二日目―03

文字数 8,543文字

「まっすぐ御堂さんのところに行くんだよね?」
 教科書を閉じたとき愛莉が恨めしそうに言った。この夏の終わりまでは憎々し気に「御堂」と呼び捨てていたはずが、この夏の終わりに俺が須藤を「愛莉」と呼んでやった途端に「御堂さん」になった。それは兎も角、いつもと違って今日は妙に粘るな…と感じていたところ、どうやら俺が期末試験の傾向と対策を授け終えるやさっさと泉美のもとへ向かおうとしているのが気に食わないらしい。愛莉も頭ではわかっているはずだ。しかし姓も違えば育ちも違う妹の存在は、あらゆる場面で俺が常に泉美を優先して動いてきた過去の経緯もあり、なかなか抜けない棘のように愛莉を苛立たせるのだろう。仕方なく…で構わないから、そいつもひっくるめて受け入れてもらわないことにはどうしようもないのだが、はっきりとそう俺のほうから要求するのも酷な話のように思える。しかしそうは言っても仕方がないではないか。俺には泉美に対する負債があるのだから。伯母は「選ばれたのは泉美のほう」だと俺に言ったが、あれは

という類いの話であり、俺が泉美を追い出した事実は動かしようがない。そこから俺が受け取れるものと言えば、伯母は俺の価値判断を律している原理の根っこを正しく言い当てた、とんでもなく失礼なオバサンであるということくらいだ。愛莉にそれは難しい。こいつは親族ではないのだし、いわんや大秀才であるはずもなく、ましてやオバサンですらもない。
「あいつにも傾向と対策を施してやらないとな」
「栂野はそれをドーピングだって言ったんだよ」
「なるほど、確かにドーピングだろうな。努力と才能を上回る結果が出るんだから。…ああ、それで注射とかおかしなこと言ってたのか」
「え、わかってなかったの?」
「下のほうのイメージしか思い浮かばなかったから『上のほう』と並べてみたんだが、うん、存外それで合ってたわけだな」
「満足そうに笑うところじゃないでしょ!」
「悪いが愛莉、今日は下のほうに注射している時間がない」
「怒るよ」
「あとは自分でなんとか処置してくれ」
「ほんとに怒るよ!」
「一人でしっかり勉強しろって意味だぜ?」
「絶対いま違う意味で言ったよね?」
「我々の耳は自分が聴きたいと思っている言葉を聞くように出来ているらしいぞ」
 愛莉は思い切り手加減のないこぶしを胸に突き刺してきた。親指をほかの四本の指でくるみ込むように握る愛に満ちた

ではなく、親指がほかの四本の指を締める金具のごとき役割を果たす鉄拳である。俺は大袈裟にぶっ倒れて呻き声を上げてやった。三十分で終わらせるようなことはしたくない。それは明らかに愛莉を侮辱する行為になると思うからだ。俺が仰向けに倒れて伸びているところに、愛莉はずいぶんさっぱりとしたキスで自制を働かせた。ここで濃密なやつをしてしまったら、お互いその後の始末に困る。それでも少しばかり、時間にすれば数分と言ったところか、仰向いたままの姿勢で愛莉を抱き寄せた。俺だって昨日今日でそれなりに参っている。泉美はああだから、それに俺がこうだから、放置されているに過ぎない。愛莉の体の重みと温かみがそれをいくらか癒してくれる。温かみより重みのほうが重要らしい。うまく説明できないのだが、どうやらそれらしきことを感じる。
 不思議なことに、いつの間にか俺はこのさして美しくも可愛らしくもない女のことが、堪らなく好きになっていた。確かにプロポーションは抜群にいい。どこを拾っても破綻が見つからない。性的シンボルがアンバランスに突出しているグラビアアイドルや、ランウェイを歩くべく矯正されたファッションモデルや、あるいはギャルゲーのストックキャラクターなどを想像してはいけない。愛莉のプロポーションの見事さは、そのような特定の目的を持った過剰や偏向が一切排除されている中で、望み得る最高到達レベルの

にこそある。しかし顔の造作は、博物館に行って「現生人類」の展示の前に立てば出会えるような、これと言って特徴のない女だ。そして最大の問題は、機嫌を損ねているわけでもないのに、なぜかいつも何者かを射殺そうとするかのごとき鋭い目つきだろう。長身で抜群のプロポーションを持つ女がそんな目つきをしていれば、敬遠されるのは当たり前である。そのうえ口の利き方が如何にも

