十日後―01

文字数 6,427文字

 三学期の始業式は教室のモニターで校長先生(あんな顔をしていたっけ?)の新年の挨拶を眺めるだけで終わった。画面の端に「LIVE」と表示したほうがいいと誰かが口にして笑いが起き、そう言えば背中の壁に掛かっていた時計は何時を指していたかと騒ぎになり、そんな喧騒の中、まるでいつもと変わらない一日のように、しかし十五分ほど遅れて一時限目の授業が始まった。元々いわゆるホームルームなどない学校である。とは言え今日は午前中のみの時間割だった。
 二時限目が始まる直前に職員が現れて、廊下に湊斗が呼ばれた。小さなメモを手に戻ってきた湊斗は、二時限目が終わると珍しく休み時間いっぱい教室から姿を消した。三時限目が終わったところで湊斗が泊里純也(男子バスケ部のキャプテンである)に歩み寄り声をかけた。二学期の最初に起きた泉美の再登校をめぐるつまらない(くだらない)騒動のあと、この二人が教室で言葉を交わす様子を初めて見る。息を詰めて見守るとまではいかないまでも、おしゃべりの声が半分ばかり消え、あるいは声を抑えたのがわかるほどには、クラスメイトたちが反応した。湊斗はそのままふたたび教室を出た。愛莉のクラスに行ったのをあとで知った。湊斗の登場が愛莉のクラスのおしゃべりをほぼ完全に停止させたであろうことは想像に難くない。
 四限目が終わってその愛莉がリュックを肩にやってきた。僕は慌てて机を片付け愛莉に譲った。泉美の席には美乃利が座り、そうして授業が午前中で終わる際に恒例となった席次が出現した。
「さっきどこに行くって言った?」
「有楽町だよ。聞いてなかったのか?」
「だっていきなり乱入してきてぼそぼそ話されたからさ」
「乱入はしていない」
「湊斗の登場はいつだって乱入扱いになるんだよ」
「そう、手塚の言う通り。ほんと、心臓に悪いったら――」
「有楽町なんかになんの用事?」(こうした割り込みは決まって結衣だ)「あそこって銀座よね? 湊斗が制服で行ったら浮きまくるよ」
「着替えている時間がない」
「お弁当食べてるのに?」
「腹は減る。――ああ、そうだ。泉美、有楽町で池内の伯母さんに会うからな」
「え、私も!?
「俺だけだよ」
「なんだ。ビックリした」
「ホッとしたような顔をするな」
「だってあの伯母さん怖いもの」
「怖くはない。俺が知っている大人の中でいちばんおもしろい」
「どこが? 結衣ちゃんも手塚くんも病院で見たよね? 怖そうな伯母さんだったでしょ?」
「ああ、あの人か。確かになんかラスボス感漂ってたかも。ね、玲央?」(同意を求めないで欲しいのだけど)「背の高いひとだったよね。お母さんのお姉さん?」
「そう。三人いる姉の三番目」
「四人姉妹なの?」
「いや、五人姉妹に男が二人」
「五人姉妹!? 凄いね、それ。男兄弟が気の毒だわ。きっと少年のうちに夢も希望も砕かれちゃって、悲惨な人生送ってるね。玲央もそんな感じじゃない?」(だから僕に振るなって)「真央さんてパンツ一枚でうろうろしちゃうタイプよね」(しないよ)
「じゃあ、結衣ちゃんが手塚くんの夢と希望だってこと?」
「あ、泉美ちゃん今いいこと言った! 玲央、これからの人生、今の言葉をしっかり胸に刻んで生きていくのよ!」
 否定はしない。実際あの〈明神池〉での一件から、結衣は僕の夢と希望の象徴だった。その上それは象徴に終わることなく、今、僕の手の中にある。日曜の午後も昨日の午前も僕はそれを確かめる機会に恵まれて、今日、これ以上望むべくもない幸福感の余韻の中で三学期を迎えたところだ。
「手塚くん真っ赤!」
「すぐ赤くなるよね」
「エッチなこと思い出した顔だよ」
「愛莉ってすぐそういうこと言うよね!」(結衣も真っ赤になっている)「玲央、とっとと帰りなさい。もう今日は学校に用はないでしょ」
「手塚くん、一緒に帰ろう」(と同じ帰宅部の泉美が声をかけてくれた)
