三日目

文字数 9,573文字

 実はその晩、酷い夢を見たのは結衣のほうだった。翌朝、それを話したくて、結衣は駅の改札を出た真正面で僕を待っていた。学校までの道すがら結衣が話して聞かせてくれたところによると――ブラウスのボタンをいくつ外しても脱ぐことができない…みたいな夢を見たらしい。夢の記憶は茫漠としており、正確にそれがブラウスのボタンを外す行為だったと断言はできないそうなのだが、とにかくそういう類いの夢である。そしてこのような事態を指し示す四文字熟語を僕は思った――自縄自縛。(とはいえ、ヴァン・ヴィーン氏がいつだかの講義で指摘したように、夢になんらかの教訓や象徴や寓意やらを見出すのは――たとえばブラウスのボタンに裸身を露わにすることへの少女の葛藤が現出しているといった示唆など――己の愚かさを表出する恥ずかしい振る舞いだと考えるのが、それこそ節度ある態度と言うべきだろう。実際、そんな夢を見たというのはでっち上げであったことを、かなり時間が経ってから結衣自身が認めた。前夜のテーマ――主題という意味――をこの朝に継続させるために、占い師が喰いつきそうなステレオタイプの夢を創作したのである。そんな夢を見たとでも言わなければ、羞恥心に組み敷かれてしまい、このテーマを持ち出すことはできなかったわけだ。なんて可愛らしい発想だろう!)
「ブラウスが脱げなかったらもう一巻の終わりよ」
「確かにそうかもしれない」(そんなことはないだろう…と思ったけれど、ここは結衣に同調しておくことにした)
「でも玲央はもしかしてブラウスが脱げなくてもスカートが脱げればオッケーだとか?」
「それってどういう意味?」
「おっぱいよりお尻のほうが好きって意味よ」
「そのふたつを並べて考えてみたことはないけど……」
「当たり前じゃない。並べられるわけないでしょう? 上と下だし、前と後ろだし」
「結衣、もう少し小さな声で話そう。というか、この話はやめよう。顔が真っ赤だ」
「暑いからよ。……寒いからよ。内側から全力で()っためようとしてるの、私は恒温動物だからね」
 つまり、昨夜の僕の判断は早計と言うか、勇み足だったということになる。むしろ保留した当の結衣のほうが、もしかすると保留したばっかりに、囚われの身となってしまっていた(しつこいようだけれど、そんなバカげた夢を捏造しないではいられないほどに)。
 結衣はいま「私は…」と言ったけれど、もちろん

恒温動物だ。内側から自分を温めることができる。今日のように寒い十二月の朝には特にその真価が発揮される。蛇や蜥蜴は地中で眠っている。もちろん生物を恒温か変温かに二分することに意味はない。それが現代の生物科学の節度ある立場だ。体温のコントロールが上手な生物から下手な生物まで、動物界はスペクトラム模様を呈している。同一の種の中にも変異があるし、同一個体においても揺れがある。今日の結衣はコントロールに失敗している。たとえばそういうことだ。
 湊斗と泉美はすでに自席についていた。僕の顔を見た湊斗がにやりと笑った。ああ、昨日の姉の件だな…とピンとこない人間はいないだろう。湊斗は謂わば揉み手して待っていたのだ。
「今日は手塚の弁当がどんな具合に仕上がっているか楽しみでなあ」
「過度な期待は禁物だよ。ハンバーグと卵焼きとブロッコリーに変わってるなんてことは絶対にないと請け合ってもいい」
「しかし俺もしくじったよなあ。手塚の弁当は学校で笑える数少ない