だ。しかしまあ取り立てて可愛くもない現実があるのだから、可愛らしく見せようとするのは却って痛々しいばかりであり、敢えてそうしないのも賢明な姿勢ではある。ただし、電車の中などで無遠慮に自分の身体を見てくる男に出くわしたとき、挑むような目つきで正面から見返すことはやめたほうがいい。この身体に手が届かないことを知らしめてやるのだ…とか言っているのだから、まったく困ったやつだ。世の中いい歳をして前頭葉のボリュームが絶対的に足りていないおかしな連中が少なからずいるのだから、ひとまず横目でじっとりと蔑むように見る程度にとどめておくのが賢明な対応だろう。大抵の男は臆病で傷つき易くできている。
 マンションを出て――愛莉はエレベーターに乗り込むところで手を振った――駅に向かって歩きながら泉美に電話をかけた。栂野は性根のいいやつだから泉美の家まで一緒についてきてくれたらしい。そのうち〈Am-mE(アムミー)〉でいちばん値の張るビーフシチューでもご馳走してやろう。請求書はどうせ父のところに回るのだから、迂遠なように見えて案外そうでもない。
 愛莉の家にいるあいだに勤め人の帰宅時間に差し掛かってしまい、電車は酷く混んでいた。体のデカい俺はいかにも迷惑そうな女の顔に迎えられ、しかし俺にもこいつに乗り込むべき正当な理由と権利があるわけだから、それでも少しでも威圧感を減じてやろうと考えて、女に背中を向けて立った。ところがその後の人の乗り降りが不運にも女の顔を俺の胸の前に持ってきてしまった。先方もそうだろうが、当方だって息苦しいことこの上ない。俺は天井を見上げ、なにを考えているのか知らないが何故か女も俺を見上げ、二駅その状況に耐えたところで泉美の駅に着いた。俺はほッとしてホームを歩き出した。
「刀矢くん…?」
 後ろから声をかけられて振り返るとその女だった。知った顔ではない。俺は人の顔を簡単に忘れるタイプの人間ではない。呼びかけた声の様子から、先方でも俺を特定できているわけではないことがわかる。立ち止まり正対すると、いくつか年上らしく見える女は柔らかに微笑んだ。
「玲央と同じ制服だったから、もしかして…と思ったんだけど」
「玲央? 手塚玲央? ああ、あいつのお姉さん?」
「よかった。人違いじゃなくて」
 手塚の姉はスーパーエキセントリックな弁当を持たせることで、我が校では密かに名高い。俺は幾度か――いやけっこう手塚の家を訪ねているのだが、不思議とこれまで顔を合わせる機会がなかった。まだ学生である。それこそ調理師専門学校に通っている。言われて見れば手塚によく似ていた。目の造作など笑えるくらいそっくりじゃないか。
「ここに住んでるの?」
「ここは妹の駅です。…ああ、妹というのは――」
「知ってる。ごめんね。聞いちゃいけないことだった?」
「いいえ。構いません」
「あなた時々うちに遊びに来てるのよね?」
「ええ、そうですね」
「学校でいちばん背が高いバスケ部のエースだとか言うからさ、まさかそんな子が玲央の友達になるなんてあり得ないと思ってたんだけど、本当だったんだねえ」
 手塚の姉は用件があって俺に声をかけたわけではなく、まさか弟の友人の実在性を確かめたかっただけだとか、そんなオチじゃないよな? ――そう怪しんだとき、すっと肘をつかまれて、ホームの端に引っ張られた。俺たちが改札に向かって歩く人間の邪魔になっていたらしい。どうやらまともな人間のようだ。弁当は必ずしも作った者の人間性をそのまま反映するものでもないという、この世界の新たな真実をひとつ入手した。ちょっと役に立ちそうな感じがするところがいい。
 駅のアナウンスが通過電車の接近に注意を促して、手塚の姉がひょいと上を指差した。俺は思わずその指が示す先を追いかけそうになり、しかし顎を上げる手前でとどまった。それは通過電車を待とうという提案の表明だった。真っ当な提案である。と、どこかのバカがホームの端に身を乗り出して警笛を鳴らされた。電車の警笛というやつは――相手を脅かすために鳴らすのだから当然とはいうものの――異様にデカい。ガツンッと鼓膜を叩かれるほどに空気を振動させたあと、通過電車は減速する気配もなく満員の客を乗せて走り去った。警笛を鳴らさせた人間の顎をつかんで天に吊り上げてやろうかと思ったが、帰宅時間のホームは人が多く特定するのは難しい。特定できてしまったら本当にそんな暴挙に出るものか、自分ではなんともわからない。俺もまだ自己制御の下手くそな前頭葉の足りない少年のひとりだ。
