一日目―03

文字数 9,279文字

 僕たちは

をカフェ〈Am-mE(アムミー)〉で真奈美さんから聞いた。カウンターの他方の端には湊斗の中学生の弟が座っていた。彼は僕らのあとしばらくしてやってきて、ずっと試験勉強に没頭していた。中学生男子としては恐らく平均的な体つきなのだろうけれど、湊斗のイメージがあるためにずいぶんと小柄に感じられた。
 どうして私たちは別々の家に帰らなくちゃいけないのか?と、駅のホームで結衣がまた同じことを口にして駄々をこねた。それは僕らがまだ高校生だからだと真っ正直に答えてしまった僕は、そのあと結衣を家に送り届けるまで一言も口を利いてもらえなかった。本当に結衣は振り返りもせず黙って玄関のドアを閉めたのだ。――が、決して酷い話だとは思わない。こんな日の夜に一人のベッドで眠ることのほうが遥かに酷い話だとはこの僕だってそう思う。でもこればかりはどうしようもない。たとえば湊斗と泉美はこの夜を一緒に過ごすことが許されるかもしれないけれど、僕と結衣のあいだでそれが許される可能性は皆無だ。湊斗と泉美は兄妹であり、二人の実の母親が事故を起こしたのであり、僕らのほうは事故を起こしたその人を、実際にはまったく知らないも同然なのだから。
 時刻はまだ九時になる前だった。結衣の家を離れて最寄り駅に向かう途中で湊斗から電話がかかってきた。今どこにいるか?と尋ねられたので、ちょうど結衣を家まで送り届けたところだと答えた。それならその足で泉美の家に来いと言われた。歩いてすぐだろう、と。確かに結衣と泉美は同じ公立小学校に通っていたので、お互いの家は歩いて行ける距離にある。結衣の家は、泉美の家と駅とを直線で結んだちょうど真ん中あたりだ。つまり向かっていた駅とは反対側になるために、僕は道を逆戻りした。夜になって少し風が出てきていた。僕はコートの襟に首をすくめ両手をポケットに突っ込んで歩いた。あっという間に頬と唇がカサカサになった。
 案の定、湊斗は今夜は泉美の家に泊まるという話である。それはできれば結衣には知られないようにして欲しいと僕は二人に懇願した。僕が結衣に対してできなかったことを、湊斗が泉美に対してやったと耳にすれば、結衣の不条理な怒りがどこまで暴発するか見当がつかない。それを聞いて、栂野はバカなのか?と湊斗が言った。それを聞いて、湊斗はバカなの?と泉美が言った。
「いいか、泉美。俺には尚斗(なおと)さんの部屋にベッドがあるが、手塚には栂野の部屋しかない。高校生の男女にそれを許す親はまずいない」
「なに言ってるの? 湊斗もここで寝るんだよ。…あ、床でね」
「ここで?」
「お兄ちゃんのお布団持ってきてここに寝て」
「そうか。……う~ん、まあ、いいだろう」
 それはさらに間違っても結衣の耳に入ってはいけない話だと慌てて叫ぶ僕に――湊斗も泉美もきっと僕を気の毒に思ってくれたのだろう――結衣には絶対にしゃべらないと約束してくれた。僕は泉美が叶うはずのない恋心を抱いていたと聞いているものだから、今夜この同じ部屋に二人が寝る事態を想像して勝手にドキドキした。頭の悪い男子高校生の妄想だ。いや、これは頭の善し悪しの問題ではない。僕らはまだ十七歳だから前頭葉の発達が未完成なのであり、そうした妄想のコントロールが器質的に上手くできないだけだ。すなわち個人の資質の問題ではなく、生物としての成長プロセスにおける制約に起因する事情であって――
