八日後―01

文字数 5,501文字

 翌日の朝、ふと気がついてみれば、僕はひとりぽつんと取り残されていた。なんの予定もない、なんの約束もない朝を、実に久しぶりに迎えたような気がした。学校はまだ始まっていない。受験生でもないので冬期講習も申し込んでいない。そしてなによりも今日は結衣に約束がある。〈Am-mE(アムミー)〉の真奈美さんの娘さん――なんと小夜美(こよみ)ちゃんとかいう可愛らしい名前だった!――の冬休みの宿題を見てあげるという約束だ。しかしまたここでふと考えてみれば、それは昨夜の僕らの食事の対価として役務提供される約束事――要するに負債の返済――なのであり、だから今朝の僕が、今日は久しぶりになんの予定もない…とか言ってぼんやり起き出したのは、実のところおかしな話ではあった。
 昨夜の段階で結衣と僕にはいずれも千円ほどの負債が計上されたわけだが、今朝になって結衣の貸借は二千円ほどの負債と千円ほどの資産に変わっている。さらに今日の昼過ぎになると結衣からは負債が消え、千円ほどの純資産だけが残る。僕の負債はその間ずっと変わっていない。ただ、一晩のうちに、返済すべき相手が〈Am-mE(アムミー)〉の真奈美さんから結衣へと付け替えられたわけだ。
 ところが実を言うと、これらは〈Am-mE(アムミー)〉の裏帳簿での話なのである。表の帳簿における僕らの昨夜の食事代は、真奈美さんの兄である湊斗の父親から回収すべき資産(=未収金)となっている。つまり僕らは湊斗の父親にご馳走になったのであり、その代償としていちばん小さな可愛い姪の宿題を見てやってくれと頼まれたというのが、本質的な構図なのだった。ちなみに湊斗は家計を父親と共有している関係から、この中では姿を消しており、資産も負債もないところに立っている。いかにも湊斗らしい実に巧妙なやり口だ。
 つまるところなにが問題かと言えば、今日の昼過ぎから僕はただひとり負債を背負う人間として、彼女であるところの結衣と相対するわけである。湊斗も泉美も結衣も懐を痛めることなく終えた取引を、僕だけは結衣にケーキセットかなにかをご馳走し、つまりは現金支出を伴う形で終わらせなければならない可能性が高い。おかしな結末になっているのは、言うまでもなく〈Am-mE(アムミー)〉の真奈美さんが二重帳簿を操っているからにほかならず、僕はいずれ国税当局に真奈美さんを告発せざるを得ないだろう。
「いつまで寝てんのよ」
 ダイニングテーブルには(食事を終えたあとそのままそこに座っていたのだろう)姉の姿があった。この場所でタブレットを操作しているということは、早めに昼食を断っておかないと、姉の極めて実験的要素の強いメニューを食べさせられることになる。しかし僕は昨日、日中は結衣とホテルに入ってしまったし、夜の食事代は結衣への負債に変じているわけで、可能であればお金は使いたくなかった。すなわち早めの牽制が求められる状況である。
「お昼は姉さんが作るの?」
「どうしようか迷ってたんだけど、玲央が食べるなら作ろうかな。…でもあんた、今日は出かけないの? ついに結衣ちゃんにフラれた?」
「フラれてないよ。…あ、あのさ、姉さんていま彼氏いるんだっけ?」
「いるよ。○大法学部の三年生。やっと私の人生にも真っ当な男が現れた感じね。玲央ほど頭良くないけど、○大ならまずまずでしょ?」
「ああ、まあ」(コメントし難い同意を求めないでくれ)「でもうちに来たことないよね? いつもどこで会ってるの?」
「それはつまり、どこで

のかって意味かしら?」
「いや、別にそういう意味じゃ……」
「あんたさ、話の進め方が性急なのよ。――あ、え、そういうこと? もしかして困ってる? やる場所がない? そういうこと? そんな感じ?」
「……まあ、そんな感じ」
「困るよねえ。私も困ってたよ。お互い実家で親も家にいるとかさ、それでお互いお金もないとかね。私いま彼がアパート住まいだから困ってないけどさ。なに、結衣ちゃんちもお母さんいるの? あ、妹もいたよね? それはダメだわ。もう詰んでるね」
「詰んでるとか言うなよ」
「でもさ、『無邪気で邪悪な妹より、理解と包容力に溢れた姉』て言うじゃない?」(そんなの初めて聞いたよ)「基本うちでタイミングを見つけるべきだね。私は遅くまで帰らないし、いても知らないふりしてあげるから。でもそっか、結衣ちゃん部活やってるのか。土日はお父さんもいるし。やっぱ詰んでるか。詰んでるね」
 

