一日目―01

文字数 6,808文字

 昼休みに図書室に行くと刀矢湊斗に出くわす――そういう話から始めようとしたところだった。
 僕らが通う高校には図書館がない。独立した建造物としての図書館がない高校などふつうの話かもしれないけれど、僕らの高校のOB・OGはそう考えていない。定期的に図書館建設の事案が持ち上がる。しかしそこには用地買収に関わる困難な事情が立ちはだかっている。それなら二つある体育館のひとつを潰せばいいとの声が毎度のように聴こえてくる。どうせ弱小運動部に過ぎないのだから、と。しかしそれには当然のごとく運動部のOB・OGから反対の声が上がる。とはいえそのあいだを執り成そうなんて人間はいないので、図書館建設の事案はいつの間にか立ち消えとなってしまう。そんなことを繰り返しているらしい。
 その結果として、校舎内にある図書室は異様に広い。校内案内図を見れば教室四つ分に相当するスペースを占めている。入り口左側の教室ひとつ分が閲覧スペースで、入り口右側の教室みっつ分が書架だ。ところが、書架を端から端まで歩測してみると、優に教室よっつ分はある。校内案内図上の記載と実測とのあいだに横たわるこの乖離によって、要するに、図書館建設をめぐる本音と建て前の折り合いをつけているというわけだ。「七不思議だ!」とか叫んでいるおめでたい連中がいるけれど、純粋に政治力学的な産物に過ぎない。ちょっと考えてみればわかる。
 閲覧スペースのいちばん前に陣取る湊斗の隣りには、カノジョの須藤愛莉が座っていることがある。また従妹で妹の御堂泉美が座っていることもある。学校で湊斗の隣りに座るような人間は、ホラー映画やサスペンス映画の最初の十五分くらいに起こりがちな、席替えで運悪くクラスで一番人気のない少年の隣りになってしまったようなケースを除くと、この二人しかいない。ただし、ホラー映画やサスペンス映画に出てくるクラスで一番人気のない少年は、概ね、小柄で気弱で運動音痴な上に成績も振るわず軽蔑の格好のターゲットになっているものだけれど、湊斗はまったく正反対のキャラクターであることはすでに触れた通りだ。
 僕と結衣もその時間、実は同じ図書室の中にいる。深く長い(歩測すれば教室よっつ分もある)書架の隅っこの床に並んで座り込み、たとえばクレーやモディリアーニやクリムトなんかの画集を開いている。そして時々、結衣が唐突にキスをする。どうやら目の前に現れたクレーかモディリアーニかクリムトの画がそうさせるようなのだが、どうしてその画がそうさせるのか僕には実のところよくわかっていない(クリムトだけはなんとなくわからないでもない)。だけど結衣のキスは味覚も触覚も嗅覚もいっぺんに満足させてくれる魔法の食べ物なので(食べ物ではないか…)僕はむろん文句を言ったりはしなかった。
「ねえ、学部希望もう出しちゃった?」(離した口元を指の先で拭いながら)
「出したよ、経済で」(こちらもまた手の甲で口元を拭いながら)
「私、経済っていまいちピンとこないのよね。――大丈夫、リップは無色よ。――そもそも女子が少ないじゃない?」(ぺたんと床に座る)
「ものすごくモテそうだね」(つい余計なことを口にする)
「ものすごくモテて欲しいの?」(目がキラリと剣呑に光る)
「そういう意味じゃないよ」(慌てて取り繕うように)
「取り敢えず今の順位だったらどこでも選べるでしょ? 理系は除くとして」(いったん冷静に戻る)
「除かなくてもいいと思うけど」(また余計なことを口にする)
「玲央が経済なのに? 一緒にいられる時間が短くなるよ? そのほうが清々(せいせい)していいとか言うなら私も考えるけど」(剣呑さが冷徹さに置き換わる)
「そんなことは天地がひっくり返っても僕は言わない」(これ以上ない真摯な顔つきで)
 すると、結衣はわかりやすく嬉しそうな顔をし――期待されていた答えを期待されている通り返してあげただけなのに――またキスをする。それも今度は僕らにとって目いっぱい淫らな感じのキスだ。制服のズボンの上から僕のあそこに手を置いてもいる。しかしひとまず置くだけ。膨張を確かめるだけ。それで結衣はとても満足するらしい。じわっと沁みるような満足感を覚えると言う。――そのようにして、確かに僕らはあまりにもまだ未熟だったかもしれないけれど、多くの点で運命的とも言えるロマンスにおける接吻期を終えようとしているところだった。
「そろそろやめてくれないと教室に戻れなくなるんだけど」
 僕はいよいよ密着させてくる(しかし着衣のまま密着する以上のことをまだしたことのない――本当だ)結衣の体を引き離した。沈静化には相応の時間を必要とするのだ、これは。
「あのさ、なんでオスのほうが『発情してます!』て明示的に主張するように進化したんだろう? 卵子は有限で精子は無限だって考えるとメスがそっちに進化したほうが確実だと思わない? 『営業中』て看板出すのと同じよ」
「それだとオスがメスを選ぶことになるね。でもきっとメスがオスを選ぶ方が確かなんだよ。だからオスのほうが明示的に主張する方向で進化したんだ」
「じゃあメスのほうが目利きだってこと?」
「そこはな、栂野、

