十一日目

文字数 10,192文字

 少し時間を飛ばそう。飛ばすのは数日だ。伯母が凍結させた数日である。約束した通り凍結されたままに行き過ぎたのだからまったく驚かされる。しかし伯母は医者であり、ここの医師の話を聞いた時点で事態はおよそ把握できていたのだろう。あれは未来を操作する自己実現型の約束だったのではなく、確かな情報に基づく蓋然性の高い見通しだったと考えるべきだ。いたずらに相手を大きく見て――あるいは小さく見て――感心したり驚嘆したり、侮ったり軽んじたりすべきではない。
 期末試験は大過なく終了した。最終日、俺と泉美はいつものように叔母のカフェ〈Am-mE(アムミー)〉に立ち寄った。中間試験のときと同じく手塚と栂野と愛莉も一緒だ。泉美がテーブルの上に拡げた全科目の試験問題には、俺から言われた通り、答案用紙に書いて提出した内容が写してある。ちらほらと空白があるのは仕方がない。空白はあっていい。あちこちに虫食いのようにある空白であれば問題はない。先頭から順に解いてあり後半が真っ白というのは困る。昔の泉美は平気でそんな答案を出していた。時間内で間違いなく全問に解答できる自己肥大妄想ではない見込みがあるのならそれでいい。しかし六割・七割の回答率でそれをやれば六十点・七十点が上限になることに何故思い至らないか? 俺にとってそれは呆れてものが言えない経験のうちでも最たるひとつだった。
 書き写した解答を見る限り、泉美の成績は俺の予想を超えてかなり良さそうに思えた。むろん周りの人間の出来次第ではある。俺たちが通う学校は私大の附属高校であり、一割ほどは医学部や旧帝大なんかに進む人間がいるものの――あいつらがこの学校に来た理由はまことに不可解だが――学年内での順位によって推薦され得る学部・学科が絞られる。当然のことだが成績が上位であれば選択の範囲は拡がるわけだ。泉美はずっと三百五十人中の百五十位くらいのところにいた。今回は百二十位もあるかもしれない。平均次第では二桁もないではない。その辺にいてくれると俺も気が休まる。
 そうしたわけで振り返りが思いのほか早く終わった。四人掛けのテーブルに椅子をひとつ持ってきて、俺と泉美のあいだと言うか横に座る愛莉のほうもどうやら悪くなさそうだ。俺が授けた傾向と対策に今回も素直に従ったようである。愛莉こそ余計なことを考えてはいけない。自分を信じるなんて無謀な真似をすればいっぺんにまた二百五十位以降に沈み込む。先のことはなんとも言えないが、今のところしっかり推薦されてくれないと俺もさすがに哀しい。
 手塚と栂野も例によって例のごとくほとんど同じ点数になるらしい。一学期に注意喚起されるまで知らなかったが――手塚と栂野の順位など俺が見るはずもない――二人の名前は常に隣り合っている。それも必ず手塚がひとつ上だ。図っているわけではないと栂野は言うのだが、図っているようにしか見えない。しかしもし図っているとすれば信じ難い異能であり、その稀有な能力はどこか別のところに向けたほうがいい。――いや、そうしたくだらないところで浪費するのも悪くないな。少なくとも愉快な人生が約束される話だ。
「一緒に勉強してるからそうなるの?」
 久しぶりに晴れやかな泉美の顔を見る。晴れやかにしていると母親の面影から離れるので助かる。陰鬱とまでは言わないまでも、表情が薄くなると途端に母親に似てくるから困ってしまう。笑っていてくれれば心穏やかに接することができる。母親に似ていなくともそうかもしれない。
「うゝん、一緒に勉強すると酷いことになるからやめたの」
「ああ、違うこと始めちゃうもんねえ」
「愛莉ってすぐそういうこと言うよね!」
「あんたらの日常が言わせるんじゃないのお?」
「自分のこと棚に上げてるし!」
「君たちさあ、もう少し仲良くやってもらえないかねえ」
 栂野と愛莉はいつもこうなる。背景を分析してみたところで恐らく意味はなく、人の相性というやつは如何ともし難いとの結論を得るだけだろう。きっと相性が悪いのではなくむしろ良いのではないかという声だって聞こえてくるかもしれない。恐らくそうした茫漠として曰く言い難い結論しか導き出せないのが相性というやつだ。