とは要するに、攻める側が手順を間違えてくれないことには、いずれ逃げ場がなくなるのは必定であるという意味だ。説明する必要もないけれど、僕らは誰かに攻め込まれているわけでもないのだが、感覚として

とのニュアンスは遠くない。なるほど姉の彼氏はアパート住まいだから誰に気兼ねすることもなく、壁や床の薄さにさえ注意をすれば、人目を恐れる心配も、暑さ寒さへの対応も、すっきりと解消されるわけである。しかし妹が邪悪さを無邪気さで隠しているとは言い得て妙だ。僕の姉に理解と包容力があったとは意外だが、少なくとも理解のほうは本当にあるらしい。そう考えれば、確かに結衣の部屋よりも僕の部屋のほうに賭けてみるべきだろう。リスクがまったくないとは言えないけれど、相対的には間違いなく低い。リスク要素の数が違う。しかし結衣のところだって、それこそ年末のピアノ発表会ではないけれど、あの妹はけっこう表に出る用事があり、溺愛されているから親もくっついて行く。いずれにしたところで、深い森の中の道を辿って行くように、複雑な証明をつないで行くように、警戒心の強い獲物を追い込むように、常に細心の注意と情報収集を怠らず、ここ一番のタイミングを逃さぬよう……そんなのやってられないな。
 要するに突き詰めていけば、僕らがすでに十七歳であるにもかかわらず、まだ十七歳でしかないという、この一点に尽きるわけだ。本来の意味とはちょっと違うかもしれないけれど、セックスとジェンダーの相克である。ジェンダーは常にセックスを支配しようとし、セックスは常にジェンダーを突き破ろうとする。謂わんとするところは理解してもらえるはずだ。単純でわかりやすい思春期であることの問題ではなく、頭の固い社会的要請の融通の利かなさ、不条理で不合理でわかりにくい人間社会の歴史的な成り立ちの問題である。社会とは理屈の通らない場なのだ。道理が歴史によって歪められてきた場なのだ。僕らのどうして?に対してトートロジーでしか答えられない場なのである。
 ……しかし、こんな議論や考察を重ねてみたところでなんの意味もない。僕は同じところをただぐるぐると回っているだけだ。もっと具体的に、もっと実際的に、もっと戦略的に、もっと狡猾に、もっと自由に――ああ、なるほどね。つまりはそういう話だったのか。こうして僕らは「世界」を〈セカイ〉に置き換えるなんてアホな解決策に、これっぽっちも解決になんてなっていない例のあれに逃げ込むというわけか。もうちょっと考えて欲しかったな。君たち先輩がちゃんと考え抜いてくれてれば、僕たちがこんなふうに困らずに済んだかもしれないわけだろう? だってヒトは遺伝子ばかりに頼る生き物ではなく、口伝をもって獲得した知恵を伝えられるはずだろう?
 立ったまま話していた僕は、トースト二枚にガーリックバターを塗って焼き上がるのを待つあいだ、冷蔵庫からロースハムとベビーチーズとミニトマトとカップのフルーツヨーグルトを取り出して、インスタントコーヒーを同量の牛乳で割ったマグカップを手に、ダイニングテーブルの姉の向かい側に座った。姉はタブレットの動画配信サービスで少し前の弁護士もののテレビドラマを観ていた。父はゴルフ、母は古い友達に会うとかで出かけたそうだ。――姉がここに座っているからには、そういうことである。
「お昼作ってくれるなら庶民的な感じでお願いしたい」
「スーパーエキセントリックじゃないやつ、て言えばいいじゃない。――あ、そう言えば湊斗くんどうしてる? お母さん亡くなったのよね? 連絡取ってる?」
「昨日、結衣と初めて湊斗の家に上がったよ。お母さんの部屋にも入った。御堂さんがそのまま使うからって、R18指定の本を片っ端から引き抜かれてさ。あれはちょっと可哀そうだったな」
「お母さんの部屋に官能小説があったってこと?」
「違うよ。テーマや描写が際どいやつ。姉さんはきっと聞いたこともない」
「お、バカにするじゃない。ちょっと言ってみ?」
「『アーダ』、『ブリキの太鼓』、『存在の耐えられない軽さ』、『百年の孤独』――」
「それは知ってる。九州の麦焼酎。あれ美味しいよ」
「小説だって言ったよね?」
「玲央は読んでるわけ?」
「僕が読んでるやつを挙げたんだよ」
「あとで貸して。いちばんエロいやつ」
「きっと十ページくらいで投げ出すと思うけど」
「で、湊斗くん元気そう? 妹のほうが心配な感じ?」