を見極めるより、

を見極めるほうが簡単だ、て話だ」
 いきなり真上から太くて張りのある声が降ってきて、僕らはパニックに陥った。本来であれば慌てて離れるのがこうしたときの男女に見られる有り得べき振る舞いであるはずなのに、結衣は落雷に悲鳴を上げる女の子のように(確かにその声は「落雷」と形容してもいい)頭を下げて僕にしがみついてきた。その勢いで倒れそうになった僕の体を、湊斗のがっちりとした長い脚が受け止めてくれた。…と同時に、湊斗の講義が続いた。

とは素直に強いオスだと考えればいい。たとえば縄張りを維持し、敵から群れを守る。が、

とはなんなのか? 未だにオスはわからずにいる。哺乳綱の放散進化が始まったとされる暁新世(ぎようしんせい)は六千五百万年前だ。多様性を獲得し始める漸新世(ぜんしんせい)からだって三千四百万年も経っている。それなのに

、俺たちオスは

を見極められずにいるんだ? ちょっとおかしな話だと思わないかね、君たち?」
「……湊斗、いつからそこにいた?」
「俺がちょうどここにやってきたとき、栂野が手塚のシンボルを(まさぐ)っていたようだ」
「そんなことしてないもん!」
「ああ、この辺りは照明が少ないからな。俺の見間違いだったかもしれん」
 憤然とした様子で(しかし首から耳たぶまで真っ赤にして)結衣が立ち上がった。覆い被さっていた結衣がどいてくれたので続いて僕も腰を上げ、二人並んで二十センチほど(結衣にとっては三十センチも)上にある、湊斗の愛想のない――しかし哺乳綱の進化に関する講義を終えたばかりの厳粛さを帯びた――顔を仰いだ。
「悪いが俺は帰るから」
「なに? 具合でも悪いの?」
「母親がまた