「あのあと真奈美さんから電話があってな、おまえらがいてくれて助かったと言ってたぞ」
「どういうこと?」
優斗(まさと)ひとりに話す状況はしんどいって意味だろうな」
「ああ、状況ね。確かにそうかもね」
「あいつ、〈Am-mE(アムミー)〉でなにしてた?」
「優斗くん? ずっと勉強してたよ、彼も期末試験だよね」
「まあ、いちばんデキが悪いんだからしょうがない」
「優斗は真面目でいい子、やさしいし」
「そこは否定してないぞ」
「湊斗と隼斗(はやと)お兄ちゃんがおかしいの。優斗がいちばん普通」
 泉美の評価になにかコメントしようとした湊斗が、その手前で言葉を呑み込んだ。今さら口にする必要もないと思ったのだろう。つまり、三男の優斗くんは(現時点では)母親(あるいは母方)に似ていないという話だ。確かに面影も、物腰も、雰囲気がまるで違う。〈Am-mE(アムミー)〉の真奈美さんの子供だと言われたほうが納得感がある。以前、湊斗自身から僕が聞いた通り、長男の隼斗さんと、次男の湊斗と、生物学上の長女である泉美の三人は、刀矢家のほうの血が薄い。泉美もこの夏にそのように変貌した。すでに幾度か触れた通りだ。
 二人は別段これと言って僕に用事があるわけではなかった。真奈美さんが僕と結衣がいてくれてよかったと言ったのを伝えたかったのと、理由はわからないけれど泉美が僕に会いたがったそうだ。泉美はきっと、僕の推察であり想像に過ぎないけれど、誰でもいいから親族ではない人間と話がしたかったのだろう。湊斗にはこの部屋に一緒に寝て欲しいけれど、息がつまるような気分になるのを回避するのは難しいだろうし、それはもうどうしようもないことだと僕も思う。
 優斗くんが期末試験の勉強をしていたように、高校二年生である僕らも間近に期末試験を控えていた。湊斗はどうせいつものように特別な準備などしないで臨むのだろうし、僕も半分は退屈しのぎで塾に通っているからさほど神経質になる必要はないのだが、泉美はそういうわけにはいかない。いつも全体のちょうど真ん中くらいの順位をウロウロしている。それも、事前に湊斗から傾向と対策を授けられ、事後にも振り返りに付き合ってもらい、その上で依然そうなのだ。
 しかし、この日のこれまでの経過のあとのこの状況下で、試験勉強に取りかかるのは難しい。さすがにそれは(こく)というものだろう。湊斗は時々そうしたことを迷いもなく口にするタイプだけれど、このときは違った。泉美の心情を思いやってのことか断言はできないけれど、間もなく僕らの話題は彼らの親族の周辺から(二人の母親の周辺から)自然と、あるいは意図的に、たぶん泉美がそう望んだように離れた。
「そう言えばおまえらさ、図書室であそこまでするのは、正直ちょっとやり過ぎじゃないかと思うぞ」
「え、なにしてたの?」
「田舎から東京に出てきたばかりの純朴な少女を前にしてはとても口にできないようなことだよ」
「そんなことしてるの!?
