十七日目―02

文字数 7,060文字

 泉美が学校を出たのは俺たちが昼飯を食べはじめたときだったから、病院に着いたときにはまだ外来の正面玄関が開いていたわけである。従ってそこから建物の中に入るのは間違った選択では決してないし、そもそも見舞客がその時間帯にわざわざ夜間・救急出入口に向かうほうがおかしい。問題は病院内の案内掲示に明らかな不備があり、正面玄関から入った余所者(よそもの)が集中治療室に辿り着くためには、途中でひとつ案内掲示を跳び越さなければいけない悪質な罠が存在することだ。そのうえ泉美には悪い癖があって、強情で意地っ張りな癖に、妙なところで俺にすべてを丸投げする。この病院の案内掲示のトラップを抜ける場面がまさにそれだった。要するに泉美は迷子になったのであり、その結果しばらく影を潜めていたパニックに襲われて、身動きが取れなくなったのである。泉美は学校から直接病院に向かったため持ち物の中に生徒手帳があり、病院が泉美の家族と連絡をとりたがっているとの情報が、誰よりも先に体育館で部活動中の俺のところに届いた。
 迷子になったくらいでパニックを起こしたのは、恐らくそこに母親が眠っているせいだろう。今日もまた二時間だか三時間だかをコミュニケーションの図れない母親の前で過ごそうと考えていたために、心の持ち様がいくらか過敏になっていたのだ。建築時期が異なるいくつかの建物を、設計者の意図しない形で結びつけた廊下の壁の前に、泉美はうずくまり動けなくなった。そこが病院の中であったのは幸いだったとは、この場合とても言い難い。病院の案内掲示の不備と怠慢が泉美をそこへ追い込んだのだから。他方でこちらは間違いなく幸いにも、泉美のそれは小さなパニックに治まった。俺が病院に着いたときには恥ずかしそうな様子で椅子に座っていた。口も利けるようになって母親の見舞いにやってきたことを伝えていた。そこで病院側から俺が向かっていると聞かされた泉美はすでにそのことのほうを恐れいていたくらいだった。
「元気そうだな」
「ごめんなさい……」
「ぼんやり歩いてるからそうやって穴に落ちるんだよ」
「だから、ごめんなさい。そんなに怖い顔しないで。湊斗、私ね――」
「今日も入るのか?」
「あ、うん」
「わかった。でもおまえまだ昼飯食ってないだろう?」
「お腹空いてないからいい」
「ダメだ。あの人と一緒になって干乾びるつもりか?」
「〈あの人〉て言わない約束」
「そんな約束はしていない。さ、飯食うぞ」
 泉美がなにを言い掛けたのか知らないが、どうせまたどうでもいいような母親の記憶でも掘り出したのに違いない。二時間、三時間と母親の前に座っていると、どうやら泉美はあれこれと思い出すようで、そんなもの俺は聞きたくもないのだが、なにしろ俺は二卵性双生児の片割れの兄のほうであり、もう一方の片割れである妹の話には、やはり俺が耳を傾けてやらなければしょうがない。娘というのは息子と違って母親に関する情報を驚くほどたくさん抱えている。いささか捩じれた家族であり、俺のほうが母親と同じ家に暮らしているにもかかわらず、やはり泉美のほうが圧倒的に多い。
 十七歳の男というやつは信じられないくらいに腹が減る。…と周りから言われる。かつて同じく十七歳の男であったことのある人間からも「信じられない」と形容される。救急の職員に礼を言い――泉美は手近な救急のベッドに寝かせられたらしい――空いているベッドに横になっただけだから金は要らないと言われ――母親がここに入院していると聞いてそう言ったのだろう――泉美の昼食を片付けるために病院の食堂に入ると、泉美がワカメうどんを食べている向かいで、信じられないくらいに腹が減る十七歳の男である俺は、ついさっき弁当を片付けたばかりだというのにハヤシライスを平らげて、二人で母親のいる病棟に向かいエレベーターに乗った。
 待合室の前で立ち止まった俺に、まっすぐ歩みを止めずにいた泉美がふと振り返り、まるでこのままお互いの家に帰るときのように手を振った。ここ数日と同じ晴れやかな笑顔である。これから二、三時間ばかりコミュニケーション不能な母親のそばで過ごそうとしている少女がする顔ではない。信じるかどうかは置いておくとして――再現可能で反証可能でなければ信じないとか、俺はそんな七面倒臭いことは言わないよ――もしかすると泉美はなんらかの形であの人とコミュニケーションを図ることができているのかもしれない。そう思わせる笑顔である。その笑顔を形容するための直喩だと言っても別に構わない。あたかもそうであるかのような笑顔、というやつだ。
 実際のところ今のあの人は笑いもしないし泣きもしない。もともと表情に乏しい人ではあったが、しかし今のあの人においては、その延長線上でこの二週間余りのあいだに表情がほぼゼロにまで漸減したわけではない。「もともと」と「今」のあいだには連続した了解事項はないのだ。しかし俺はそれを見ていない。父や兄がそう教えてくれる。俺はあたかも同じものを見ているかのように相槌を打つ。追認することでそれは現実となる。誰かがそうやって追認しないことにはあの人は実在することができない。分離された観察者と被報告者が必要なのだ。話をする者とそれを聞く者が必要なのだ。泉美がそのような観察者の顔をして戻ってこないために、すなわち俺を被報告者と見做していないがために、そして泉美がひとりも被報告者を持とうとしないために、泉美はあくまでも当事者としてここに戻ってくるために、だから俺は疑うのである。――あるいはもしかすると、泉美はなんらかの形であの人とコミュニケーションを図ることが実際にできているのかもしれない、と。