「手塚はむちゃくちゃ果報者だよね。栂野みたいな可愛いのが彼女でさ、御堂さんみたいな美女と一緒に帰るとか、そのうち頭に隕石とか降ってくるパターンだよ」
「工事現場の足場が崩れ落ちるとか」
「足もとで雨水管が陥没するとかね」
「泉美を巻き込むなよ」
「そうそう。御堂さん気をつけてね」
「ちょっと離れて歩いたほうがいいよ」
 どうして僕はいつもこうして散々に貶められてしまうのだろう。泉美と一緒に教室を出て、並んで廊下を歩き、昇降口で靴に履き替えて、ふたたび並んで大通りを歩きながら、そう言えば二学期の試験休み明けにもこれと同じ情景があったことを思い出した。あのとき泉美は、クリスマスから年末年始をこの綺麗な女の子と過ごせたらと妄想を膨らませそれを抑え切れなくなった男子二名から、なんとラブレターをもらったのだ。下校途中を狙っている狼がまだ残っているかもしれないから、僕が泉美の盾になって(言い換えれば身を犠牲にして)無事を確保する名誉ある使命を授けられたのだった。そして今ふたたび僕は、この素晴らしく綺麗な女の子と、駅までの大通りを歩き始めていた。
「今日はラブレターは?」
「今日は無し。今のところ」
「二学期の最後のやつってどうなったの?」
「さあ。湊斗がちゃんと処理してくれたんじゃない?」
「まるで他人事だね」
「だって他人でしょう?」
「まあ、確かに」
 再開発で生まれた大通りであるとは言え、ひとつの高校の(千人はいる)部活のない三分の一ほどが(三百人はいる)ほぼ同時刻に下校すれば、大半の人間が通学に電車を使っているわけであり、ぞろぞろと歩道を占有しつつ歩いて行く。その中で、僕は本当に果報者なのか肖り者(あやかりもの)なのか、それほど極端に報われた人生を送っているとも思えないけれど、言われてみればなんとなく視線が痛いような気がしないでもない。――そう思ったとき、背後から近づくひときわ高いこれ見よがし(これ聞きよがし?)の足音に気がついて、僕と泉美は並んで歩く内側から(僕が右側を歩いていたので左から、泉美は左側を歩いていたので右から)はッとそれを振り返った。
「待ってくれ!」(と、同じクラスの植草が慌てたように片手を突き出した。なにを待つのだ?)「俺はただの〈運び屋〉だ。不老不死でもない。だからこいつの中身も知らない。まあ凡そ見当はつくという話だけどさ」(運び屋=オールドマンは不死ではなかったはずだよ)
 植草が胸のポケットで温めていた届け物は、誰がどう見たってうんざりするほどに

でしかない、まさしくつい先ほど話題に上ったばかりの

だった。冬休み中ずっと考え抜いて書いたのであり、稀代の名文が生まれていないとも限らない。…とは以前の湊斗のセリフ。
 泉美が早くも踵を返そうとする気配を見せたので、今この場で求められている己の責務を思い起こした僕は、それを全うするためにいくらか呆れたようにゆっくりと首を横に振りながら、植草に向かって口を開き、ひとまず泉美の足を引き留めることに成功した。
「誰だか知らないけど、その男は『過去問』に目を通すくらいのことはすべきだったと思うよ。〈運び屋〉を使うなんて上品な方法を選んだら、読んでもらえないばかりか受け取ってすらもらえない。どこのだれであるかも伝わらないまま歴史の塵芥となって風に吹き飛ばされる。そうだろう?」
「もちろん俺だってそう言ったさ。こいつは考えられ得る手段の中でも最低ランクのおっちょこちょいがすることだ。しかしあいつにとってこれが精一杯の勇気であることは是非とも理解してやって欲しい。勇気はなくとも愛は溢れんばかりにあるんだよ。たぶんね。よくわからないけど」
「それ、機密文書廃棄ボックスに捨てといて」と泉美がそこで話を引き取った。「職員室に入って左手奥の複合機の隣りにあるから」
「いや、御堂さん、それはいけない。俺はこいつの中身を見当はつくとは言ったが見ても聞いてもいないんだ。ひょっとしたら国家機密レベルの外交文書かもしれないよ」
「私はいつからそんな重要人物になったの?」