「冬休みどっか行きたいねえ」
 溜め息をついた俺のすぐ向かいで、すっかり気の抜けた様子の泉美がのんきにそんなことを言う。
「温泉とか行きたいよねえ」
「はあ? このメンツで?」
「もちろんそうだよ」
「私はちょっと、愛莉とは温泉とか入りたくないな……」
「ええ、なんで?」
「だって泉美ちゃん、愛莉って絶対あれだよ、脱いだらスゴイやつだよ?」
「ああ、結衣ちゃんなかなかおっきくならないもんねえ。どうしてかな?」
 我が実の妹ながら、いま俺たちが直面している状況を本当に把握しているのか、疑いたくなる発言だった。あの人の容体がどちらに転んだとしても、この冬休みに温泉に行く選択はない。俺の溜め息が休む間も作って欲しいものである。呼気の前には吸気も必要であることを知って欲しい。しかし――
「なぜみんなで俺を見る?」
「愛莉がどれくらいスゴイか知ってる唯一の生き証人だから」
「湊斗、おかしなこと言ったら怒るよ!」
 愛莉が慌てて牽制するのはまあ当然だろう。栂野の言う通り、愛莉はまさに「脱いだらスゴイ」やつのひとりに間違いない。俺はまだ愛莉ひとりしか脱がせたことはないが、凡そ想像はつく。とはいえこのまま黙り込むのも具合が悪いので――なにしろ衆目を集めている――俺は慎重に目先を躱した。
「俺が唯一ということはないだろう。少なくとも女子陸上部は承知しているはずだ。部活のあとにシャワーを浴びれば――」
「あ、美乃利ちゃん忘れるとこだった!」
「木島さんはもっとダメ!」
「あ、そっか。美乃利ちゃんは代表的な『巨乳種』だったね」
「御堂さん、『種』は違わないよ」
「手塚、そこ突っ込む?」
 愛莉がケタケタ笑い出した。栂野が般若のごとき相貌に変じ、修羅のごとき怒りと哀しみの眼差しで、手塚を射殺さんとするかのように、真向いから睨みつけている。――しかし残念ながら、さほど残念にも思わないが、いつまでもこんなことをやっている暇はなかった。
「残念だが泉美、俺たちは今そういう状況にはない」
「わかってるよ。わかってるから言ってるんじゃん」
「そうか。すまなかった」
「みんなゴメンね。私たち病院行かなくちゃだから」
 ぴたりと静まったテーブルで、泉美がぱたぱたと試験問題を片付け出した。俺も腰を上げ、こうした際に反射的に立ち上がってしまう愛莉の肩をつかみ(可愛いじゃないか)、立ち位置を入れ替えて、俺が座っていた椅子に押し込んだ。押し込むついでに肩から二の腕へと手を滑らせた。実際この女の体から手を離すのは苦行と言っていい。衣服の上からでさえ、それも二の腕の辺りともなれば、磁力と呼ぶべきか粘着力と呼ぶべきか迷わされるが、俺の欲動が吸い寄せられる。
「無事に終わってなによりだった。おまえたちには感謝している。ここは刀矢が持つから気にしないでくれ。――悪いが愛莉、今日は送って帰れない。夜に電話するから起きて待ってろ」
 愛莉は慌てたように頷いてから、足元にあった俺のリュックを拾い上げてくれた。俺はカウンターの中に立つ叔母を振り返り、勘定を父に――叔母の兄に――回してくれるよう頼み、手塚と栂野と愛莉にはお代わりをして構わないとも伝え、支度のできた泉美とカフェ〈Am-mE(アムミー)〉を出た。
 この十日余りの中で、泉美がここまで劇的に落ち着く将来を、正直なところ俺は微塵も想像できていなかった。そもそも期待すらしていなかったと言っていい。最悪、結果はどうであれ、試験を受けられさえすればいいと思っていた。一学期、後半は不登校の状態で期末試験も受けていない泉美と来春一緒に卒業するためには、もうなにひとつ欠けてはならない。
 まだいくらか陽の残っている十二月中旬のよく晴れた空の、水で薄め過ぎた絵の具のように力ない青が、クリスマス前の商店街の派手な飾りつけと釣り合っていない。まるで別の世界の出来事を切り貼りして重ねたように見える。しかし泉美がしっかりとした足取りで歩くので、駅までの道程はさほど遠くは感じなかった。往来する人の数が増え始める少し前の時間であり、電車も空いていた。空気が冷たいドアの脇を避け、ロングシートの中央に並んで腰かけると、泉美は俺の肩に寄りかかって目を閉じた。