「泉美、なんだかわかって驚いてるのか?」
「わかってない。ちょっと想像はしてみたけど……」
「胸元まで真っ赤だぞ」
「田舎から東京に出てきたわけじゃないけど純朴な少女ですから」
 どういう(あや)があってか知らないが、僕(と結衣)の上にとばっちりが回ってきた。
「湊斗の形容には明らかに悪意があるよ」
「悪意はない」
「自分のことは棚に上げてるじゃないか」
「俺たちは少なくとも図書室ではしない。――ああ、そうだ、せっかくだから教えておいてやろう。あそこはな、手塚、実は本を読むところなんだぜ」
「そうなんじゃないかとは思ってたけど、やっぱりそうだったんだね」
「結衣ちゃんのほうが前向きな感じなの?」
 僕も湊斗も肝心のところは曖昧なまま言葉のやり取りだけを続けようとしているのに、本当に胸元まで(暖かな部屋の中で少し覗いているだけだけど)真っ赤にしている泉美が、興味津々の眼差しで根っこのところから混ぜ返してきた。
「そういうときには『積極的』という言葉を使うんだよ。『前向き』というのは社会的にポジティブな価値づけをされている行為においてしか持ち出されない」
「つまり結衣ちゃんたちはポジティブじゃないことをしてるってことね?」
「あれはそうした二元論を超越した世界に属する行為だ」
「全然わかんない。もっとわかんない。チューとかじゃないの?」
「いや、まあ、それなんだが」
「なんで笑うの?」
 それはもちろん「想像はしてみた」と言ったはずの泉美から、それこそ田舎から東京に出てきたばかりの純朴な少女なんてものが実在するとして、歴史的時間が一周回って元に戻ってしまったかのような言葉が、それもどう見ても真顔としか思えない調子で唐突に飛び出してくれば、湊斗でなくとも笑ってしまう。実際、僕も思わず失笑し、泉美からきつく睨みつけられた。そして、こういう大人の顔をした美人から実際に睨みつけられてみると、小説なんかでよく聞かされているように、黙ってじっと見つめられるほうがよっぽど恐ろしいのだという事実を、僕は初めて確かめ得たように思った。
「だって図書室なんだよね? 隠れられるようなとこないでしょう? だったらチューしかできないじゃん」
「そうだ。おまえの言う通りだ。あそこではチューしかできない。だから手塚と栂野もチューをしていた。まったく事実その通りなんだが――しかし泉美、おまえどっから『チュー』なんて言葉を持ってきた? そんなものどこを探したってもう転がってないだろう?」
「転がってるよ。チューはチューだよ。二人とも笑い過ぎだよ。怒るよ、ほんとにもお」
 泉美の部屋は暖かく明るく清潔で心地よかった。物が多過ぎたり偏っていたり、あるいは逆に無味乾燥に過ぎたり、そうしたどこか特定の方向への逸脱を持たない部屋である。空間が与える不安感はそうしたある種の逸脱(多過ぎても少な過ぎても偏っていても)が押しつけてくるものだろう。泉美の部屋はなにも押しつけてこない。そういう意味合いでの安心感がある。いわゆるモデルルームが持つ違和感の正体は、特定の目的に向かってなにかが致命的に多いか少ないかしている事態を、僕らがそれとなく感じ取るからに違いない。部屋というのはそれ自体で充足すべきものであり、どこかを、あるいはなにかを目指すようなものではないのだ。
 僕は要するに、いつまでもぐずぐずと切り上げ時をつかめず泉美の部屋にいた。同じ路線に住んでいるという油断も手伝ったかもしれない。十一時を過ぎたところでスマートフォンが着信を報せる音を聞いたとき、僕は瞬間的に「しまった!」ことを察した。ここで応答してはいけない電話である。僕は慌てて帰り支度を始め、明日は湊斗も泉美も学校を休むと聞き、二人に見送られながら泉美の家を飛び出すと、足の遅い僕なりに全速力で駅に向かって走った。家にたどり着いたとき、さっきはちょうど風呂に入ったばかりだったという状況説明を成立させるためには、それにふさわしい常識的な入浴時間が求められる。今が十二月で、ここが北半球の四季のある緯度にあり、まさに冬を感じさせる寒さが到来していることを、僕は誰にともなく感謝した。長風呂を疑われない理由がそこにあるからだ。
