聞いてた?」
「はい、聞いてました。…あ、安東です。…よろしくお願いします」
「うむ。こうして並ぶともはや人種が違うと言ってもいいくらいの景色だな。それに愛莉、おまえ確かにちょっと太ったぞ」
「ここでそれを言うか!」
 愛莉の体重を乗せた右ストレートが俺の胸を打ち砕いた。安東と名乗った少女がビックリしたように丸い目を見開く。思わずという感じで、実は三兄弟の中でいちばん肝が据わっている優斗がそこで笑い出し、安東と名乗った少女を救い出したのは、さすがというほかない天の配剤の妙である。
「今日は商店街を抜けずにちょっと遠回りするからな」
「え、どうして?」
「〈Am-mE(アムミー)〉に栂野と泉美がいる」
「は…?」
「昨日、栂野と手塚がうちに来たことは言ったよな? 晩飯を〈Am-mE(アムミー)〉で食ったんだが、小夜美(こよみ)の――真奈美さんの娘の冬休みの宿題を見てやることで、真奈美さんと手打ちをしたんだよ」
「なるほどね。でもそれなら湊斗と手塚もそこにいないとおかしくない?」
「手塚はなんらか栂野にその分を弁済することになるんだろう」
「湊斗は?」
「裏で請求書が親父のところに回ってくる。つまり真奈美さんは現金と役務を二重取りする。そこは言ってみれば刀矢家の兄から妹への贈与になるという話だな」
 俺たちはしゃべりつつ歩き出した。前に男、後ろに女で、いくらか扇型に開いている。
「湊斗がどこにも出てきてないよ?」
「俺は真奈美さんのカフェに細やかなる売り上げを斡旋すると同時に、親父に対して幾ばくかの恩義を背負うわけだよ」
「なんだか煙に巻かれた感じ。――ねえ、美由ちゃんも今日初めて来たの?」
「あ、はい。初めてです」
「緊張するよね?」
「……緊張、してます」
「だってさ。少年、頑張れ!」
「はい!」
 安東と名乗る少女がくすくすと笑った。なるほど女子陸上部のキャプテンともなれば、いたいけな少年少女をうまいこと手懐ける術も心得ているというわけだ。
 商店街を抜けないルートを取るためには、駅前から早い段階で進路を外し、住宅街の中を折れ曲がりながら進むことになる。思いがけず愛莉が年下の扱いに長けている事実が判明したもので、俺は優斗とその彼女の面倒見を愛莉に任せ切りにし、人通りの少ない住宅街とはいえさすがに四人で扇形に開くのも迷惑な話だから、三人の前に出て先導役に徹することにした。いや、安東と名乗る少女のご機嫌取りがただ面倒臭かった。
 二人はどうやらバドミントン部のチームメイトであり、クラスは違うだとか、成績で振り分けられる数学では一緒のクラスになるだとか、付き合い始めたのは十一月の初め頃だとか、まだ学校ではみんなに知られていないとか、クリスマスや初詣はどうしたとか、言葉巧みに愛莉が情報を引き出して、すっかり周辺事情を丸裸にして行く。俺が優斗に尋ねたのではここまでの成果は得られない。恐らく長身で見るからにカッコいい同性の先輩が現れて、安東と名乗る少女の口が軽くなってしまったのだろう。
 家に着くと父も兄も姿を消していた。父は間違いなくフィットネスクラブに行っているはずだ。日曜の午前は欠かさない。俺と泉美と御堂の叔母しか知らないことだが、父はそこで御堂の父親と顔を合わせる。それを目的に通っているわけではないようだが、父は泉美に関する情報をそのような形で入手してきた。これからは毎週末に泉美がやってくる。「刀矢のお父さん」とさほどの会話が交わされるとは想像し難いが、実の娘が近くに寄ってくる成り行きを、父が歓迎しないことはないだろう。
 兄は言うまでもなく逃亡を図ったのである。弟二人が彼女を家に連れてくる中で、一人ぽつねんと自室に籠っていては、間違いなくあちこち軋むし歪みもするはずだ。元々どこかしら軋んでおり歪んでもいる兄であり、ここでそいつを劇症化されては堪ったものではない。頭のいい人間が頭のいいことだけを頼りに成長した兄である。頭のいい人間なりの対処を見出してくれるのを祈るばかりだ。