「期末は疲れるね」
「そうだな」
「でも明日はお休みだね」
「そうだよ」
「湊斗は須藤さんとデート?」
「朝から部活だ」
「ああ、みんな部活かあ。私どうしようかなあ……」
 中学では例外なく部活を選ばなければならないというどうでもよさそうな決まり事があって、泉美はパズル部だとかいう本当にそれこそどうでもいい部活に入っていた。パズル部というところは、部活動は必須だなんて決まり事をうっかり作ってしまった公立中学校に、一種の徒花(あだばな)として生まれたものである。世の中には、生まれながらの能力を遥かに上回る高校への進学を求められてしまう気の毒な少年少女や、将来は侍ジャパンかなでしこジャパンかに選ばれることを夢見ている幸せな少年少女たちや、さらにはショパンやチャイコフスキーやの名を冠した国際コンクールで第一位に座るべく睡眠時間を削っている少年少女たちがいる。それも実際はもっと遥かに広範囲にわたってそうした連中がいる。文科省が定めた義務教育課程を消化する以上の有益な付加価値をなにひとつ提供できない公立中学校が、気の毒で幸せな睡眠不足の少年少女たちの足を引っ張るだけの決まり事を保護者から指弾されてしまい、已む無く用意した辻褄合わせの部活動がすなわちパズル部だ。
 しかし泉美は、授業が終了すると同時にそうした

の場へと全速力で駆け出すべきなにごとかなど、ひとつも持っていなかった。だからこそ、パズル部というのはそうした

少年少女たちと友達になれる

場なのだそうだ。言うまでもなく、そんなものは自分に都合のいい屁理屈に過ぎない。「なにもする気がない」を「なにもしないをしたい」に置き換えただけだ。「なにもしないをする」なんていう「(くう)」の教えみたいな屁理屈をどこで覚えたのか知らないが、泉美はいまは部活動は必須とかいうバカげた決まり事のない、始業・終業のホームルームもなく掃除もない、その分だけ学費の高い私立大学の附属高校に通っている。従って泉美は誰からも(自分自身からも)責められない、誰にも(自分にも)言い訳をする必要のない、それこそ自由気儘で心安らかな帰宅部の所属だった。
「映画でも観に行こうかなあ」
 泉美はスマホを取り出して上映中の映画を検索し始めた。
「『ビブリア古書堂の事件手帖』て知ってる?」
「とある古書店主が妙齢な上に巨乳でもあることを寿ぐミステリーだと聞いている」
「『ボヘミアンラプソディー』て知ってる?」
「エイズが飛沫感染すると恐れられていた時代の伝説的ロックスターのメモワールらしい」
「『スマホを落としただけなのに』て知ってる?」
「そいつは知らない」
「……やっぱりなんか本持ってお母さんのそばにいよう」
「悪くないアイデアだ」
「お母さんずっとひとりぼっちだし」
「そうだな」
「湊斗、また『氷』を貸してくれる?」
「おまえの部屋にあるはずだよ」
「あ、そうかも。――あ、着いたよ」
 電車を降り、改札を抜け、歩道を歩き、病院の敷地に入り、時間外の出入口から、泉美はまっすぐ集中治療室に向かった。親族だから面会時間の制限などあってないようなもので、泉美は二、三時間は出てこないだろう。しかしまた『氷』を読むのか。このクソ寒い十二月の半ばを過ぎて。確かにあの人の好きな本のひとつではある。アンナ・カヴァンはマルグリット・デュラスと並んで書棚からサイドテーブルに移される頻度が高い作家だ。
 あの人の書棚がどのようにして埋まって行くのか、どこから供給されているのかは、およそ想像がつく。恐らく俺の想像は間違っていない。たとえば『氷』はバジリコ社の初版本だ(恐らく一刷しか出していない)。たとえば『ロル』も河出書房新社の初版である(こちらは二刷くらいは出したのか?)。あの人はそんなところには興味がない。カヴァンやデュラスであれば出版されたら無条件に買うような人間がどこかにいて、それがあの人の手元に回ってくる。彼らは間違いなくジョイスもナボコフもエーコも買う。俺も母の書棚から持ち出してきた。考えてみればあれこれ持ち出している。そう言えば『ロル』は愛莉に貸したままになっていた。すっかり忘れていた。あれは戻しておいたほうがいい。あれもあの人の好きな本のひとつだった。あの人の書棚に並べてあるべき本のひとつだ。