をやった」
 僕と結衣はそのままその場に凍りついた。
「泉美も連れて行く。それを伝えにきた。続きに戻っていいぞ。――あ、節度は保てな」
 それだけ言うと湊斗は背中を向け、呆然とする僕らを置き去りにして、長い脚で書架の向こうに姿を消した。僕と結衣はマニエリスムの作品を集めた画集を書架に戻し、いつもここを去るときには軽くキスをして歩き出すのだが、そんな慣例もすっかり忘れて図書室を出た。
 二学期の教室では、六月から不登校に陥っていた泉美の再登校を助けるために、僕ら四人は窓際のいちばん後ろの四席を、学校と交渉して確保していた。交渉したのはもちろん泉美の母親と湊斗である。その湊斗と泉美が帰宅してしまったので、僕と結衣は窓から二列目のいちばん後ろの席に、縦列に一人ずつ座ることになった。僕の窓側から湊斗が、結衣の窓側から泉美が、そろって姿を消している。僕らはそれぞれの隣りに空いた机を嫌でも意識させられながら、午後の授業を受けなければならなかった。そうなる事態が確定したものだから、湊斗はわざわざ僕らのところまで伝えにきたのだ。
 五時限目と六時限目のあいだの休み時間を、結衣はずっと机の上に顔を突っ伏したままやり過ごした。六時限目が終わると、結衣は同じ吹奏楽部のクラスメイトに気分が悪いから部活を休むと伝え、帰宅部の僕と一緒に校舎を出た。校門から路地を抜け、再開発の際に整備された大通りを駅まで半分ほど歩いたところで、図書室で湊斗と別れてから初めて結衣が僕に口を開いた。
「〈Am-mE(アムミー)〉、やってるかな?」
「どうだろう……。真奈美さんは留守番て言うか、湊斗の家に行ってるような気がする」
「ああ、そうよね」
 結衣は要するにこの状況で一人に(あるいは家で中学生の妹なんかと二人に)なりたくないのである。ただ、仮に僕の家にきたとしても、まともな時間に(一緒に晩ご飯を食べたとして九時や十時とかまでに)湊斗から連絡が入る保証はない。そしていずれにしても僕は結衣を彼女の家まで送って行くことになる。そうであれば初めから結衣の家にいたほうがいい。結衣も同じことを考えていた。
「玲央のうちに行っちゃうとさ、結局うちに送ってもらうことになるよね。それなら最初からうちに来ちゃったほうがいいよね。そうだよね?」
「結衣の家に行くなら、晩御飯をどこかで済ませてからにしたいんだけど」
「どうして?」
「こんな気分で結衣の家族と一緒にご飯を食べるのは、ちょっとキツい」
「ああ、そうだね」
 そうであってみれば、この際ダメ元で〈Am-mE(アムミー)〉に寄ってみて、やはり閉まっているようであれば、結衣の家の近くのファミレスにでも入ろうという話になった。
 カフェ〈Am-mE(アムミー)〉は、湊斗の叔母さん(お父さんの二人いる妹さんの下のほう――泉美を引き取った上のほうではなく)が経営する、古い商店街にある昔ながらの喫茶店だ。その真奈美さんはつい先ごろ離婚が正式に成立し、今は小学生の娘さんと二人でカフェが入る建物の上階の部屋を借りて暮らしている。
 その前に――湊斗が口にした「

」の説明をしなければならない。「

」とは、湊斗の母親の「狂言自殺」を指す。湊斗が「母親がまた

をやった」と言うからには、そこに「また」と差し込んだからには、ほかには考えられない。泉美も連れて帰ると言うのだから、これはもう確定事項だと考えていい。僕らはまだその瞬間に立ち会ったことがなく、その一報に触れるのは実はこれが初めてのことだったけれど、これまで聞かされてきた経緯からしても間違えようがなかった。――七年前の事故の際、結衣の家族が崩壊した一方で湊斗の家族が無傷のように見えたのは、刀矢家では湊斗の父親があの事故を、母親の

「狂言自殺」として処理したからだった。――この夏、僕らはそれを知った。僕と結衣ばかりでなく、湊斗も泉美もこの夏になって初めて、あの事故の後始末に関する真相を知ったのだ。
 そう、その通り――あのとき結衣の父親が助手席に座る自動車でハンドルを握っていた女は――後部席に座る結衣が後頭部めがけて硯を投げつけた女は――要するに、湊斗と泉美の母親だった。
 素晴らしく綺麗な人だそうだ。この夏の不登校のあいだに泉美がまるで大人の女の人のような美人に変貌したとき、湊斗が「あれはまんま母親の顔だぜ」と呟いたのは先にも触れた通りである。小学四年生だった結衣の眼にも、この世の者ならざる気配の美人に映ったそうだ。けれども体が弱く(それは多分に湊斗と泉美の難産に起因しているという話だった)家を出ることが滅多にない人で、それに湊斗は決して友達を家には招かないものだから(母親のために家内の静謐さを護るためらしい)、学校では実の娘である泉美しか彼女を目にした者がいない。結衣の記憶が唯一の例外だが、それも七年前のものだ。――僕と結衣のあいだの因縁は、そのようにして、湊斗と泉美にもつながっていた。結衣と湊斗は