「そのまんまの部屋だね」
「どこがだ?」
「思いがけないものがひとつもない」
「たとえば?」
「巨乳美女カレンダーとか」
「なるほど」
「クマさんのぬいぐるみとか」
「おいおい」
「マザコンを象徴するなにものかが欠けてる感じ」
「それが俺の病だとでも?」
「だってマザコンだよね?」
「むろんだ。そうならないほうがおかしい」
「どこかにお母さんの持ち物が隠してある?」
「探してもいいぞ」
「ま、いいか。それよりここでしてもいいの?」
「大きな声を出すなよ」
「美由ちゃんを怖がらせないようにしなくちゃね。だから湊斗、今日は最後まで穏やかに進めて」
 いつも愛莉の欲動に感応する形で激しくなるのだが、そんな分析を開陳したところで悦ばれるわけでもなく、さっそくベッドに腰掛けて俺に背中を預けた愛莉の服を上から順番に脱がせて行けば、なるほど確かにいくらか脂肪分が増えているようだ。乳房を握った手のひらの触感が明らかに予定していたそれと違っている。殊更まったりと求められたように穏やかに進行してみると、愛莉の体がいつになく吸いつくようにねっとりと感じられ、これはこれでちょっと形容に窮するほどに艶めかしく、肉欲に溺れるという形容は実際このような事態に直面したところから生み出されたのだろうと、ずぶずぶと底なしの沼に沈み込み呑み込まれるように実感される。愛莉が声を殺し緊張感を残して完全にはリラックスし切っていないのも、俺が欲情に任せてそれを下品に貪ることなく意識して抑制すべく強いられているのも、いずれもこれまでに経験していない状況だった。優斗のほうは恐らくあの小柄な少女との閉鎖空間に息苦しくも感じ入っている最中に違いなく、我々のほうへと放縦に妄想を働かせる余裕は微塵もないことだろう。あいつの抽斗に充分な妄想の素材が集まっているのか知らないが。
 接合したまま向かい合った姿勢で座っていると、エアコンの送風を上に向けて欲しいと愛莉が言うのでリモコンを操作してから、ドアの向こうの短い廊下を歩く足音が二人分、忍ばせるでもなく行き過ぎるのを耳にして、一週間後には引き締まってしまう(しかしきっと引退後の夏には取り戻されるはずの)豊穣なる恵みをいつまでも飽きずに弄んでいた俺の耳元で、すでに艶やかさを収めてしまった声が、それでもくすぐるような甘さを残しつつ囁いた。
「私もお母さんのお部屋に入ってもいい?」
「ピンクの可愛いウサちゃんが余所見をしているあいだなら」
「いつから御堂さんは

なんかになったの?」
「当人が自分をそのように表象化したのさ」
「御堂さんより栂野のほうにお似合いな――ああ、ちょっと動かないで!」
「おまえいつまで泉美を『御堂さん』なんて呼ぶつもりだ?」
「馴れ合いはしたくない。友達になれる気もしないし」
「あの二人が部屋に戻ったら行こう」
「でも御堂さんが来たらさすがに続きはできないよね?」
「泉美が来たらあの人の部屋にも入れなくなる」
「結局ここでも御堂なのかあ……。だから、動かさないでよ!」
 少年と少女はほんの少し覗いただけで廊下を戻ってきた。しばらく息を潜め、耳を澄ます。音楽が聴こえてきたところで、俺たちは脱ぎ散らかしてあった服を身に着けてドアを開けた。

は扉に顔をくっつけており、我々のほうを向いていない。東南向きの窓に――あの人は夕陽を見るのが嫌いだった――正午前の陽射しがいっぱいに射し込んでいる。レースは引かれているが遮光カーテンは(恐らく昨日の夕方から)開いたままになっていた。この部屋はまだ主の交代を完全には受け入れていない。この先果たして何年かかるのか、そもそも泉美にそんな芸当ができるのか、なんとも怪しいものである。