 俺はいつもの待合室でリュックからやはり本を取り出した。兄から『経済学・哲学草稿』なる文庫の古本を借りているところだ。別段これと言って興味を持ってのことではない。皮肉ではなくけっこう笑いどころのある傑作だと兄が言うので借りた。確かに笑いどころがあって驚いた。マルクスという天才はなんだか身も蓋もないようなことを小難しく語るのが好きな人間だったのかもしれない。それが図らずも――図っているのかもしれないが――上質なユーモアになっている。そもそも価値の源泉が労働であると主張しているところからしてユーモアを感じざるを得ない。(議論がおかしな方向に向かうと面倒臭いことになるから、そこはわざとそう言って安心させているわけだろう? 哲学から説き起こさないことにはどうにもならないわけだし)
 ほどなく日がすっかり暮れた。この時期はあんまり早く日が暮れるもので時間の感覚が麻痺してくる。同じ時刻が「もう」と「まだ」のあいだを往き来する。しかし今日はなにをするわけでもなくただ漫然と泉美を待っているだけだから「もう」も「まだ」もない。外部からなんらかの刺激を受けない限り「もう」や「まだ」という感覚は生まれない。つまり内的な意識の流れというやつはそれ自体では時間を持つことがないわけだ。ここでいう「時間」とは俺たちがふだん「時間」と呼んでいる例のやつのことだ。コミュニケーションを図ることのできない母親のそばで泉美はなにをしているのか――俺は要するにそれを考えていた。
「湊斗、今日はひとり?」
 待合室の扉が開く気配に気づかなかった。すでに伯母はほとんど俺の真横まできていた。
「泉美も一緒です」
「雪乃のところね」
「え~と、かれこれ一時間半ばかり」
 腕時計を見ながら「まだ」一時間半しか経っていないのか…と俺は思った。伯母は向かいのソファーに座りかけ、そこにバッグを置くとコーヒーベンダーに歩み寄った。俺は勧められるままに御馳走になった。寒いわね…と言いながら伯母はコーヒーの紙コップを両手で包むように持って口にした。
「試験はどうだった?」
「ちゃんと受けましたよ」
「結果を訊いてるのよ」
「泉美は過去最高順位を更新するかもしれません」
「あら、それはなにより。…うゝん、あの子は呼ばなくていいわ」
 腰を浮かしかけたところを制止された。
「俺を目当てにきたんですか?」
「あなたは想定外の動きをしないから助かるわね」
「なるほど。試験最終日の夕方にはここに座っているはずだ、と」
「ところがそうしないのがぽつぽついるから困るのよ。それも心配な人間に限ってそう。だから心配になるんだとも言えるわね。昆虫みたいなものよ。哺乳類なら初めて聞く話でも驚きはしないでしょ、感心はしても。虫って感心はしないけど驚かせてくれるわけよ。それも唖然とするレベルでね」
「それは擬人化して理解しようとするからですね」
「擬人化するほかに理解の手掛かりなんてある?」
「ああ、そういう話になるわけか」
 まったく世の中にはおもしろいオバサン(失礼…)がいるものである。
「あなた『経哲草稿』なんて読んでるの?」
「暇潰しです。ところどころ笑わせてもくれますし」
「たとえば?」
「片想いはその価値を実現できないという点において不能である」
「売れない商品は定義上すでに商品とは言えないってやつね」
「だけど片想いは無価値だとは言っていない」
「当人にしか使い道がないんだから無価値でしょう」
「そうか。使用価値は一般的でないとダメなんだ」
「交換の可能性がなければすべて無価値よ」
「なんであれ?」
「例外はあるとか言って欲しいの?」
「例外がないと、すべてとは言い切れません」
「じゃあ、ひとまず片想いを例外に据えとけばいいわ。わざわざマルクスが言及したくらいだから、きっとなんらか価値はあるんでしょう。実際それで人が死のうとするわけだし」
