一日目―02

文字数 2,859文字

 大学病院の受付に座る太った女は学生服姿で並ぶ俺たちに対していかにも不躾な態度で応対し、「救急」と描いてある看板に従って進めという以上のなにごとも伝えられない

だった。そんな仕事に金を払っているという一事で病院としての信用まで疑うつもりはないが、たったそれだけのことを生身の人間から聞かされるのは実に腹立たしいものである。その上、従えと言われた「救急」の看板は複雑に折れ曲がり交差する通路の途中で明らかに客の誘導に失敗しており、俺たちは通りかかった職員(どんな職務に就いている人間なのか知らないが)をつかまえて、途切れた誘導部分をつないでもらわなければならなかった。病院を出るときに理解したのだが、要するに、救急専用の出入口からは迷うことなく辿り着ける一方で、外来が開いている時間帯に表の入り口から向かう人間のことを想定していない。あるいは、どうせ職員がウロウロしているのだからなんとでもなると考えている。そのいずれかに違いなかった。
 従妹の――いや妹の泉美は、学校から俺のあとを黙ってついてきた。ここまでひとつも言葉を発していない。俺も正直ここで話を聞くまでは泉美に伝えるべき情報の持ち合わせがなく、とにかく母親が救急車で大学病院に運び込まれたという話しかできなかった。あの人はまた

をやったのである。何年ぶりか正確には覚えていないが、たぶん三年ほどは経っているだろう。前回は救急車の出動まではなかった。が、今回はどうやら事情が違うらしい。そうした気配を俺が感じ取っていたものだから、泉美にも当然のことながら伝染しており、だからひとつも口を開かない。しかし状況がはっきりしない以上は泣くわけにもいかない。泉美は恐らくそんなふうに困っていた。
 救急の職員のほうの応対は金をもらって働いている人間に期待される程度にはしっかりしており、俺たちの素性を確かめると(学生証を見せた)思いがけず広くて明るい待合室に案内された。窓の外に常緑の高木が見える。破れてはいないものの相当にくたびれている茶色い合皮のソファーが四つ、無料の給茶機と有料のコーヒーベンダーと小さな鏡のついた洗面台があった。大学生の兄が先に着いていた。父は会社から向かっている最中だという話である。中学生の弟には帰宅したら叔母のカフェで連絡を待つように学校を通じて伝わっているそうだ。兄は泉美が一緒にやってくることを想定していなかったのか酷く驚いた顔をした。しかしこの事態において俺が早退する理由を偽り泉美を学校に残してくるなんて選択肢はないはずである。俺たちは兄の向かいのソファーに座った。泉美は少し迷ってから俺のすぐ隣りに腰を下ろした。
「で、あの人はなにをしたんだ?」
「川に溺れたところを助けられたそうだ」
「川に溺れた? いやちょっと待ってくれよ。そんなバカな話があるか?」
「実際あったんだから、あるんだろうさ」
 兄は泉美の様子を気にしながら話している。視線がちらちらと泉美のほうに向かう。川に溺れたと聞いたところでビクッと体を震わせたりするからだ。妹でなければ――あの人の娘でなければ――会話の外に放り出したいところだが、それをできないのがもどかしい。兄もまた、実の妹であるとはいえ別の家に育ち、今も一緒に暮らしているわけではない泉美の扱いに困っている。弟が叔母のカフェに行くことになっていると先に聞いていれば、泉美も叔母に預けてきたのだが。
「それで?」
「ん? ああ、いいのか?」(と兄が泉美に眼を向けた)
「泉美、ちゃんと聞けるか?」
 俯いた顔に問い掛けると中途半端に頷いた。それでも兄はまだ少し迷っている。しかし中途半端とはいえ泉美が頷いたからには話さないわけにはいかない。兄は俺の顔だけを見て肝心なところを口にした。
「心肺停止の状態からひとまずは蘇生した。が、どれくらいの時間そうだったのかわからない。長ければ結局は助からない。そういう状態だよ」
「脳の話をしている?」
「そんなことまで俺は知らんよ。酸素を必要とする臓器は脳だけじゃない。あとで医者が詳しく説明してくれるだろう。――おまえら飯は食ったのか?」
「食ったよ」
「俺はまだなんだよ。ちょっと出てくる。おまえらはここにいろ」
「飯は食えるんだな」
「食えるさ」
 兄の言い方は、こんなくだらないことのために昼飯を抜くほど自分は愚かな人間ではない、と嘯くように聞こえた。実際、俺と小さく笑みを交わしてから、兄は待合室を出た。泉美は動かなかった。じっと黙って俯いた姿勢でいくらか体を緊張させたくらいだ。俺はそこでコートを脱いだが泉美はそのまま座りつづけた。兄はそれ以上の話を持っていなかった。あとは父を待つよりしようがない。俺は待合室をぐるりと見回し、なるほどドラマや映画で見るような「手術中」の赤いランプを見つめて待つような話ではないのだなと思った。あれは要するに劇的な演出をするための作意的な設定なのだろう。確かに親族やそれに準じる者の数が常に一人か二人というはずもなく、五人も十人もそんなところ(手術室への出入り口だ)にウロウロされては病院のほうだって迷惑する。
 ここまで泉美が泣き出したりしなかったのは正直なところ意外だった。すぐに泣くやつだと思っていた。兄が出て行っても泉美はじっと動かずにいる。泣き出しそうな気配はない。泣き出したいのを堪えている様子もない。しかしなにかを考えているわけでもない。恐らく感情を昂らせるなんらかの回路を遮断したか、ある種の神経伝達物質の分泌を増やしたか減らしたか、泉美なりに自己防衛を働かせているのだろう。
 まったくあの人には困ったものだ。いつまでこんなことを繰り返すのだろう。――いや、そうじゃないのか。あの人は今回は失敗したのか。失敗したのかもしれないのか……。
 泉美がハッとしたように顔を上げた。俺を見ている。俺がいま考えたことが伝わったかのように。俺がいま考えたことの意味を、あるいは俺がいま期待したことの意味を察したかのように。俺がそこにたどり着く瞬間に、泉美のほうがわずかに先回りしたように思えた。
「どうした?」
「なんでもない」(と慌てて首を横に振った)
「心配するな。あの人は助かるよ。これまでもそうだった。あれはあくまでも狂言だ。種も仕掛けもあるんだよ」
「……湊斗は嘘をついてる」(ふたたび俯いてしまった)
「嘘はついていない。助からないと知っていて助かると言っているわけじゃない」
「でも私――私はもっとお話ししたい……」
「あの人とか?」(ここではしっかりと頷いた)「そうか。おまえがそう思ってるなら、あの人もきっと同じだろう」
「〈あの人〉て言わないで」
「ん、ああ……」
 それなら〈あの人〉のことを俺たちはなんて呼べばいい?
 医者の話は父が一人で聞いた。俺たちに伝えられたのは、現時点で請け合えることはなにひとつないという、非常にわかりやすい事情だけだった。
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