 愛莉は一歩、二歩と恐る恐るといったふうに足を踏み入れ、右手に安楽椅子を、左手にベッドを見るちょうど真ん中あたりで立ち止まった。左手を振り返れば虫食いとなった――俺がR18指定にした本を引っこ抜いたから――書棚が見える。だが愛莉はベッドの上にボールペンと一緒に置いてあったノートを手に取った。ノート一冊が丸々必要となるようなボリュームはないのだが、俺は見開きの左側に本とDVDとCDのタイトルを二行間を空けて記入し、右側をそっくり空白のまま残しておいた。泉美がなにか記録を、あるいは記憶を助けるものを、そこに書き留められるように。
 タイトルのリストにはR18指定にした本もR18指定であることを明記して並べてある。案の定、愛莉はそいつを指差して物問うように首を傾げた。驚嘆すべきプロポーションが俺の立つところからは逆光となって際立つ。そこにはあの人のベッドがあり、宗教的なところまでとは言わないけれど、道徳的なところまでにしておきなさいと、あの人の影が警告を発している。俺は俄かに歩み寄ると愛莉の手からノートを取り上げて書棚に投げつけ(むろんそれは弾かれてカーペットの上に落ちた)、いささか乱暴に愛莉の肩をつかむとそのまま押し込むようにして安楽椅子に座らせた。唐突に、自分でも訳のわからない激情に駆られていた。
「おまえが見るものじゃない」
「ああ、うん……」
「おまえには見て欲しくないんだ」
「わかったよ。見ない」
「おまえは理解する必要もないし共感する必要などもっとない。おまえはこのままでいい。おまえはこのままがいい。そう俺に約束してくれ。このままでいると約束してくれ」
 安楽椅子に腰掛ける女を前にした男は、傲然と見下ろすか、神妙に跪くか、いずれかを選ばなければならず、むろんだから俺は言うまでもなく愛莉の前に跪き、愛莉の腰に手を回し、愛莉の太腿の上に右側の頬を乗せ、視界に映るあの人のベッドの映像が滲んで行く様を、どうしてそんなことが起こるのかと訝しみながら、愛莉の手が俺の髪を、俺の耳を、俺の頬を、俺の首を撫でるのに任せ、すべてをそれに委ね、むしろ道徳的なところから、むしろ宗教的なところへと、足もとで生じる魂の墜落の感覚を――愛莉の腰に抱きついて――恐ろしいからだ!――愛莉の腰に抱きついて――心地よいからだ!――愛莉の腰に抱きついて――そこには崩壊の予感も予兆もなにひとつないからだ!
「湊斗がそうして欲しいなら、このまま絞らないでおいてもいいよ」
「しかしそれではインハイには出られない」
「もう早く走りたいなんて気持ちはどこにもないの、こうして湊斗に追いついたから」
「しかしそれではインハイはどうなる?」
「弱小チームのキャプテンを甘く見ないで。最初からそんな記録なんて持ってないわ」
 恐らく俺はこれからも繰り返しこんなふうにして、この女の膝の上に――腰に抱きついて――正確に言えば腿の上に――腰に抱きついて――どうにもならない事態に狼狽しつつ濡れた頬を乗せ、髪や耳や頬や首を撫でてもらうことになるのだろう。(うるさい! おまえは黙っていろ! これは俺と愛莉の問題だ! 貴様にとやかく言われる筋合いはない!)――あの人の部屋は暖かく、この時間には陽射しを浴びるから、冬至を越えたばかりで弱々しいとはいえ、この時間には陽射しを浴びるから、まるで十一月に訪れる老婦人の午後のまどろみの中にいるようだった。俺は長いこと勘違いをしていた。これができるのはきっと泉美に違いない、と。――しかしあいつは俺の前でドアを閉じる。これまでと同じように、これからも同じように、この部屋のドアは俺の前で閉じられる。そのように昨日、言い渡されたばかりだ。
 ――しかし誰の声だ? 誰が歌っている?