 こうした大人には滅多にお目にかかれないのではないか。中学や高校の教師の中に二人くらい混じっていても罪には問われないと思うのだが、少なくとも俺には出会った記憶がない。幸いにも(と言っていいだろう)、俺の思春期は外向きではなく内向きであったため、己の環世界に都合よく教師を配置することで事無きを得てきた。彼らをある種の貧弱な情報端末(汎用的ですらない)と割り切ってしまえば済んだ。実際、汎用性のない情報端末だと言っていい。たとえば「数学」とラベルの貼ってある端末に「七月革命」と入力してみたところで、〈エヴァリスト・ガロア〉の数奇な生涯を王政復古当時のフランスの空気とともに語り出してはくれないのだから。しかしこれは恐らく俺にいくらか運が足りていないことの証左に過ぎないのかもしれない。なぜなら目の前にその反証が座っているからだ。ただ残念なことに彼女は俺の学校の教師ではなく、そもそもが医師であり、俺の母親の姉であり、すなわち俺の伯母であり、いまは製薬会社の研究員であり、従って、さほど長い時間は遊び相手になってくれない。
「無駄話が過ぎたわね。本題に入るわよ。――私の約束を憶えてる?」
「僕らの試験が終わるまでは何事も起こらない」

、よ。

あなたたちの試験が終わるまで」
「どこが違うんですか?」
「試験は終わったのよね?」
「終わりました」
「で、いま世界はどんな姿をしている?」
 なるほど、そういう話だったのか。
「母が家から姿を消し、ここにひっそりと眠っています。これは新しい世界ですね。いつまで続くのか誰にもわからない。――伯母さんは要するに、屈曲点を数日間の線に伸ばしてくれたんですね?」
 ここに――まさに母が眠る集中治療室のそばの待合室の中で――ひとつの屈曲点が生まれた。ここを境にして物語は連続性を断たれる。相互に了解可能ではあるけれど、もはや往来はできない。

の次に

があるわけでなくなったのだ。
「私にできるのはたぶんここまでよ。年度末まで保証する必要はないわよね? 求められてもそんな約束しないけど」
「大丈夫です。仮に三か月後、まだこの世界が続いていたとしても、やはりこれは刀矢と御堂の仕事でしょう」
「ねえ、湊斗。こないだは遊びにいらっしゃいとか言ったけど、あなたは『池内』の人間には会わないほうがいいわ。ロクでもないやつばっかりだから」
「伯母さんも、ですか?」
「私は常に『調停者』の立場よ」
「それなら伯母さんにだけ会いに行きますよ。こんなにおもしろい大人を手放すのは正直惜しい」
「ただねえ、研究所のコーヒーもこのレベルなのよ」
 と、伯母が空になった紙コップを持ち上げて見せた。
「構いません。僕はまだ子供なので、コーヒーをさほど美味しいとは感じていない」
「あら? 刀矢の次女ってカフェをやってるのよね?」
「そこは、内緒にしといてください」
 伯母は笑いながら紙コップを手の中で潰した。俺はそれを受け取って自分のと一緒にコーヒーベンダーの脇のゴミ箱に放り込んだ。エレベーターホールまで送ってきた俺に、伯母はこの日は一緒に乗れとは言わなかった。当たり前である。今日は泉美はまだこのフロアーにいる。
「泉美によろしくね」
「ええ、伝えます」
「私はそんなに怖いオバサンじゃないって言っといてよ」
「事実をありのままに伝えますよ」
「それってどっちなの?」
 答える必要のない問いには答えるべきではない。つまり、伯母は怖いオバサンである。そうではないと自分で思っているのであれば、誰かが教えてあげたほうがいい。しかしそれは池内の人間の仕事であって、刀矢や御堂がすることではない。なにしろ怖いのだから。
 待合室に戻ると泉美が座っていた…なんてことにはなっていなかった。間もなく二時間が経とうとしている。俺たちは今日の午前中に期末試験を終えたばかりであり、泉美は椅子に座ったまま眠りこけているのではないか?と疑ってもいい状況にある。しかしそうなると俺は起こしに行かなければならず、嫌でもあの人の顔を見ることになる。そいつは勘弁してもらいたい。だからあと一時間は待ってみよう。そもそも二、三時間は戻らないだろうと考えていたのだから、二時間待ったあとにはまだ一時間残っている勘定になる。それで合っているか? 時間の計算もできなくなったのか?