「昨日、学校でなにかあった?」
「なにかといいますと?」
「いつもぼんやりしている子なんだけど、昨夜からいつになく呆然としてる感じだったから」
「さあ、特別なにも感じませんでしたけどね」
「あのすっごく可愛い彼女にフラれたりしてないよね?」
「今日もいつも通りベタベタしてましたよ」
「そっかあ。…あ、ごめんね、つまらないことで引き留めちゃって。あなたに目の前に立たれちゃったからさ、私ちょっと変なこと考えたのかも。ごめんね」
 だから無理くりなにか用件をこしらえたのかもしれない…という意味だろう。友達の話などほとんどしてこなかった弟がこのところたまに名前を口にする男がいて、そいつに間違いないと思われる特徴を備えた人間と電車の中で正面から向き合ってしまったものだから、なんとかしなければいけないと考えた。――まあ、特段怪しむべき思考経路でもない。思わず声をかけてしまってから話題を探すというのは日常的によくある事態だろう。そんなときはついうっかり余計なことを口にする。脳ミソの上のほうにぽっと浮かんだやつに思わず手を出してしまう。
 通過電車をやり過ごしたこともあって、なんとなく、手塚の姉が乗り直すべき電車がやってくるまで話をつないだ。これもまた余計なことを口にする契機となり得る状況である。実際、俺はうっかり「スーパーエキセントリックな弁当」なんて表現を使ってしまい、手塚の姉を赤面させてしまった。これも普段からそう思っているやつがぽっと水面に浮かんできた結果だ。申し訳ないことをした。――いや、もしかするとこれをきっかけに手塚の弁当がまともな姿に転じるとすれば、俺は手塚から感謝されてもいい話かもしれない。手塚が文句を言いながらも実はあれを楽しみにしていたのであれば、反対に俺は恨まれることになる。いずれにしても――まあ、どちらであってもどうでもいい話だ。
 手塚の姉が乗り込んだ電車を見送って――手塚の姉は手を振ったが俺は軽く頭を下げた――御堂の家に向かった。陽が落ちると急激に寒くなる季節である。迷うまでもなくバスに乗った。歩けば途中で栂野の家のそばを通ることになる。手塚の姉なんかに出くわしたあとだから今度は栂野と出くわさないとも限らない。そいつはさらに面倒臭い事態に発展し兼ねない。恐らくそれもあって俺は無意識のうちに栂野との遭遇の可能性も回避すべくバスを選んでいたのだろう。
「お帰りなさいませ、マスター」
 泉美はコーヒーを淹れることくらいしかできない美しいけれど無能としか言いようのないハウスロイドになってしまったらしい。きっと伯母の額から放たれた無慈悲な電磁的一撃のせいだろう。
「お食事をなさいますか? お風呂にはいられますか?」
「風呂? いや、今夜は帰るぞ」
「お母さんね、湊斗のパンツも洗濯しといたって言ってたよ」
「三日も同じワイシャツを着るのは御免だ。靴下も臭い」
「ワイシャツと靴下もひとつ置いとけばいいのに」
「そもそもなんで俺のパンツがここにあったんだっけ?」
「二学期が始まるときに湊斗が自分で持ってきたんじゃん」
「ああ、そうか。おまえがおかしくなった時の用心にな」
「パンツだけ持ってくるとか、ちょっとおかしくない?」
「夏場の緊急対応だったんだから、パンツ一枚あれば充分だろう。夏ならワイシャツも一晩で乾く」
「男子ってそういうとこ簡単でいいよね。――ほんとにご飯できてるんだけど、どうする? お父さん帰ってくるの待つ?」
「どっちでも。…てことはないな。腹はかなり減ってる」
「じゃ、先に食べちゃお。私まだ頭がちゃんと働いてないし、勉強するの時間かかると思う」
「終わらなければ明日も来る。明後日も来る。週末もある」
「須藤さんは今日でもういいの?」
「あいつとおまえじゃ立ってるポジションが違うからな」
「どういう意味?」
「おまえのほうが元から高いところにいるんだよ。あいつは真ん中で充分だが、おまえはそうじゃない」
「湊斗が引っ張り上げてくれてるからでしょ?」
「引っ張っても上がれないやつは上がれない。おまえはもっと上がれる。自分を安く見積もるなよ」
「……伯母さんがそう言ったの?」