「何位だった?」
「八位だよ」
「泉美は?」
「一一三、だったかな」
「へえ、ずいぶん上がってきたなあ。そこまで行くとおまえの尽力ばかりとも言えなくなる」
「本人はそう思ってないけどね」
「どっちだと思ってないって?」
「自分に能力があるとは思っていない」
「おまえのお陰だと信じてるわけか。おまえがそう信じ込ませてるんじゃないのか?」
「そんなバカなことはしないよ。いつまでもあいつの面倒に巻き込まれるのは御免だ」
「ん、なにがあった?」
「迷路に迷い込んでパニックを起こした」
「いつ?」
「今日だよ。ここに一人できて建物の中で迷った」
「迷うような建物か?」
「正面玄関から入ると案内掲示が途中でプツンと切れるんだよ」
「やっぱりおまえのお陰だと泉美に信じ込ませてるって話じゃないか」
「あの人のせいだと思うけどね」
「あの人がなにをした? なにができる?」
「いや、大ごとにはならなかった。晴れやかに笑って手を振って入って行ったよ」
「おまえさ、あの人の顔を見てないだろう?」
「どうしてそう思う?」
「見ていれば、そんなオカルティックな考えは出てこない。いくら振ったってもうなにも出てこない。おまえはそれをわかっていない。因って、おまえはあの人の顔を見ていない」
「とても論理的だとは言えないね」
「どうして見ない?」
「泉美に遠慮しているだけだよ」
「要するに泉美を依り代に使ってるわけだな。直接あの人を目にしないで済むように。――湊斗、ちゃんと見ておけ。稀代の美女の見納めだぞ」
「その必要はないよ。もう代替わりは済んでいる」
「代替わりだって?」
「なにに驚いてる?」
「おまえがおかしなことを言うからだよ」
「兄さんのほうこそどうかしてる。せっかくだから泉美をちゃんと見てきたほうがいい」
「――おい、だからか? だからあの人は失敗したのか?」
「オカルティックな考えなんか出てこないはずだぜ?」
「そうは言っても泉美はあの人の娘だ」
「まったく俺と同じ思考経路を辿ってるなあ」
「そんな言い草は十年早い」
「だったら自分の目で確かめてくればいいさ」
「おまえに言われてするわけじゃないぞ」
「そのつまらない矜持はいつまで抱えてるつもり?」
「ここで待ってろ!」
 俺を睨みつけ、疑わし気な様子をたっぷりと残しながら、兄が待合室を出て行った。俺など足元にも及ばない秀才のはずだったのに、きっと大学にもロクな教師がいないのだろう。いや、兄もまだ出会っていないだけなのだとしておこう。そうでもしておかないと俺の将来からすっかり色彩が抜け落ちてしまう。兄でダメなら俺に敵うはずもない。せっかく伯母が現れていくぶんか取り戻せそうな気がしているところだというのに。いったい兄は大学でなにをしているのだ? カネの話なんかどうでもいい。経済の絡繰りなんてどうでもいい。頼むから哲学の話をしてくれよ。経済の前に歴史があるのだろう? 歴史の前に文学があるのだろう? 文学の前に数学があるのだろう? 数学の前に哲学があるのだろう? そう俺に言ったのは兄さんじゃないか。
 兄はすぐに戻ってくるものだと思っていた。泉美の顔を見て、目の前に見比べる人の顔もあるわけだから、俺の言った事実は即座に確かめ得るはずだ。しかし兄は――泉美もだが――俺を待合室に放り置いたままいっこうに戻ってこなかった。あまりに戻ってこないものだから仕方なくまた本を開くことにした。が、兄が現れたときにどこを読んでいたのかわからなくなった。ああ、今日の俺は『論理哲学論考』なる薄っぺらい文庫本を持っている。確かお天気の話を数ページ前に読んだ記憶がある。「今日は雨が降ってるか降ってないかです」などと言われたところでお天気についてなにも知ったことにならないとか、百年前のジョークにしてはなかなか笑わせてくれる。これも兄が俺の部屋に放り投げて行った本だ。そう、兄はきっと忘れている。この本の末尾にはっきりとこう記されていることを――語ることのできないもの、これについては沈黙しなければならぬ。
 俺はもう線を引いたのだ。泉美はいま俺が引いた線の上に立っている。謂わばそこが境界であり、泉美はその境界線をなぞってみているところだ。時間がかかるのは仕方がない。泉美は俺が引いた線だからと言って、俺が引いたというその事実だけで、安易に呑み込むことをしたくないのだ。しかし俺は決してその線を創造したのではない。俺もまた言ってみればチョークでなぞったに過ぎない。しかしチョークでなぞってでもおかないと泉美がまた穴に落っこちるかもしれないではないか。そんな面倒なことに巻き込まれるのは御免だ。それは建物と建物をつなぐ通路で迷子になることとはわけが違う。俺がチョークでなぞった線はもっと深い、恐ろしく深い穴の在り処を示している。そこに穴があることを、穴の実在を示す線だ。だから俺はチョークでなぞっておいた。泉美はそそっかしい少女であり、そそっかしい少女というやつは、目の前を白ウサギが走っていなくとも、うっかり穴に落ちることがある。
 驚いたことに、先に戻ってきたのは泉美のほうだった。ひょっとして兄は待合室に顔を出さずに帰ってしまったのかと思ったが、泉美がそれを否定した。兄はまだあの人のところにいる。兄にはなにか話したいことがあり、しかし泉美がいるから遠慮しているように感じたので、泉美は今日は少しばかり早めに切り上げて――それでも二時間は超えており、あくまでも彼女の気分として早めに切り上げて――、あの人の前の席を兄に譲り渡してきたと言うのだった。
隼斗(はやと)お兄ちゃんに