 電話をかけてきたのは言うまでもなく結衣で、僕はその最初の十一時過ぎの着信から二十七分後に折り返した。そのあいだにも一度、不在着信が入っていた。僕が掛け直す数分前のことだ。結衣は相手が出るまで三分おきに電話をかけてくるようなタイプではない。
「ちょうど風呂に入ったばかりのところだったんだ」
 と、僕は泉美の家から帰ってくる間ずっと考えていた最初のセリフを、いく度も繰り返し稽古をしてきたようには聞こえないように注意して口にした。稽古をしていないように聞こえるように稽古をした――ということになる。ややこしいけれど、そういうことだ。
『私もなんかずっと湯船に浸かってて、なかなか出られなかった』
「うん、冬が来たんだなあ…て感じだよね」
『あのね、体が冷めてからお布団に入ったほうがよく眠れるって、知ってた?』
「あ、そうなんだ? 僕は逆なのかと思ってた」
『私もそう。せっかく()ったまったのに、冷めるまで待つとかおかしいよね。でもそうなんだってさ』
「結衣はいま、風呂から上がったばかりの僕の体が冷めるまで話を続けてもいい理由を説明しているわけだね?」
『正解! なんか冴えてるじゃないの!』
「ありがとう。君の心遣いには大いに感謝するよ」
『だけど私はもうとっくに体が冷えてるのにちっとも寝つけないのよね』
「うん、まあ、それで電話してきたんだろうなあ、とは思った」
 どうやら怪我無くスムーズに状況へと移行することができたらしい。スマートフォンが僕の現在の体温をサーモグラフィで映し撮って転送するなんて機能を持っていないのは幸いだ。なにしろ僕は風呂から上がったばかりなどではまったくなく、寒風吹きすさぶ十二月の夜の表から帰ってきたばかりなのだから。いずれどこかのお節介で傍迷惑な人間がそんなアプリを開発するかもしれないけれど、それがあくまでも医療行為にのみ用途を限定されて配信されることを祈るばかりである。
 いずれにしても、僕と別れてから二時間近くも葛藤をつづけたあと、結衣は一人でベッドに入らなければならない事態に納得し、あるいは納得しないまでも折り合いをつけ、僕に電話をかけ、入浴と睡眠のあいだに横たわるこれまで明かされてこなかった驚きの事実を伝えるところまで、なんとか気持ちを立て直してくれたというわけだ。とにかくそうしてくれたのであれば、そこでうまく寝つけなかったとしても、ひとまず僕は心穏やかに明日の朝を迎えることができる。
 僕はコートを着たままの格好でベッドの端に座り、エアコンのスイッチを入れた。当然のことながら僕の部屋では誰も待ってなどいなかったし、わざわざ僕の帰り時間に合わせて部屋を暖めておいてくれるような気の利いた家族もいなかったから、カーペットもベッドも机も本棚もパソコンも、そこにあるものはすべて例外なくすっかり冷え切っていた。
『明日ってさ、たぶん湊斗と泉美ちゃんは学校来ないよね?』
「ああ、そうかもね」(さっき来ないと聞いたばかりだ)
『そしたら私たち並んで座っちゃってもよくない?』
「教師にとってはどうでもいいことかもしれないけど……」
『生徒にとってもどうでもいいことでしょ?』
「人気の高いアイドルは引退しても週刊誌に付け狙われるものだよね」
『アイドルだったことなんて一度もないし』
「偶像という本来の意味で結衣はまさにアイドルだったと思うけどな」
『ずっと猫被ってたのは認める。だってそうするようにみんなから求められてたんだもの、しょうがないじゃない? だけどもう半年も経って、未だに手塚玲央は許せないとか思ってるバカな連中なんて、もういないはずよ』
「それは希望的観測に過ぎないと思う。人の想いというやつは思いのほか粘着性が強いもので――」
『明日は私、玲央の隣に座りたいのよ』
