十七日目―04

文字数 4,641文字

 愛莉の部屋は三十七階建ての高層マンションの二十四階にある。三人家族のための三つの部屋はすべて壁とドアとで仕切られている。こんな高層階で停電にでもなったらどうするつもりなのか想像もつかない。……想像したくもない。決して軽くはない愛莉をおぶって非常階段を二十四階分も上り下りするなんて御免だ。決して小さくはない愛莉の胸が背中に押しつけられ、やはり決して小さくはない愛莉の尻が手に触れているとしても、非常階段を二十四階分も上り下りすれば、もしかすると悟りだって開かれるかもしれないではないか。そう、それも

だ。いや、そもそも「悟り」というやつは

開かれるものだろう。悟りを開きたいと考えているうちは、願っているうちは、悟りというやつの本質的な在り様(ありよう)から想像してみれば、きっと開かれようがない。そのために彼らは星明りすら見えないほどに深い森の夜を歩くのだろう。自分がなにを求めて歩いているのかを忘れるために。しかし俺は、決して小さくはない愛莉の胸が背中に押しつけられ、やはり決して小さくはない愛莉の尻が手に触れているのあれば、十七歳の健全な少年らしく正しく愛莉に欲情するはずだ。従って、決して軽くはない愛莉をおぶって非常階段を二十四階分も上り下りするようなことは、二重の意味での苦行になり兼ねないわけである。故に、俺はそんなことは絶対にしない。
 俺がこれから向かうと連絡をすると、愛莉は先にシャワーを済ませて待っている。俺は愛莉の家に着くなり空中をまだ水蒸気が漂っているようなバスルームに直行する。しかし俺たちはいわゆるセックスフレンドではない。求めているのは相手の性的機能の働きだけではない。そんなものはあってもなくてもどちらでも構わないとはさすがに言わないが。しかし俺たちが世間一般の高校二年生のようなデートなるものを、ほとんどまったくしていないのは事実だ。しかしそれは純粋に俺たちが遊興施設や娯楽施設や飲食施設や商業施設や商業街区や観光名所やらに、ほとんどまったく興味を持っていないせいである。そんなところに出かけるくらいなら、愛莉の部屋でお茶でも飲みながら、噛み合わないおしゃべりをつなげているほうがよっぽどいい。不思議なことに噛み合わないながらも会話は延々と続く。恐らくそこに不思議はないのだろう。愛莉は俺の声を聴いていたいし俺の顔を見ていたいし俺の肌に触れていたいのであり、俺も愛莉の声を聴いていたいし愛莉の顔を見ていたいし愛莉の肌に触れていたいのだ。――はて、俺たちに出かける必要などあるだろうか?
「私やっぱり後ろからのほうが圧倒的に気持ちいい」
「しかしそうなると俺はおまえの殺風景な背中ばかりを眺めることになる」
「背中になにか映ってればいいとか?」
「天上から『ワイルド・アット・ハート』でも上映するか」
「まさか『ラブ・ミー・テンダー』歌っちゃうの!?
「誰が歌うかよ!」
「歌ってくれるなら『シー・オブ・ラブ』が聴きたいなあ」
「それも親父さんの好きな古い映画か?」
「ねえ、考えてみればヒトだけだよね、向かい合ってするのって」
「ヒトが唯一の例外だと言い切れるだけの知見を持ってないだろう?」
「仮にそうだとして、それってなんでだと思う? ヒトにしか表情がないからとか?」
「ヒトにしか表情がないと考えるのは、ヒト以外の表情を読み取れないからだと思うがね」
「じゃあ、おっぱいがあるから? おっぱいが性的な器官になったから?」
「おお、それはなかなかの慧眼かもしれない」
「成熟したあともおっぱい吸いたがるのってヒトだけじゃない?」
「ヒトが唯一の例外だと言い切れ――」
「あ、それなんだけどさ、時々ちょっと痛いんだよね」
「なにがだ?」
「だから、おっぱい。湊斗はたぶん口も大きいぶん吸引力も強いんだと思う」
「いくらか加減しろと?」
「その