のひとつだってのに、もしかすると昨日の千秋楽を俺と泉美は見逃したのかもしれないわけだろう?」
「湊斗、そんな言い方しちゃダメだよ」
「泉美だって毎日笑ってるだろうが?」
「毎日じゃないよ……。ごくたまにだよ……」
 どうやら泉美もすでに湊斗から、僕の姉の昨夜の突飛な振る舞いを聞いているらしい。しかし泉美の申告は間違いなく虚偽である。「ごくたまに笑う」ではなく、「ごくたまに笑わない」が正しい。だけどそれは泉美の人品・骨柄の問題ではなく、僕の姉がつくる弁当が、ごくたまにしか笑われずに済むことがないからだ。調理師専門学校に通う姉を持つ全国の弟がみな等しく同じ憂き目に遭っているのか知らないけれど(たぶんそうではないだろう)、姉の弁当はある種の実験的要素を多分に含んでいる。要するに僕は人体実験のモルモットにされている。もう少し穏当な表現をすれば、臨床試験の被験者にされている。湊斗が姉の弁当を「スーパーエキセントリックな」と形容したのは正鵠を得ているのだ。ところがどうした理由か結衣は数少ないアタリを引く。たぶんこれまでハズレを引いたことがない。この春に初めて弁当を交換したときから、いきなりアタリだった。世の中には稀にこうした女の子がいる(と聞いたことがある。どこで誰からか憶えていないけれど)。僕がつくづく幸福な少年であることを実感させられる瞬間だ。
「手塚くんは朝お弁当受け取るとき中身見ないの?」
「そういう取り決めだからね」
「見た目からしてもう期待できないことが明らかになるとお互い困るんだよ」(と、そのあとを湊斗が引き取った)
「なんでお互い?」
「手塚の弁当を作るのは姉さんの仕事で、それがないと手塚は昼飯抜きになる」(実はそうなのである)
「お姉さん困ってないじゃん」
「成果物を受け取ってもらえなければ仕事を果たしたとは言えない。調理師専門学校に通っていながら視覚と嗅覚の情報だけで突き返されるのは極めて不名誉なことだ」(あの姉にもそんなプライドがあるのだろうか?)
「なんかお互い不幸な契約になってるとしか思えないよねえ」
 間の悪いことにそこで予鈴が鳴った。最後の結衣のセリフに思わずみんなが僕の顔を見たタイミングである。それに応えようとしたところ、三人は授業の支度に移ってしまったので、僕は応えられないままに放り出された。応える猶予があったとしても、僕のごちゃごちゃして面倒臭い言説は、間違いなくいつものように、途中で結衣に断ち切られていたことだろう。それが僕と結衣の

だった。それでも僕自身の感覚としては、結衣に声をかけられたこの春の頃に比べると、僕のごちゃごちゃ感は相当に減じていると思う。少なくともあのとき口癖のように頭につけていた「でも」とか「だけど」とかは激減していると思う。僕はただひたすら「状況」に放り込まれること(あるいは「状況」が開始されること)を回避するために、なにかにつけて頭に「でも」とか「だけど」とかを置いてきた。多くの少年たちと同じように、僕もやはり「状況」に放り込まれることや「状況」が開始されることを、憧れつつも恐れていた。そこからの回避手段が僕においては頭に「でも」とか「だけど」とかを置くことだった。
 間もなく授業が始まった。湊斗の隣に座るようになって三ヶ月が経つ。湊斗はノートを取らない。椅子に背を凭せ掛け、あるいは机に頬杖をつき、教科書と黒板と教師の顔のあいだで無表情に視線を往来させる。時々なにかを考えているふうに見える瞬間がある。湊斗はそれを「シャッフル」と呼んだ。整頓されている状態を攪乱させるシャッフルではなく、浮動している状態を沈着させるためのシャッフルなのだそうだ。一瞬、くしゃくしゃっと情報が入り乱れるようにして渦を巻き、次の瞬間すっとあるべき場所に収まる――そんな操作が頭の中で起きているらしい。生まれつき頭のいい人間というのは時々こんなふうに訳のわからないことを口にする。困ったものだ。
 僕はふと、そう言えばあれから情報がアップデートされていないことを思い出した。もちろん聞いたところで僕になにができるわけでもない。もしかするとその話題には触れたくない気分かもしれない。その可能性は事が事だけに否定できないだろう。でも、わざわざ図書室まで僕と結衣を訪ねてきてくれたのだから、無関心なふうでいるのもどうかという気がした。僕は一大決心をし、生まれて初めて授業中に