 表にはまだ始まったばかりの夜がある。あんまり日が早く沈むものだから、この時期は時間の感覚が狂ってしまう。さっきもそんなことを考えたはずだ。いや、今度は違う。確かこんな始まり方をするミステリーがあった。いま思い出すからちょっと待ってくれ。――夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった。――四つの要素のうち、三つは合致している。夜は確かに若い。それは時計を見ればわかる。俺も確かに若い。まだ十七歳のへっぽこだ。俺の気分も確かに苦い。泉美が戻ってこないからだ。しかし表の空気が甘いかどうかは、この病院の待合室にいたのではわからない。なにしろ病院なのだから、空気はいつだって代わり映えがしない。――しかし夜の空気が甘いとはなにごとか? そうだ、デートの時間だとか言っていた。世の中の連中がデートを始める時間だから空気が甘くなっている。にもかかわらず俺はいったいなにをしているのか? そんなふうにして苦さを際立たせ、物語を始めたのだ。男はどこにいたか? バーのカウンターだ。俺はどこにいるか? 病院の待合室だ。男にはスコッチがある。俺にはさっきまでコーヒーベンダーの紙コップがあった。――ここまではどうやら男のほうに()がありそうに思える。――男の気分はなぜ苦いのか? 奥さんと喧嘩をしたからだ。俺の気分はなぜ苦いのか? 泉美が戻ってこないからだ。違う。男は奥さんと別れたいのにまともに話ができないことに苛立っていた。俺はここから離れたいのに泉美をあの人から引き剥がせずにいることを甘受している。――どっちのほうが酷い? これで互角になったか? ――そのときしかし男の奥さんは殺されていた。他方であの人はまだ死んではいない。コミュニケーションは図れないが、(医学的には?法的には?)まだ生きている。それなら生きてるほうがいいに決まっているという話にならないか? しかし男は殺された奥さんとは別れたがっていたはずではなかったか? それなら奥さんが殺されるのはラッキーなのか? 確かにそれであの人から泉美を引き剥がす結果にはなるだろう。しかし俺はただ泉美に戻ってきてほしいだけなのであり、誰かにあの人を殺して欲しいだなんて思ったことは一度だってない……。
「湊斗――」
 いつの間にか泉美が隣に立っていた。
「終わったのか?」
「うん、終わった」
「話はできたか?」
「うん、いっぱいお話しできたよ」
「そうか。じゃあ、帰ろう」
 泉美はひとりで帰れるというので電車の中で別れた。ホームに降り、ドアが閉まり、電車が動き出すまで、泉美はずっと晴れやかな笑顔を見せてくれていた。ドアが閉まると窓に貼りついて手を振ってもくれた。
 振り返ると若い会社員風の男と眼が合った。男は慌てて背を向けて歩き出した。俺が思わぬ大男だったからに違いない。いや、それは振り返る前からわかっていたことだ。――ああ、泉美に眼を奪われていたのか。確かにあいつは凄い美人だからな。それも母親にそっくりのな。
 しかしどうだろう? この街の夜は甘いか? 郊外の住宅地にある商店街の夜は甘いか? 確かにいま凄い美少女を見送ってしまった若い男には甘くは感じられないだろう。あんな凄い美少女に電車の窓から手を振ってもらえる少年を見てむしろ苦さが増したことだろう。
 ところがな、そこには聊か込み入った、説明するにも気の進まない、面倒臭い事情が転がっているんだよ。あれは俺の妹で、あれの母親はいま甘くも苦くもない死の床に眠っているのさ。妹の母親というのはな、教えてやろう、驚くべきことに、俺の母親でもあるんだぜ。
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