が問題だよねえ。痛いと気持ちいいの境界ってほんと紙一重な感じだからさ」
「なるほど。そうだとすればそのうちどこかの頭のおかしな発明家が、吸引強度を可視化できるインジケーター付きの計測機器を発明するかもしれないな」
「その発明を待ってるうちに私のおっぱいがしぼんじゃうかもしれないよ」
「いま二水のほうの『凋む』を使ったか?」
「『しぼむ』は漢字変換してないと思うけど、なんで?」
「二水のほうが正しい。水に関係するからな」
「この中身って水じゃないよ?」
「そんなことは知っ――ん、なにを調べてる?」
「wikiで『おっぱい』調べてる。――え! ちょっとこれってどういうこと!? 『哺乳類のメスが具える外性器の一つ』だって! 『哺乳器としての機能を内包する』だって! なんか『哺乳器としての機能』がついでみたいに書いてあるんだけど。それだと私たちって『哺乳類』じゃなくて『おっぱい類』に分類されちゃわない?」
「そうなると俺はいよいよ吸引力の精密なコントロールを迫られる」
「そんなものの発明に取りかかる必要はないからね?」
「どうしてだ?」
「湊斗は私のおっぱいをどれくらいの強さで吸えばいいのかを知ればいいだけだから。これは私と湊斗だけの問題だから。私のおっぱいと湊斗の口は世界でひとつだけの組み合わせだから」
「心配するな。俺は将来『発明家』として身を立てようなんて考えるほどおめでたくはない」
「でもそんな機械があったら便利だとか思ってるでしょ?」
「実際、重宝するじゃないか」
「世界一無駄な発明だと思う」
「しかし驚くべき発明だぞ?」
「だけどちっとも嬉しくない」
「緑色のカーネーションみたいなものか。――ああ、無駄で思い出したんだが、栂野は今回もまた手塚のひとつ下の順位だったろう?」
「そうだっけ?」
「あいつは図ったようにピタリとそこにつけるんだよ。能力の無駄遣いという意味ではこれ以上のものはないと思わないか?」
「『おっぱい吸引力計測器』を発明する努力のほうがよっぽど無駄遣いだと思う」
「しかしそいつには実用性がある。使用価値がある。が、栂野のあれにはなんの価値もない」
「男子より順位が上っていうのはちょっと落ち着かない、とか?」
「じゃあ、井森加奈のあれはなんだ? あいつはすべての男子の上に立ってるぞ?」
「井森にそういう『乙女心』が理解できるとは思えないけど」
「へえ、あれは『乙女心』の発現なのか。そいつは思いがけない展開だな。つまり男子諸君は傷ついている、と」
「傷ついてない?」
「井森の後塵を拝することに関してか? ――ないね。手塚にだってきっとないぞ」
「だからそれは栂野の自己満足って言うか、私ったらひとつ後ろに控えるタイプだから…とか思ってるって話なんじゃないの?」
「なるほど。そうなるとあれか、ひょっとして井森が阿久津に恋をしたら、なんとしてでも二位になるべく無駄な能力の開発に取りかかるかもしれないわけか。そいつは間違いなく手塚の弁当を上回る必見の出し物になるぞ」
「阿久津ってだれ?」
「知らないのか? 男子首位の座を一度も明け渡したことのない男だぞ?」
「そんなところの順位なんか見てもしょうがないし。阿久津ってなんか部活やってる人?」
「剣道部主将」
「マジで!? 剣道部主将で首席とか、ちょっとカッコ良過ぎじゃない!」
「首席はあくまでも井森だ」
「ねえねえ、どんなやつ? 背高い?」
「おまえより低い」
「はい、終了」
「しかし眉が太くてキリっとしたイケメンだぞ」
「そんな、サイズの小さなベンツみたいなの、気持ち悪い」
「まだ高二だ。これから背もぐんっと伸びる」
「なんで私ったら阿久津をおススメされてるわけ?」
「いや、阿久津は珍しく