 俺はYesともNoとも答えなかった。正確に言えば答えられなかった。だから得意の曖昧な表情をつくって見せた。ふだんは面倒臭いときに使う顔だ。泉美はどうも顔つきが変わっただけでなく、嫌な勘の鋭さをもどこかから見つけ出してきたらしい。十七の少女なのだから、これは経験によるものではない。生まれながらに授かった能力の発現だ。
 階下で御堂の母親(血のつながった叔母である)と三人で食事を済ませると、俺と泉美は寸暇を惜んで試験準備に取りかかった。愛莉に対するのと泉美に対するのとでは、中身がまるで違う。愛莉には簡潔に傾向と対策を授ける。試験で一定以上の点数を取るための、揮発性が高い簡易的な装備に過ぎない。しかし泉美にそんなものを与えたところで試験結果を大きく動かすことはできなかった。それは中学の時からずっと変わっていない特性である。とりあえず七十点のところまで連れて行ってやるといったやり方を、泉美が好まないとか納得しないとか、そんな話ではない。確かにそこまで連れて行ってやったはずなのに、振り返ると、まだ麓にとどまって首を傾げている姿を見出す。幾度かそれを繰り返し、泉美にはそれが通用しないことを俺も理解した。だから俺はそれ以来、泉美の隣りをご苦労にも麓の第一歩から一緒に登る。従って愛莉と泉美とでは、用意する時間が違うのではなく、そんなものは時と場合によりけりで、ルートと装備がまるで異なった。
 この日は二十三時半を終わりと決めて――そうしないと俺が三日間同じワイシャツを着て同じ靴下を履くことになるからだ――泉美が踏み出す足もとに注意を払いながら、進むべき道筋を指し示した。まだ頭がちゃんと働いていないなどと言っていたが、そうなふうには感じなかった。泉美の理解は確かなもので、ちょっとした変化にも躓くことなく進んだ。ときどき不安そうに俺の顔を見ることがあっても、今いる場所を、次に踏み出すべき足もとを、そこで見失ってはいなかった。
「……疲れた。今日はここでお終いにしてもいい?」
 十一時少し前に、泉美がシャーペンを放り投げた。
「ああ、いいよ」
 すぐに腰を上げようとした肘をつかまれて、カーペットの上に引き戻された。
「残り三十分おしゃべりしたい。――お母さんのこと」
 俺は座り直し、泉美は教科書とノートを片付けた。
「絶対にもうお話しできないって決まったわけじゃないんだよね?」
「これ以上悪い方向に進むような事態にはしないという話だけだ」
「これ以上悪い方向って、あとどれくらい残ってるの?」
「そんなこと知ってどうする?」
「残ってないんだね」
「わかってるなら訊くなよ」
 泉美は小さく溜め息をついた。テーブルの上のティーカップに手を伸ばしかけ、しかし膝の上に戻した。うっかりカタカタと震えるような予感が働いたのかもしれない。片方のこぶしを一方の手のひらでぎゅっと握りしめている。午前中、病院の廊下で散々泣いたので、どうやら夜は泣かれずに済むようだ。実際、少しばかり難しい顔をしていた泉美は、すぐに気持ちを切り替えようとするように、パッと明るいとは言えないまでも、いつもとさほど大きくは変わらない気配で、俯いていた顔を俺に向けた。
「私こないだお母さんからお祖母ちゃんのお話し聞いたんだ」
「へえ、そうなのか」
「地元ではすごく古くて有名な料亭で働いてたんだって。お祖母ちゃんは一生懸命で明るい人。明るくする人。お祖母ちゃんがお部屋に入ってくると電球がひとつ増えたみたいになるの。ひとつ増えるっていうのはね、今まで明るかったところがもっと明るくなるんじゃなくて、光がちゃんと届いていなかったところがちゃんと明るくなるって意味だよ。そういう増え方。わかる?」
「わかるよ」(それくらいのこと)
「お母さんずっと寂しかったけど、お祖母ちゃん遅くまで働いてたから。でも辛いとか悲しいとか、そういうのはなかったって。だけど中学生くらいのときに池内の人がやってきて、お祖母ちゃんはもう働かなくてよくなったのね。だけどそれからのほうが辛かったって言うの。働いていないお祖母ちゃんと一緒に暮らすのがね、とっても辛かったって。貧乏なままでよかったって。寂しいままでよかったって。大学になんか行きたくなかったし、高校にだって行きたくなかったし、お祖母ちゃんと一緒に一生懸命働こうって、そう決めてたんだって。そんなお話し、これまで聞いたことあった?」
「いや、初めて聞くな」(いつの間にそんな話をしていた?)