 いつも歩いていた歩道がいきなり陥没するときのような落差と唐突さで、結衣が声と話しぶりを切り替えた。しかしもしかすると僕はこれを待っていたのではないかという気がした。結衣からこれを引き出すために、定められた席次を崩すことのリスクを並べ立てたように思えた。深夜のベッドの中にいる女の子の声が、それも僕を好きだと言ってくれている美少女の声が、甘やかに転調する瞬間を。――ところが結衣は、僕の言葉を遮ったところですぐにそんな気配を掻き消してしまい、非常にわかりにくい(難解なのではなく真意を測り兼ねる)議論を展開しはじめた。
『縦に二列に並んだ四つの机でさ、二人が隣り合って座るパターンて四つあるわけじゃない? ただね、それぞれ自分の座席があるわけだから、さすがに一方はそれを守るべきだとは思うのよ。こんな乱暴な私でも。そうなるとさ、私が湊斗の席に移るか、玲央が泉美ちゃんの席に移るか、この二択しかなくなるわけ。ここまではいい?』(そんなことを考えているから眠れなくなるのだ)
「いいよ、大丈夫」
『そこで冷静に評価してみるとね、隣りに並んだときに話しかけるのって大概私のほうでしょ? 私のほうが黙ってるのに耐え切れなくて話しかけちゃうから。そのときの私の顔の角度が問題になってくると思うのね。玲央が泉美ちゃんの席に座った場合、私は教壇から顔を背けるようにしないと玲央の顔を見られない。でも私が湊斗の席に座った場合は、むしろ少し教壇に向かって体を開く感じになる。――そういうこと。わかった?』(空間的な配置については理解したけど)
「つまり、湊斗の席に座るつもりなんだね?」
『え、なんでそうなるの?』
「え、だって、教壇から顔を背けるのは得策じゃないだろう?」
『私たちいま教室のいちばん後ろの窓際に座ってるわけでしょ。私が教壇に向かって体を開くってことはね、玲央に話しかけるときの顔を、先生ばかりかほかの生徒にもバッチリ見せるってことよ。つまりバレバレな感じになるわけ』
「半年も経って未だに手塚は許せないとか思ってるバカな連中はいない――とか言ってなかった?」
『それでも私の嬉しそうな愉しそうなほんとに天使みたいに可愛らしい顔を見ちゃったらさ、だれがどうにかなっちゃうかもとかだれにも保証なんてできないわよ』(自分でそれを言うのか)
「なるほど。生徒たちに背中を向けることになる僕は、後ろから刺される可能性があるんだね」
『刺されるんじゃなくて殴られるの。刺すのは女の子がすること』(ん? なんだそれ?)『どこかのおバカな女の子が玲央の背中を刺すはずないじゃない。だから柔道部とかサッカー部とか、如何にも頭の弱そうな男子が玲央を殴るのよ。後ろから思い切りね』
「わかったよ。僕が御堂さんの席に座ればいいんだね」
『だけどね、玲央、そうなると今度は後ろから二列目がぽっかり空いちゃうの。私たちは周りから離れて教室の隅で本当に二人きりになっちゃう。こっそり手を握っても誰も気づかないようなところよ。でも手握ったりしたらキスしたくなっちゃうじゃない? そしたらどうする?』
「教室でそんな気持ちにはならないと思うけど――」
『でもそうしたら私はぐっと下を向いてそれこそ歯を食いしばって我慢しなくちゃいけなくなるわ。きっと顔も真っ赤になる。そしたら栂野さんはどうして赤い顔してるんだろう? もしかして手塚が手を伸ばして机の下で栂野さんに変なことしてるんじゃないのか? …とか疑われるわよ。そしたらやっぱり玲央は後ろから思い切り殴られちゃう』
「変なことして欲しいって言ってる?」
『そんなこと言ってない!』
 結衣は要するに、七面倒臭いことをあれこれ言い募ってはいるけれど、僕の隣りに座りたいがしかしそうなると変な気持ちになりそうだから恥ずかしくもあると言いたいわけだ。…と僕は理解した。従って、それなら隣りに座るのは諦めようなんて口にしたら、さらに面倒臭いことをそれこそ日付が変わったあとも延々としゃべり続けるだろう。そうしてうっかり僕が寝落ちなんかしようものなら恐らくしばらくキスはおろか口も利いてくれなくなるだろう。それでもいずれ結衣のほうが耐え切れなくなって(先ほど自分でもそう言ったばかりだ)和解に向けたやはりまた面倒臭いプロセスを開始することになる。それは結衣には屈辱的とは言わないまでもちょっと悔しいのだ。
