零日目―03

文字数 3,025文字

 湊斗には、戸籍上は従妹なのだが生物学的には双子の妹であるという、なんともややこしい関係の少女がいる。どうしてそうなったかと言えば、七面倒臭い経緯は端折るけれど、息子(湊斗)のほうが大きくなり過ぎたせいで酷い難産になった結果、母親が出産後に何ヶ月も入院しなければいけない事態となり、父親の妹に当たる叔母さんが、病気で子供を産めない体になってしまっていたこともあり、そこに女の子がどうしても欲しかったという心情も手伝って、娘(泉美)のほうを喜んで引き取ったという話だ。――思い切り端折ったよ。
 そんな

があってみれば、その娘が十七歳になったとき、彼女に少しばかり

が起きたとしても、いかにもありそうな話だと簡単に片付けられてしまう世の中である。恐らくそれは、広義における精神分析(のエキセントリックな部分)の流布のせいで、それらしい専門用語を混ぜ込んだ上っ面の議論が、暇潰しにしかならないニュースサイトやお笑い芸人が進行する情報番組などで――言い直せば、真に受けてうっかりどこかで口にすれば嘲笑され兼ねない浅薄な知識として――まったく無責任に語られているからに違いない。僕だって、もしその二人が極めて近いところにいる人間でなかったとしたら、きっと同じように訳知り顔で批評するだろう。育った家庭環境は重要だとか、うっかりコメントなんか書き込むかもしれない。――いや、書き込みはしないな、さすがに。
 刀矢湊斗と御堂泉美とは、そのようにして従兄妹(いとこ)であり、そのようにして兄妹(きようだい)だった。二人は物心ついたときから自分たちは従兄妹であると同時に兄妹でもあると教えられて育った。従って、泉美に起きた少しばかり

は、秘匿されてきた出生の秘密が思春期になって暴露されたことを契機として発現した

。僕が聞き知った範囲では、泉美がどうやら湊斗に対して逃げ場のない恋をしてしまったことが原因らしい。順序としては、好きになった相手が実は兄妹だった…とかいう安っぽいコミックかテレビドラマなんかにありがちな経過ではなく、兄妹だと承知しているのに好きになってしまった…とかいうやっぱり安っぽいコミックかテレビドラマなんかにありがちな物語である。従ってそれは、外部からの一発の激震によって惹き起こされた暴発ではなく、内側でじわじわと自らの進退を狭めて行った果てに訪れた崩壊だった。――だけど僕はいまからここで、御堂泉美が刀矢湊斗に対して抱いた幼い恋に関する無味乾燥な報告書を皆さんに提出しようとしているわけではないので、どうかご安心を。それはこの六月から九月までの出来事としてすでに終わっている。
 なにぶん泉美の恋は一方的なそれに過ぎなかったから、壊れるとすれば泉美のほうになるのは必定だった(と言い切っていいのかな?)。たとえば性的マイノリティの人間が、初めて好きになった相手が同性であることに戸惑い、受け入れてもらえないだろうことに苦しむのと同じように、泉美もまた、初めて好きになった相手が実兄であり、受け入れてもらえないだろうことに苦しんだ。――しかし、相手に受け入れてもらえないだろうことに苦しむのは、あらゆる恋愛における普遍的なテーマである。なにも同性愛や近親愛に限った話ではない。それこそ相手に受け入れられた瞬間に、恋は終わるのだと言ってもいいだろう。プルーストも確か『囚われの女』かなにかでそんな議論を例のごとくうんざりするくらいにくどくどしく書き募っていた。(アルベルチーヌが悶絶するほどに可愛らしいものだから、マルセルの振る舞いにだんだん腹が立ってくる第五編でのことだ)
 だけど、そうした固有の関係における問題を超えて考えてみたとき、同性愛は社会的に認知され受容されて行く流れが出来上がりつつある一方で(なにしろ〈ソドムとゴモラ〉が焼き尽くされてから、かれこれたぶん四、五千年が経つわけだ)、近親愛に関しては議論の萌芽すら見られない絶対的な禁忌=タブーであり続けている。そうであってみれば、御堂泉美はどこからも救いの手が差し伸べられることのない恋を超克しなければならなかったわけであり、それが数ケ月の不登校をもって解消されたことは、奇蹟的な僥倖だと言ってしまってもいいのではないか。泉美の中で、あるいは湊斗と泉美のあいだで、その間にどのような「変容」(その前後で〈世界‐内‐了解〉が途切れてしまうような体験)があったのか、二卵性双生児から見れば圧倒的に他人である僕らには知る由もないけれど。
 生まれ変わった御堂泉美は、しかしながら、驚くべきことに、その過程を通じて目を見張るほどの、こちらの腰が引けるほどの、とても十七歳とは思えない美女に変貌し、二学期から再登校してくることになる。本来であればこの年齢では獲得すべくもないはずの成熟を、泉美は不登校とその超克の過程で手に入れていた。「あれはまんま母親の顔だぜ」と湊斗は冷静にそう呟いたわけだが、そんな呟きが同級生男子の耳に入るはずもなく、たとえ聴こえたとしても意味のある情報として処理されるはずもなく、我が校に凄い美女が出現した!という激しい動揺――激震が走った。母親から、あなたにはもっと大切なことがいくらでもあるでしょう?なんて言われたところで、そう容易くこんな夢から一挙に目覚めるものではない。
 そう、世界は一変したかのように思えた。実際、世界は一変したのだと誰もがそう思った。しかし、それが儚い幻想に過ぎなかったことを、間もなく男子生徒諸君は知らされることになる。爆発的に数を増した自分に言い寄る男子生徒たちに、泉美は一言、あなたが刀矢湊斗に認められたら考える、と一様にそう応じたからである。すなわち、世界の約束事はなにひとつ変わってなどいなかったのだ。
 泉美のこの一言は、わかりやすく譬えてみるならば、かぐや姫が課す無理難題とほぼ同じ構造をしていた。誰もが刀矢湊斗が何者であるかを知っている。しかし、その湊斗に認められるにはどうすればいいのか見当もつかない。たとえば今からバスケ部に入部したところで、一八八㎝のエースと肩を並べることなど夢物語にしか思えなかったし、たとえば試験結果で学年一桁に自分の名前を載せようと考えてみたところで、現時点でそこに居並ぶ顔ぶれを思い浮かべてみることすら無意味に思えた。そして言うまでもなく、運よくそれを達成してみたところで、その前にそもそも泉美から憎からず思ってもらえるかどうかに関しては、まったく別次元にある未知の問題として横たわったままなのである。
 しかし、泉美に起きた少しばかり

を、殊更に大袈裟な出来事として語り継ぐ必要はないだろう。それは要するに、思春期におけるひとつの跳躍の現われだったのであり、その跳躍の

とが、自分ではその姿勢を制御できないほどに、そして周囲の人間もその姿を見失ってしまうほどに、いささか

というわけだ。そうであってみれば、従兄として育った実兄に恋をしてしまうだとか、三ヶ月ばかりバスに乗れなくなってしまうだとか、そんなちょっと

が起きるのは致し方ないことでもある。泉美のそれは、十七歳というこの時期に誰もが経験する、〈世界‐内‐了解〉の連続性が断たれてしまう「変容」の、やや過剰なバリエーションのひとつに過ぎなかったわけだから。――ごめん、物語はまだ始まらない。
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