メモを回した(受け取ったことも結衣からしかないけど)。むろん僕らの後ろには結衣と泉美が座っているわけだから、彼女たちに気取られぬよう、数学の教師が問題を解くよう指示を出した直後、すなわち、真面目な結衣と泉美がそれを合図に間違いなく机に顔を伏せるであろうタイミングを見計らい、すっと差し出したのである。女の子みたいに丁寧に紙を折り畳んだりはしていない。ノートを半分くらいのところで破っただけのメモだ。
 ――お母さん、どう?
 ――変わり無し
 湊斗は実際に「無し」と漢字で書いて寄こした。ここを漢字で書くのか…と僕はまずそこに感心した。このような文節においてここに漢字の「無」を使う人間とは滅多にお目にかかれないのではないかと思う。少なくとも僕は知らなかった。しかしそれはそれとして、「変化無し」という応答は酷い。「変化がない」というのは基準点を置いた相対的表現であり、基準点をはっきりと共有できていない僕にとっては取りつく島もない表現だ。とはいえさらにここで「どこから?」と続けるのも憚られる。少なくともその基準点があまりよくない状態であることを、この表現は暗黙裡に含んでいるからだ。基準点がよい状態のときに、「変わり無し」という言い方はしないだろう。なぜそうなのかは僕には説明できないけれど、なぜだか知らないけれどそれが伝わってくる。僕はそのように受け取ったがために、一大決心で回したはずの授業中のメモは一回の往復で終わってしまった。僕はそのメモをポケットに突っ込んだ。あとで然るべき場所に捨てようと思った。
 一限目が終わったところで結衣に肘を引っ張られ、そのまま図書室に拉致された。もちろん僕にはなにが待ち構えているのか理解できていた。書架の後ろに回り込んだところで(遥かに続く書架の手前のほうであり、さほど深くは潜り込んでいない)、結衣が手のひらを上にして差し出した。
「見せて」
「いいけど、僕には説明できないからね」
「なにが?」
「見ればわかるよ」
 僕はポケットからくしゃくしゃになったメモを取り出して結衣に手渡した。一目見れば読み取れる短い二行のセンテンスに、結衣もやはり難しい顔をした。見ればわかると言った通り見てわかったのだろう。つまり、僕に

説明できないのか?ということを。
「よくないし、よくなってない、て意味よね、これ」
「僕もそう受け取ったよ」
「だけど玲央、よくこんなこと訊けたね? ちょっとビックリよ」
「そうだね。こういうのを訊けないというか、あえて訊かないのが僕だから」
「だからビックリしたの、さっき。玲央が授業中に誰かにメモを渡すなんて。…だから、そう、私からご褒美あげる」
 ちょんと小さくキスをしてくれた。なかなかのご褒美だ。木曜日のまだ一限目が終わったばかりだから、酷く幸先のいい一日の始まりだと言っていい。僕らはそのまますぐに教室に戻った。湊斗が泉美を振り返ってなにか話をしていた。僕らが戻るとすっと前を向いたので、湊斗はもしかすると僕のメモの件を泉美に話したのかもしれない。泉美は次の授業の教科書に目を落としたので、顔色をうかがうことはできなかった。隣に座る結衣ならなにかを感じ取るかもしれない。そうであれば次の休み時間にふたたび図書室に連れて行かれるだろう。でも、そんなことは起こらなかった。僕らはそのあとは淡々と午前の授業を終え、問題の(

)昼休みへと突入した。
 結論から先に言えば、案の定、姉は

反省などしていなかった。恐らく一晩寝たことですっかり忘れてしまったのだろう。完全にリセットされてしまったのだろう。かの〈忘却探偵〉みたいに。つまりは今日の僕の弁当もまた、見た目も味も

弁当だった。
「一点もないのか?」
「なにが?」
「いやだから、いわゆる改善点と言うか、反省の色と言うべきか、いくらか心を入れ替えようとしたらしき片鱗とでも言うか、あるいはその痕跡とでも言うべきか、そんな