に導かれてここにいる。泉美は湊斗に引き摺られてここにいる。僕だけが想定外の因子であり、その

の意図を攪乱している。――この夏、僕らはそのように現在を解釈した。

が何者/何物/ナニモノであるかは、まだわからない。でも、そこには間違いなく

の意図が働いているはずだ。そうでもなければ結衣と湊斗がここで出会うはずがない。――僕らは東京に暮らしており、同じレベルの高校はそれこそ無数にあり、従って、

が意図しない限り、二人が出会うことなど期待できないだろう。
 予想に反してカフェ〈Am-mE(アムミー)〉は開いていた。灯りが点いていた。客の姿もあった。僕と結衣は顔を見合わせて、そこでひとつ気持ちを強く引き締めてから、ドアに手を掛けた。
「あら、いらっしゃい。ごめんね、カウンターでいい?」
 真奈美さんの様子はいつもと変わりないように見えた。けれど、カウンターの端の席に並んで座った僕らの顔を見て――恐らく二人ともよほど思い詰めたような表情をしていたのだろう――事態を察知した人がつくる柔らかな(呆れたようでもあり諦めたようでもある)微笑を見せた。
「湊斗から聞いてここにきたのね」
「すみません」
「いいのよ。結衣ちゃんは関係者なんだから」
「あの――」
「ちょっと待って。食事のオーダーが入ってるの。それ済ませたら話してあげる。私もまだ詳しくは聞いてないんだけど」
 十二月に入っているからさすがに日の暮れが早い。空を仰げばきっとまだ日の名残りが見えるのだろうけれど、窓の外の商店街はほとんど夜の底に沈みつつあった。街灯が放つ光の線と輪がくっきりと見えるし、行き交う人の顔は店から漏れる灯りを映して青白く浮いている。僕らはコートを着たままだったことに気がついて、それを椅子の背に掛けた。
 カフェ〈Am-mE(アムミー)〉は五階建てか六階建てか、それくらいの高さの小さなビルの一階にある。二階の窓にはそこが不動産会社であることが大きな緑色の丸太ゴシックで描かれている。シャープな書体で、鮮明な緑色だ。三階から上はワンフロアに(たぶん)二戸ずつの賃貸マンションになっており、真奈美さん母娘はそのひとつを借りている。
 ビルは駅前の古くからある商店街の途中、いくつもある小さな路地のひとつに入る角地に建っている。その角の尖ったところを斜めに削った具合にして、カフェの入り口がある。路地に面した右手は短く、商店街に面した左手は長い。右手には二人が向かい合って座れる小さなテーブルが四つ並んでいる。四つをくっつけることもできる。左手には通りに面して四人掛けのテーブルがふたつと、壁側に五人分のスツールが並ぶカウンターがある。四人掛けのテーブルふたつのあいだには衝立があって、こちらはつなげることができない。ドアはいくらか左に向いているために、入ってきた客の眼は、前方右手にカウンターを、前方左手に四人掛けのテーブル席を見ることになる。
 僕と結衣はそんなレイアウトの店内で、カウンターのいちばん奥に並んで座った。空いているときにはすぐ背中の四人掛けのテーブルに座る。今日そこには三人組の女性客がいた。珍しく騒々しくない女性の三人組である。一人が年配で、もしかすると二人はその娘かもしれない。ぼんやりとだが、いわゆる家族的類似性なるものを見て取ることができた。
 僕らはいかにも手持ち無沙汰な感じで真奈美さんを待った。時間はまだ会社勤めをしている人間が帰宅途中に立ち寄るには早く、店内の客のほとんどは、少なくとも僕らの母親くらいから上の年齢の女性たちだった。右手奥の小さなテーブル席のひとつにはノートパソコンに身をかがめている会社員風の男性客が一人いたけれど、彼が仕事をしているのか、それともYouTubeでも眺めているのか、僕らのカウンターからは窺い知れない。
 一度、座っている椅子の高さで結衣が僕の手を握り、しかし、すぐに離した。僕も同じことをした。それからどうせこのままここで食事をすることになるのだからと思い、二人のあいだにメニューを拡げてみた。が、カフェのメニューは見開きで終わってしまうものだし、じっくり吟味して悩むほどの選択肢もなく、漫然とそれを眺めていても時間の流れは速くならなかった。どちらかと言えばむしろ僕らには遅くなったようにすら感じられた。
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