見つめられた。横から前から

された。あれってなに?」
 泉美は破れてはいないものの相当にくたびれている合皮のソファーの隣にすとんと腰を下ろすなり、俺の顔に自分の顔をくっつけるようにして――つまりは興味津々というよりも期待感いっぱいの身振りと面持ちとで――早口に捲し立てた。答えがわかっているときの、それも期待している答えを受け取れることが明白であるときに、ときどき泉美が見せる表情だ。
「おまえをちゃんと見ておく必要があるという俺の提言にひとまず従ってみようと考えたんだろう。独断専横を旨とするあの兄としてはまことに珍しいことだが」
「私の

見るの? なにを

必要があるの?」
「あの人からおまえへの代替わりがすでに済んでいるという事実を確かめるように言ったんだよ」
「代替わり? お母さんから私に代替わりする? 代替わりすると私はどうなるの?」
「わかっている答えを聞きたいのか?」
「私は湊斗の口から聞きたいの」
「そうか。じゃあ、教えてやろう。――おまえは『稀代の美女』の称号を受け継ぐことになる」
「私が!?
 わざとらしく驚いてみせやがった。しかしなにを思ったか、なにに気づいたのか、ハッとしたときに人がそうする慣例的な身振りに従って、片方の手のひらで口を覆った。今後こいつがこうした身振りをひとつひとつ我がものとして行く様を想像し、俺はうんざりする気分になった。とはいえ泉美は続けて今もっとも懸念すべき事柄を正確に口にしたのである。
「私もいつかあんなふうに眠らされることになると思う?」
「その可能性は極めて低いと、池内の怖いオバサンがそう請け合ってくれたよ」