だよ」
「ないね」
「恐ろしい姉さんだな」
 そこまで我慢していたらしい泉美と結衣が、湊斗のこの一言で堪らずに吹き出した。
「泉美ちゃん、笑い過ぎ」
「結衣ちゃんだって笑ってるじゃん」
「だって湊斗の言い方……」
「酷いよね、この人。そのうちきっと後ろから刺されるよね」
「前からは怖いもんね」
「うん、前からは怖い」
「ねえねえ、なにがあったの? なにがそんなにおかしいの?」
 こうしたとき、事情を知らない第三者の介入は、事態をさらに悪化させるケースが多い。弁当の時間になると僕ら四人に加わってお誕生日席につく美乃利が、お腹をよじって涙まで浮かべて笑い転げる泉美と結衣の様子に、まさに事情を知らない第三者の無邪気さで首を傾げている。しかし誰も説明しようとしない。泉美と結衣は笑い転げているし、湊斗はもう知らんぷりして自分の弁当(自作自食の弁当だ)に向かっている。仕方なく、本当に酷い話だと思うけれど、僕が美乃利に事の次第を説明する羽目になった。美乃利もまた爆笑とまでは言わないまでも口に入っていたご飯粒を思わずいくつか吹き出す程度には笑った。笑われているのは僕だ。……いや、姉だ。
 泉美と結衣がなんとか落ち着いて、食事も半分以上は進んだというところになって、急に湊斗が口を開いた。残る四人の箸がぴたっと中空で止まるような話だった。
「おまえたちには俺たちの母親の話をしておく」
 実際のところ、中空で箸を止めたのは結衣と美乃利と僕の三人で、泉美は箸を置いていた。話すぞ…とのなんらかのサインが、きっと湊斗から泉美に向けて発せられたのだろう。
「あの人は今いわゆる『集中治療室』にいる。容体は一昨日から変わっていない。しかしここ数日でどうにかなるという話でもない。地面すれすれを滑空するグライダーみたいなもんだ。すぐに墜ちることはないが、その先はわからない。すとんと墜ちるかもしれないし、すっと浮き上がるかもしれない。そこは誰にもなんとも言えない。だから俺たちは目の前の試験に集中する。――以上だ」
 湊斗が泉美の顔を見た。泉美は少し慌てたように顔を伏せ、箸を手に取って弁当に戻った。僕ら三人もそれに倣った。湊斗はしばらく泉美の様子を窺ってから弁当箱を閉じた。湊斗だけはすでに食べ終えていた。それは今日に限ったことではなく、いつも弁当をいちばん最初に食べ終えるのは湊斗だ。そして本を手に図書室に向かう。僕と結衣も少し遅れて図書室に入る。泉美は美乃利と教室に残る。湊斗は閲覧スペースの先頭で椅子に背を凭せ掛け、長い体を存分に伸ばして本を読む。僕と結衣はそんな様子を脇目に見ながら書架の奥に入り込み、たいていは美術書を開く。生物の棚のいちばん下から樹や鳥や魚の写真集を手に取ることも稀にある。少しだけキスをすることもあれば、湊斗に急襲されたときのようにキスに没頭してしまうこともある。だけどそんなことは滅多にない。滅多にないのは湊斗に急襲されることのほうではなく、図書室の書架の奥でキスに没頭してしまうことのほうだ。
 しかしこの日は湊斗は席を立たなかった。そのままその場で本を開いた。考えるまでもなく、泉美をここに残して行きたくないからだろう。美乃利と二人きりにするのでは心許ないのだろう。だから僕と結衣もこの日は席を立たなかった。代わりにみんなで教科書を開いた。なにしろ来週から期末試験が始まる。図書室で画集や写真集を開きらながら時々キスをしたりするのは、正直この時期の高校二年生の振る舞いとしてはあまり褒められた所業ではない。だけど僕と結衣の場合は持って生まれた能力の性格上、試験結果を左右する取り組みとしては、日常的な積み上げのほうが遥かに比重が大きい。従って試験前週の活動は(あくまでも僕らが通う学校内での尺度に過ぎないけれど)順位をあと十位持ち上げるくらいにしか働かない。実際、一学期の中間試験まで僕らはそろって十位台の半ばから二十位台の半ばくらいにいた。それが期末試験では四十位台に落ち、中間試験で慌てて二十位台後半に戻したという経緯がある。ふたたび元のように時間を削れば二十位前後くらいにまで戻れるとは思うけれど、僕も結衣も一緒に過ごす時間をさらに削ってまで(それはつまり付き合い始める以前の状態にまで戻すことを意味するわけだから)十位台に復帰したいとは思わなかった。