「だから私は困ってるんだよ。…伯母さんを信じていいのか。…お母さんからそんな話聞いちゃったから。ついこないだ聞いたばかりだからね。…あ、勉強はするよ。勉強はちゃんとする。御堂も刀矢もぜんぜん貧乏なんかじゃないし。大学行かないで働くとか言うのおかしいし。そんなこと言ったら絶対みんな悲しい顔するし。だから伯母さんは正しいんだと思うけど。…でもね、湊斗、お母さんは幸せじゃなかったの。高校でも、大学でも。…私うまく言えないけど。伯母さんはもしかすると、正しいけどやっちゃいけないことをしてるような気がするんだよ。私うまく言えないんだけど……」
 あの人の――いや、母親の話をするときの泉美は、いつもこんなふうに、精神年齢がいくらか退行してしまったような、不思議な物言いになる。それをどう解釈すればいいのか、あるいは解釈することができるのか、もしくは解釈する必要があるのか、俺にはどうもわからない。目の前にいるのは十七歳の高校生で、間もなく大人の女になろうとしているはずなのだが、小学校高学年くらいの女の子の話を聞いているような気分になる。滅多に母親の話はしないから、泉美もどう話せばいいのか、距離感がつかめないのかもしれない。御堂の母親の話であればこんなふうにはならない。御堂の母親のことも泉美は同じように「お母さん」と呼ぶのだが、こんなふうにはならない。それはもしかすると、俺はその場に立ち会ったことがなく、立ち会うことを許されていないから、これは本当に想像でしかないのだが、刀矢の母親が泉美のことを、そのように扱ってきたせいなのかもしれない。御堂の母親は育ての親として、泉美の反抗期だとか様々に見てきたはずであり、その成長過程に途切れなく接してきた。他方で刀矢の母親にとって泉美は、実の娘ではあるけれど、ある意味「客人」でしかなかったとも考えられる。刀矢の母親が泉美を「客人」として扱い、泉美も刀矢では「客人」として振る舞い、その結果として、泉美はあの人との距離をつかみ損ねたまま、今ここにいるのかもしれない。
「泉美、悪いがもう時間だ」
「あ、そうだね」
「帰るけど、大丈夫だな?」
「大丈夫じゃない、て言ったらどうするの?」
「御堂のお母さんに相談する」
「やっぱり帰るんじゃん」
「そりゃ帰るさ」
「だったら、大丈夫だな?とか訊かないでよ」
「まあ、そうだな……」
 ころっと十七歳の少女に戻っている。
「明日は一緒に帰って続きしてくれるんだよね?」
「ああ、明日は一緒に帰るよ」
「今日さ、結衣ちゃんに送ってもらっちゃったよ」
「さっき電話で聞いた」
「そうだっけ? なんかさ、お母さん帰ってくるまで一緒にいようか?とか言われちゃって、ちょっと恥ずかしかった……」
 俺は笑いながら今度こそ腰を上げ、泉美も今度は引き留めることはせず、一緒に階段を降り、リビングでまだ起きていた御堂の両親に挨拶をして、玄関を出て、門扉を開けて、手を振る泉美に見送られながら、さらに冷え込んできた十二月の夜のひと気のない住宅街を、さすがにこの時間になれば栂野と出くわす心配もないだろう…などと考えながら、寒さに首をすぼめて駅に向かった。――大丈夫だ。心配しなくてもいい。この先で犬の散歩をする栂野とばったり出くわすなんてことは起こらなかった。栂野が犬を飼っていなくて本当によかった。最近の飼い犬は宵っ張りだと聞くからな。
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