ってどれくらい低いの?」
「限りなくゼロに近いそうだ、彼らの経験値をもって評価してみたところでは」
「ゼロとのあいだはどれくらいあるの?」
「おまえ、『アキレスは亀に追いつかない』という話を知ってるな?」
「うん、知ってる」
「ある数論の公理に従えばゼロまでのあいだには広大な世界が無限に横たわっている。だけど現実の時間的存在としての俺たちには何故かそいつを跳び越えてしまえる能力が備わっている。おまえもいつかそいつを跳び越える。あるいはすでに跳び越えているかもしれない。――兄さんはそいつを見極めたいと思ったんだろう」
「隼斗お兄ちゃんは私にそれを跳び越えて欲しいのね?」
「もちろんだよ」
「湊斗は? 湊斗もそう?」
「おまえがあんなふうに眠らされている景色なんて、俺が想像し得る将来のイメージの中でも間違いなく最悪と言っていいひとつだ」
「最悪はほかにもあるの?」
「いや、ない」
「つまり、湊斗

は私を愛してるってことね?」
「ずっとそう言ってきたはずだがね。――それと、『お兄ちゃん』て呼ぶな、とも言ったはずだ」
 嬉しいと思ったときに人がそうする慣例的な身振りに従って、泉美は両の手のひらで顔を挟み込むように頬を覆った。薔薇色の…と形容されることすらある少女の両頬――豊頬をだ。今後こいつがこうした身振りをひとつひとつ我がものとして行く様を想像していた俺は、それが実現されたふたつめの様子を目の当たりにして、さらに深くうんざりする気分に落ち込んだ。
「私、ひとりで帰れるから」
「どの口がほざくのか」
「もう部活終わってるでしょ? 須藤さん待ってるでしょ?」
「待ってるだろうな」
「私ね、今日もお母さんといっぱいお話ししたよ」
「そいつはよかった」
「湊斗にも少しお話しすることをおススメしたい」
「おまえが話してるから俺はいい」
「私のお話し、聴こえてた?」
「ああ、ずっと聴こえてたよ」
「そっか。私たち双子だもんね」
「そういうことなんだろうな、きっと」
 これもまたオカルティックな話と言うべきなのだろうか?
 泉美が俺の脇に手を入れて腕を引っ張り上げるようにして立ち上がった。しかし俺と泉美のあいだにはその行為を無効化するに足る有意な身長差がある。俺はただ泉美のそれによって腰を上げるきっかけを受け取ったに過ぎない。しかし泉美がそれをしてくれなかったら俺が腰を上げられなかったかもしれないと怪しむに足る充分な陰影が、俺の中にはあった。つまり泉美は、その口がほざいたように、ひとりで帰れるというわけだろう。他方で俺は泉美に腕を引っ張り上げられないことには、破れてはいないものの相当にくたびれている合皮のソファーから腰を上げることも儘ならず、さらには高層マンションの恐ろしく静かな一室で愛莉が俺を待っていてくれないことには、ここを立ち去ることも儘ならないというわけだ。――それがすなわちこの新しい世界の姿だった。俺はたぶんあの人が狂言自殺に失敗したようだと聞いたその瞬間から、この新しい世界がそんな姿を取り得ることを予感していたはずだった。そいつを今こうして泉美の手によって引っ張り上げられ、その身振りが促す流れのままに泉美の体を抱き寄せ抱き締めることによって、深く杭を打ち込むように、深く錨を投げ降ろすように、ようやく受け入れることができるというわけだ。――なんて酷い話だろう。なんと惨い話だろう。それではこれまで十七年間もかけて築き上げてきた「刀矢湊斗」というブランドも形無しではないか。いざ抜刀してみたところ、そいつは

どころではなく、刃毀(はこぼ)れして使いものにならなかったとか。抜刀する根元から、ぼろぼろと(こぼ)れてしまったとか。まったく話にならないよ。――しかし、俺の力はそうは言ってもやはりいくらか強過ぎるらしい。
「湊斗、苦しい……」
「我慢しろ」
「汗臭い……」
「走ってきたからな」
「骨がバラバラになる……」
「もう少しだ」
「おっぱいが潰れちゃう……」
「そいつはまずいな」
 ゆっくりと力を抜いた俺の腕のあいだから、するりと抜け出した泉美が微かに口に含むほどの笑みをつくり、助かったあ…などという大袈裟なセリフととともに、ほおっと長い溜め息をついた。
 兄はまだ戻らない。兄があの人となにを話しているのか俺にはわからない。あの人が兄になにを伝えているのかなんて俺には興味もない。
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