 湊斗を除く僕らは(湊斗は珍しく小説――『冬の夜ひとりの旅人が』なんてものを読んでいる)、この日に授業があって試験日程が近い教科という条件に合致する「生物」の教科書を開いた。ここは出そうだとか、ここは捨てていいだとか、結衣がそんなことをしゃべった。湊斗とほとんど同じこと言うんだねえ…と泉美が感心したように呟いた。結衣の見立てが湊斗とほとんど同じになるのは驚くべきことではなく、そうでなければ僕らは二十位台には座れない。しかし結衣は鼻を鳴らしてそれを誇ることはせず(それは決して結衣が謙虚であるからではなかった)泉美が口にした「ほとんど」という言葉に引っかかった。それは要するに湊斗の見立てとはどこかに食い違いがあるという意味だからである。泉美は教科書を指差して、湊斗からはそっちではなくこっちをよく見ておけと言われた…とかそんなことを言った。今度は結衣が眼を丸くして、斜め向かいに座って本(繰り返すが教科書ではない、来週から試験なのに)を拡げている湊斗にじっと視線を注いだ。
 湊斗も僕らの話がまったく耳に入っていなかったわけではないようであり、そのうえ結衣からじっと見つめられている気配も煩く感じたのだろう、いつものようにあからさまに面倒臭そうな顔をしながら、なぜ泉美にそのような傾向と対策を授けたのかを簡潔に(不愛想に)説明した。結衣と僕はさすがに眼を見合わせてしまった。湊斗の言い分のほうが間違いなく正しいと思えたからだ。
「なるほどね。七番と二十九番のあいだには、引き算では求められない壁があるみたいね」
「量の変化は常に質の転換を内に孕んでいるのだよ」
「ねえ、湊斗の上にいる人たちって、たとえば誰?」
「たとえば、井森加奈だな」
「死んじゃえばいいのに…てみんなが思ってる女ね」
「私はそんなこと思ってないけど……」
「泉美ちゃんていっつもそっちの方向の発言するよね」
「そっちの方向って?」
「私は別にそうは思っていない…とかなんとかさ、不明確な立場に逃げ込もうとするやつ」
「そ、そうかな…?」
「別にそれを責めてるわけじゃないのよ」
「栂野は明らかにそうした姿勢は気に食わないと言っているように聞こえるが」
「そうね。そうかも。少なくとも井森加奈みたいなやつに対しては、態度を明確にすべきよね」
「井森さんてどうしてここに来たんだろう。もっと全然すごい学校に行けるはずなのに」
「玲央、知らないの? 井森のお母さんてここの大学の理事よ!」
 それは結衣しか知らない事実だった。湊斗でさえビックリしていた。
「あいつはつまり将来的に大学の名声を引き上げる卒業生にならないといけないわけか」
「今のままだとママの顔に泥を塗ることになると思うけどね」
「たとえばどんなことで?」
「博士論文を盗用したり、実験結果を捏造したり。――いかにも井森のやりそうなことじゃない?」
「井森さんがそんなことする必要あるのかな?」
「必要かどうかじゃないの。あいつはそういう女なのよ!」
「おまえなにか遺恨でもあるのか?」
「あるわよ! 絶対言わないけどね。玲央にも教えないけどね!」