「外交には影響しないかもしれないけど、内政を混乱に陥れている自覚はあるだろう?」
「そんなのないよ。とにかくその誰だかわからないおっちょこちょいに言っといて。私が受け取らなければ機密文書廃棄ボックス行きになるし、私が受け取れば刀矢湊斗の有り難いお話しを聞くことになる。どっちも嫌だって言うなら、最初からそんなの書いちゃダメ」
「わかった。わかったよ。引き上げる。引き上げよう。そもそも今は本当によくないとは言ったんだ。――ああ、つまり、御堂さん、なんて言えばいいか、つまりその、君にお悔やみを伝えたい」
「……あ、ありがとう」
「刀矢が座ってるからみんなビビッて近づけないだけで、これは俺だけじゃない、みんなの思いだ。いろいろ複雑な事情があったみたいだけど――とにかく、うん、今日、学校に君が来てくれて、君の顔を見ることができて、なんて言うか、本当によかったよ。なんかバカみたいだけど、うん、そういうこと」
「……ああ、うん」
「じゃ」
 植草は僕らを追い越して、駅に向かって走り去った。どこかで手紙の差出人と落ち合う手はずになっているのだろう。その後ろ姿には見るからに、不器用に(「お悔やみを伝えたい」?)恥ずかしいことを口にしてしまった少年の大きな羞恥心と、それを遥かに上回る巨大な達成感が、オーラのごとく立ち昇って見えた。正直ちょっと羨ましい。隣りでは鼻筋の通ったとても十七歳には見えない美女の、はみ出しそうなくらいに切れ長な睫毛の眼差しが、少しばかり呆気にとられたように微かに唇の開いた横顔で、走り去る少年の背中を追っていた。――そう、僕らはほぼ同時にこの茶番劇の裏にある真実に気がついたのだ。いや、裏なんかない。見たまんま、そのまんまの真実である。
「あいつ、運び屋じゃなかったのか……」
「植草くんてどんな子か知ってる?」
「いま見た通りの小心でおしゃべりなお調子者。いわゆる

だね。…でも、いつの間にあんな背が伸びたんだろう?」
「手塚くん、追いつける?」
「あり得ないよ。ここから大声で須藤さんを呼んだほうがまだ可能性がある」
「私、酷いこと言ったよね?」
「いつもとまったく変わらない対応だったと思うけど」
「でも直接だれかに私の口から言ったのは初めて。いつも湊斗にお任せしてたから」
「なるほど。湊斗から聞いたほうがまだマシなのか。その通りだね。驚いたな。いや当たり前か」
「手塚くん、やっぱり走って」
「無理だよ。どうせ追いつけないし、上りか下りか知らないし、電車はきっと駅を出てしまう」
「じゃあ私はどうすればいいの?」
「明日また学校で会える」
「……明日は誰にも約束されてなんかいない」
「もちろんそうだ。でも僕らはそれを前提にしないことには生きていけない」
「今日、席替えしなかったね」(急に話が飛ぶんだな)「私のせいかな。きっとそうだよね」
「それも明日の朝、先生に言えばいい。私はもう大丈夫です、てさ」
「湊斗なんかいなければよかったのに」(なんだ、そういう意味か)「湊斗がいなければ私あんな酷いこと言わずに済んだのに」
「だけど湊斗がいなければ〈御堂泉美〉も産まれなかったんじゃないかな」
「〈刀矢泉美〉なら産まれたかもしれないでしょう?」
「それもどうかわからないよ」
「だったら……手塚くん、走ってよ」
「僕は走らない」
「だって明日、植草くん来ないかもしれない」
「植草はくるよ」
「私が来れないかもしれない」
「御堂さんもくる」
「どうしてそんなに意地悪なことばっかり返せるの?」(じっと見つめないで欲しい)「――いいわ。もし私か植草くんの上に〈明日〉がこなかったら、手塚くんに責任取ってもらう」
「なんの責任?」
「私が植草くんに酷いこと言った責任。さっきからずっとその話でしょう?」
「だけど、どうやって僕が?」
「そんなの自分で考えて」
 いったいこんな僕のどこが果報者だというのか? 肖り者(あやかりもの)だというのか? この僕の人生のどこが報われているなんて言えるのか? そんなことを言っているのは誰なんだ?