「結衣が僕の席に座る。僕は湊斗の席に座る。それが最善という結論だね」
『だけど二人とも自分の机じゃないところに座るのってちょっと大胆過ぎない?』
「教室全体を俯瞰してみれば、隙間なく生徒がきちんと座っていて、もっとも安定的かつ落ち着いた景色に映ると思うよ」
『だけどいつも玲央ってギリギリにならないと学校来ないよね? 玲央がくるまで私ひとりで玲央の席に座って待ってるの? それって好きな男の子がいない隙にその子の机に座ってみるみたいなふうに見えない? 私たち十七歳にもなって付き合ってることはみんな知ってるのに、それってちょっとかなりみっともない景色にならない? だから明日は玲央も少し頑張ってひとつ前の電車に乗って私と駅で待ち合せてから一緒に行かないといけないのよ』
「ああ、わかった。そうしよう。それなら結衣、そろそろ寝ないと起きられない時間だね」
『わ! もうこんな時間なの!? おやすみ。おやすみなさい。キスをいっぱい送るわ。玲央もいっぱい送ってちょうだい!』
 結衣は要するに、七面倒臭いことをあれこれ言い募ってはいるけれど、これをきっかけにしてこれからは駅で待ち合わせて一緒に登校したいと遠回しに求めているわけだ。…と僕は理解を改めた。僕らがどうしてこれまでそうしてこなかったかと言えば、かなり自虐的な喩えになるけれど、栂野結衣と手塚玲央の組み合わせなんて人気絶頂の若手女優が中小企業のエンジニアと熱愛関係にあるとかいう類いの週刊誌みたいなスクープ――いやスキャンダルになるものだから、僕らは最初こっそりひっそり学校ではそんな気配はおくびにも出さないように気をつけていたからである。それに僕はとにかく朝がダメな人間で、他方で結衣はなにごとにつけギリギリ間に合うといった展開を嫌う性格で、だからどうしたって駅で待ち合せて一緒に登校するなんて話は実現不可能なお伽噺なのだった。
 通話が切れたあと、すぐになにか新たな懸念が浮上してきてまた電話がかかってくるなんてことがないことをしばらく待って確かめてから、僕はようやく息をついた。
 なんだか酷い一日だった。湊斗と泉美はもう寝ただろうか? 本当に湊斗は隣りの部屋から布団を引っ張ってきてあの部屋で一緒に寝るのだろうか? 湊斗が寝入ったのを見計らって泉美がこっそり湊斗の布団に潜り込むなんてことになっていないだろうか? いや、さすがにそんなことにはなっていないだろう。泉美は結衣とは立場が違うのだ。それでも泉美はきっとうまく寝つけずにいつまでも天井を睨みつけることになるのは間違いない。むろん半分ほどは病院の集中治療室にいる母親を思いながら、でも残る半分ほどはすぐそこのベッドの下に眠っている湊斗の寝息に耳を澄ませながら。
 僕の体はすっかり冷え切っていた。エアコンをつけたくらいでぽかぽかと温まるようなレベルではなかった。だけどさすがにコートを着たまま横になるようなことはできないし、そもそもこの日の僕はまだ学校の制服を着けていた。今から風呂に入るのもさすがに面倒臭いし、体が冷えてからでないと良質な眠りはやってこないという話だそうだから、僕はそのままパジャマに着替えてエアコンを消し布団に潜り込んだ。
 僕の部屋には僕しかいない。耳を澄ませても誰かの寝息が聴こえてくるようなことはないし、瞼を閉じても病院に運ばれた親族の顔が思い浮かんだりもしない。だから僕はすぐに寝ついてぐっすりと眠った。

の眠りのように…とか言ってみたいところだけど、ここでうまい直喩が思い浮かばないのは、僕の残念なところのひとつだと思っている。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み