 多くの生徒は井森加奈に対して「死んじゃえばいいのに」とは思っていない。仮にそう思っている生徒がいたとしても、恐らく上位十五名くらいに入ったことのある人間だけだ。それ以下の生徒にとって井森加奈は、実在性すら問題にならない単なる記号である。学年順位を掲示するための専用用紙(そんなものがあったとして)の一位の場所に、印刷会社のほうで「ここに名前を記載してください」とサンプルとしてプレプリントされている「山田花子」という架空の少女が、この学校では「井森加奈」になる。彼女がもしかすると「死んじゃえばいいのに」と思われているかもしれないと考えられるのは、試験が終わり順位が発表されるたびに、およそ十五位くらいまでの人間の顔を覗いて歩く悪癖を持っているからだ。記憶に間違いがなければ、僕は二度、結衣は一度、井森加奈にそれをやられたことがある。が、結衣の「遺恨」は恐らくそこにはない。本人が墓場まで持って行くと言っているので、それがなんなのかわからないけれど。
「おまえたち俺より上になったことあったか?」
「あるわけないじゃない」
「井森があれをするのは俺を基準にして上の人間だと聞いてるんだが」
「誰がそんなバカなこと言ったの? 井森は正確に十五位から二位までの顔を見て歩くのよ。それも十五位から始めて二位まで順番にね。だから私も玲央も二年になってからはやられてないわけ。たぶん卒業するまで大丈夫よ。もうあんな順位とるほど頑張るつもりないし」
「ふ~ん、十五位なのか。あいつ絶対俺のところにくるから、てっきり俺が目当てなんだと思ってたよ」
「湊斗の顔見にくる物好きな女なんて、愛莉と泉美ちゃんしかいないでしょうが」
「私は物好きでくるんじゃないよ、お兄ちゃんだからくるんだよ」
 一瞬、奇妙な間が開き、奇妙な空気が流れた。それは世界がまたひとつ折り畳まれた瞬間に思えた。
「……泉美、俺を『お兄ちゃん』なんて呼ぶな」
「え、なんで?」
「気持ちが悪い」
「だって『お兄ちゃん』でしょ?」
「違う。俺はおまえの『お兄ちゃん』であったことなど一度もない」
「これまではね。でも今はもう『お兄ちゃん』だから」
「やめてくれ……」
 珍しく湊斗が逃げ出した。大股で教室を出て行く大男の背中を見送って、泉美がちょっと首を傾けた。僕の目にその姿は至極満足そうに映った。とはいえしかし、こうして見ると、今更ながら、泉美はなんて綺麗なのだろう! 綺麗とはいったいなんなのだろう? どうして綺麗などというものがあるのだろう? きっとなにか理由があるはずだ。理由と言うか経緯と言うべきか。意味や目的のことではない。意味や目的を尋ねてはいない。意味や目的を求めると理解を誤ることになる。僕らの世界のモノやコトはすべて経緯の(時に恣意的な)結果としてしか存在し得ない。
「実際『お兄ちゃん』なんだから、しょうがないじゃんねえ?」
「呼ばないけどね、湊斗を『お兄ちゃん』なんて」
「どうして? さっきのあれって嬉しいときの反応だよ?」
「いや、絶対それは違うと思うな」
「じゃあ、玲央は妹がいても『お兄ちゃん』て呼ばせないわけ?」
「それとこれとは事情というか背景が違うし――」
「あ! 二人が結婚したら手塚くんに妹ができるよね!」
「ウソ! あれが玲央のこと『お兄ちゃん』て呼ぶの? それちょっと嫌かも……」
「じゃあ、結衣ちゃんは『お兄ちゃん』て呼ばせないの?」
「う~ん、そうかあ。なんて呼ばせよう……」
「それっていま悩むことでもないと思うけど」(つい余計なことを口にしてしまった)
「じゃあ

悩べばいいの? ねえ、

?」
 結衣がマウントをとれそうだと考える際に見せる意地悪な顔になっている。僕は湊斗と同じようにこの場を逃げ出すべきなのか、それとも顔を赤くしたまま黙り込みこの場にとどまるべきなのか、大いに迷った。が、結衣の顔も赤くなっているので、とどまるべきとの結論を得た。泉美が今日は事故があって以来、初めて穏やかに微笑んでいることだし。綺麗な女の子が穏やかに微笑んでいるのは、間違いなくなによりも素敵なことだ。
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