 明らかにムクレている泉美の背中を追って歩きつつ、僕もなにしろ真面目で小心な少年のひとりだから、もしも誰かの上に〈明日〉なるものがやってこないとした場合に、残された人間にその誰かとの約束を――あるいは約束だなんて言えるほどのことでもない擦れ違いを――どうすれば責任もって処理できるものなのか、考えながらやがて泉美に追いついてみれば、見れば――その眼には、再開発で誕生した真っすぐな大通りの果てに、どうやらまだ走り去った影が映っているようだった。
 僕は思わず唖然として言葉を失った。
 ついひと月ほど前にYouTubeで公開された、いわゆる「ボーイミーツガールもの」に分類される企業イメージCM系の短いアニメのワンシーンで――それはまさに約束だなんて言えるほどのことでもない擦れ違いを描いていた――BUMP OF CHICKENが「ちゃんと今日も目が覚めたのは君と笑うためなんだよ」と歌い、「もう一度眠ったら起きられないかも」と歌い、「もう一度起きたら君がいないかも」と歌い――つまりは誰かの上に〈明日〉なるものがやってこないかもしれないと歌い――しかし続けてそのあとに「昨日が愛しくなったのはそこにいたからなんだよ」と歌い、「明日がまた訪れるのは君と生きるためなんだよ」と歌ったことの先見性と予言性とに。
 要するに僕にはなにもする必要がなく、植草が明日の朝もちゃんと目を覚ませばいいだけの話なのであり、泉美がただ〈明日〉を望めばいいだけの話なのである。なんということもない。きっといちばん簡単なことのひとつだ。いちばん簡単で、いちばん大事なことだ。
「御堂さん、大丈夫だ」
「なにが?」
「明日、植草はくる」
「知らない」
「君もくる」
「かもね」
「だから急ごう」
「え、なんで?」
「だって湊斗は部活を休んで有楽町に行くんだろう? 弁当食べたらその足で制服のまま向かうんだろう? 湊斗の早食いは御堂さんがいちばんよく知ってるはずだよ」
「そうだった! 捕まったら私も伯母さんとこに連行されるかも!」
 僕らは走った。そろって帰宅部であり且つ運動音痴の二人が大通りを走るのだから、これは余程の事態なのだ。あっという間に息が上がるし、あっという間に腿が上がらなくなる。湊斗や愛莉とは違うのだ。バスケ部や陸上部のエースと一緒にしてもらっては困る。僕らは走れば躓くのだ。そういうみっともない十七歳もいるのだということを、アニメのクリエーターなんかをやっている人たちは同じようにみっともない十七歳を過ごしたのに決まっているのだから、どうか忘れないでいて欲しい。
 それでも僕らはこれ以上は無理というくらい、ついには足が地面にほとんど付かず、空中に浮かび上がるまでに走った。躓きながらも転ばずに駅までの道を走り切り、あの恐ろしい刀矢湊斗から逃げ切って、けれどもやはり植草には追いつかなかった。僕は少しだけそれを期待したのだが、泉美もきっとそうだったのに違いなく、電車の中で荒い息を吐く無様な様子に衆目を集めながら(もしかするとそれは凄い美少女が駆け込んできたせいだったのかもしれない)、それでも必死に走った分だけは確実に、ほんの僅かではあるけれど、僕らは〈明日〉に近づいたと言えるのではないだろうか。
 もちろんそれは最先端の電子顕微鏡をもってしても確認し得ないほどの僅かな接近に過ぎず、辛うじてバタフライエフェクト的な不確かな未来を期待するような類いの物語に過ぎないだろう。けれどもやはり僕らが十七歳であるからには、あくまでも主観的な体験としてではあるけれども、〈明日〉は間違いなく近づいたのだ。なぜなら僕らの生には限りがあるから。限りある生においてのみ、〈明日〉は意味を持ち得るものだから。――僕はいつか売れない小説家になるかもしれないな。
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