「うゝん、御堂さんは心配な感じはしなかったな。よくわからないんだけど、御堂さんは最後にお母さんとたくさん話をしたから大丈夫だって、真奈美さんも湊斗もそう言うんだよね。あ。真奈美さんは例のカフェの叔母さんね」
「どこがよくわからないの?」
「お母さんの意識は最後まで戻らなかったはずなんだ。だから御堂さんがたくさん話したとか――」
「そういうことってあるよ」
「なにが?」
「私もお母さんが倒れたりしても、ちゃんと話ができる自信あるな。――あのね、玲央、娘にしか開けられないドアがあるわけ、この世界には」
「そう言えば、ウサギのプレートが掛かってた」
「ウサギのプレート?」
「御堂さんが買ったんだ。お母さんの部屋のドアにね。ウサギが『入っちゃダメ!』のポーズを取ってるやつ。お(まじな)いがかかってて誰も入れなくなるとか。そういうやつ。湊斗がそう言ってた。わかる?」
「でもそれ、可愛いピンクのウサちゃんなんでしょ」(ピンクだなんて口にしていないのにどうしてわかるんだ?)「湊斗くんに揶揄われただけじゃない?」
「そうなのかな……」
 姉はおしゃべりのあいだ停止していた(らしい)テレビドラマを再生した。イヤホンを嫌う人なので、そのとき音が出たから、ずっと停止していたのは間違いない。どうしてダイニングテーブルなんかで観ているのか、確かにここの椅子の高さがちょうどいいとはいつも言っているけれど、母も父もいないのだからリビングのソファーにでも寝転がって観ればいいのにと思う。誰だか知らないが癖のあるいやらしいしゃべり方をする俳優(そういう演出なのかな?)の声を聞きながら食事を終え、食器を片付けて(洗っといてあげるわよと姉が言ってくれた)自室に上がった。
 これといってやることも(したいことも)なくベッドに仰向けになり天井を見上げたところで、先ほど姉と交わした会話(トーストを焼く前のほう)を総合すると、只今現在の僕の部屋には理想的な条件が調っていることにハタと気がついた。思わずガバッと飛び跳ねるように起き上がったものの、結衣はこの時間すでに〈Am-mE(アムミー)〉で小夜美(こよみ)ちゃんの冬休みの宿題を見てあげているはずである。ふたたびバタンと大袈裟に音を立ててベッドに倒れ込み、目をつむると結衣のイメージが視覚野を隈なく占領しそうだったので、ひたすら天井を睨み続けた。
 網膜から流れ込む情報と脳内で生まれ出る情報とがまぶた一枚の支配権をめぐって鬩ぎ合う。まぶたを開けているあいだは網膜の勝利、まぶたが閉じられてしまえば脳内の勝利。僕が欲しいイメージは白くて柔らかであたたかな結衣の肌であり、それはまぶたを閉じれば間違いなく勝利を収めるものの、手に入れられるのは「白くて」に留まって、「柔らか」で「あたたか」は再現されない。欲しいのはそこなのに。――とは言えそんなことを考えていれば、鬩ぎ合いの勝敗とはまったく無関係なところで人は眠くなるわけであり、僕はスマートフォンの振動に跳ね起きた。
『玲央、いい子にして待ってた?』
「うん、寝てたみたいだ」
『やっぱりね。お昼はどうしたの?』
「もうそんな時間? 昼は姉さんが庶民的な感じで作ってくれる約束、なんだけど……」
『玲央は見かけによらず誰かを信じたい人なのよね』
小夜美(こよみ)ちゃんは終わったの?」
『終わったよ。いま真奈美さんがまたご飯作ってくれてるとこ』
「ああ、間違いのないやつだね」
『それで私はどうすればいいのかしら? 隣りで泉美ちゃんにお誘いされちゃってるんだけど』
「とんでもない! いますぐここに飛んできてくれ」
『まさか玲央ひとりなの!?
「姉さんは苔むした石仏になることを約束してくれた」
『それなら私も信じる!』
 姉の検索サービスにはやはり不具合があるらしく、「庶民的な感じ」を列挙したファーストビューには、ひとつもそれを正しく教えてくれるホームページは提案されなかったようである。キーワードの後ろに「感じ」と付けたのが余計だったのかもしれない。ところが驚いたことに、その無国籍エスニック料理は無類の美味なる風味で僕を魅了した。きっとこれまで一度として姉のハズレを引いたことのない結衣が、このあと翼を拡げて舞い降りようとしていたからに違いない。実際そのあとに、僕らには祝福に満ちた午後が訪れたのだ。
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