だから、おまえの評価を上書きしておきたい」
「どう

なの?」
「うむ、よく聞けよ。まずあいつはな――」
 このあと阿久津の名誉回復にはしくじったものの、こうして一日はこの日も事もなく過ぎて行った。――いや、この日は事はあった。それも週にひとつあれば充分おつりがくるほどの

がなんと三つもだ。――泉美がラブレターを(また)二通も受け取って、俺に面倒な後始末が回ってきた。三学期の始業式で全校生徒に申し伝えておくべきかもしれない。いま御堂泉美はカレシもカノジョも募集していない、うっかりラブレターなんか書いたら刀矢湊斗が挨拶にやってくるぞ、と。――それからもうひとつ、泉美が初めて一人で病院に行き、あの人のもとに辿り着けなくなって、やはり俺に面倒な後始末が回ってきた。手塚に任せたのはあくまでも「狼たちの牙から護ること」であり、ひとまずあいつはそこは完遂したらしい。が、あの病院には致命的な欠陥がある。陥穽と言い直してもいい欠陥だ。――さらにもうひとつ、泉美が代替わりを済ませている事実を兄に伝えたところ、兄はそのままあの人のそばを離れなくなってしまい、どうした訳か泉美のほうが追い出された。兄だって月に一度くらいは泉美と顔を合わせてきたのだから、この迂闊さには呆れるほかない。それで結局兄は見つけるべきものを見つけられたのだろうか? 待っていろ!と言われたのを無視してここにきてしまったわけだが。――まだもうひとつある。四つ目だ。泉美があの人と話している声を聴いているうちに、俺はこの新しい世界の在り様(ありよう)をようやく受け入れることができた。…ように思える。俺は泉美に腕を引っ張り上げられないことには立ち上がることも儘ならず、さらには愛莉が待っていてくれないことには歩き出すことも儘ならない、そんな世界に生きているのだという事実を。俺もまたその程度の

に過ぎないのだという真実を。
 従って、そのようにしてこの一日の三分の二ばかりが過ぎ去ったというのだから、愛莉との愚にもつかない

でも持ってこないことには、どうにも収まりがつかないというわけだ。
 ともに税理士である愛莉の両親は、この日はそろって(しかし企画の異なる)忘年会があり、酒を飲んで夜遅くに帰ってくるという話だった。だから愛莉は部活の帰りに晩飯に供すべき品を取りそろえるべく買い物に寄った。本当はその買い物も俺と一緒にする考えだったらしいのだが、先にも触れたように泉美の後始末が出てしまったものでそれは叶わなかった。両親ともに個人事業主という環境下に一人っ子として育った愛莉は、様々な方面における自活能力をやむを得ず養ってきた少女であり、このときも手際よく晩飯を調えた。いま俺は「やむを得ず」という表現をしたが、愛莉の中にそのような感情の傾きや歪み、あるいは屈託などはないと言う。それはもしかすると刀矢の男たちだってそうかもしれない。あの人は極めて限定された範囲でしか働かず、働けず、あとは日がな一日ベッドや安楽椅子の上にいて、本を読んだり映画を観たり音楽を聴いたりして過ごす。いつからそれが当たり前の情景となったのか、史実と記憶を突き合わせてみれば時期は間違いなく特定されるはずなのだが、そんなことはしなくていいだろう。学校から帰ってきて、仕事から帰ってきて、あの人が今日も穏やかに過ごすことができたと知れば、それで一日はパーフェクトに終わる。
 それは確かにゼロまでの時間を無限に切り刻んで行くような一日一日であったかもしれないが、どれほど小さくなったとしても、それが刀矢の一日であったことは間違いない。しかし世界はその姿を変えてしまった。あの人はゼロまでの無限を飛び越してしまった。お陰で俺はみっともない自身の姿を見せられることになったわけだ。
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