お別れしたのはもっと 前の事だったような
悲しい光は封じ込めて 踵すり減らしたんだ
 ………
お別れしたのは何で 何のためだったんだろうな
悲しい光が僕の影を 前に長く伸ばしている
 ………
伝えたかった事が きっとあったんだろうな
恐らくありきたりなんだろうけど こんなにも
 ………
あまり泣かなくなっても ごまかして笑っていくよ
大丈夫だ あの痛みは 忘れたって消えやしない
大丈夫だ この光の始まりには 

がいる
 ――悪いが、俺は歌は聴かないんだよ。
 陽射しは午後になるとすっかり陰ってしまい、暑い雲り空の下で、気温は時間を追うごとに下がって行った。泉美がやってくるのと入れ替わるように、優斗と安東と名乗る少女は家を出た。泉美は真っ直ぐにあの人の部屋に入り、プレートを表にしてドアを閉めたから、優斗とは顔を合わせなかった。俺と愛莉はキッチンに下りて遅めの昼食をつくった。一人でダイニングテーブルに座り、両肘をついて顎を乗せた愛莉は、キッチンに立つ俺の背中を眺めながら、なにやら盛んにしゃべっていた。体重のことだとか、下着のサイズとか、体重のことだとか、そんな話だ。俺は鍋を出して冷凍のうどんを煮込み、それでは足りるはずもなく、やはり冷凍のいなり寿司を五つばかりレンジで温めた。二人でそれらを平らげると二階に戻り、あの人の(今となっては泉美の)ドアにプレートが掛かっているのを視認して(今日は音は聴こえない、本を読んでいるのだろう)、泉美には声をかけず俺の部屋に入った。いつものように噛み合わないながらもだらだらと長く続く会話と、まったりと穏やかに進行する愛撫とを繰り返し、泉美のドアが開く音と、泉美がプレートを裏返す音と、泉美が廊下を歩き階段を降りる音を聴いたのが、四時を少し回ったところだった。入れ替わるように兄のものとわかる足音がして、しかし泉美と言葉を交わした気配はなく、家の表ですれ違ったのか、泉美か兄が商店街を通らぬ迂回ルートを選んだのか、いずれか知らないがバタンと苛立たしげに兄のドアが閉じ、愛莉と俺は思わず顔を見合わせて笑った。六時までいてもいいかと尋ねるので、六時であれば夕食の支度に取りかかるにはちょうどいいと答えた。本を読んでも構わないと言われ、私はスマホで映画を観てるからとイヤホンを取り出した。ベッドの上に横に並んで座り、壁に背中を凭せ掛け、愛莉はスマートフォンを手に、俺は読み止しの本を手に、灯りを点けエアコンの温度を上げた部屋で、やがて愛莉が寄りかかる程よい重さを肩に預けられながら、冬休みをあと一日残した日曜日が暮れて行った。
 そう言えば今日は午後になっても父の顔を見ていなかった。愛莉を駅まで送り、優斗も帰ってきた後すぐに、刀矢の兄弟が食事の支度を始めた中(あの人は昼食を用意しなかったので兄弟は最低限の料理をする)、遅くなってすまないと言いながら父が帰宅した。男四人の晩飯のテーブルで、この日、父が東京の池内(あの伯母のことだ)を訪ね、あの人の遺骨をどのように扱うかを話し合い、池内の郷里に引き取って、あの人の母親と同じ墓に入れることに決まったと告げられた。俺たちはそのときに、あの人が池内の戸籍の人間ではなく、いわゆる非嫡出子であったことを思い出した。刀矢となる前の姓がなんであったのか、誰も父に尋ねなかった。我々兄弟三人が知る必要もない情報だ。
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