十二日後

文字数 7,131文字

 陽射しは午前中で姿を隠してしまい、この日がこの冬で(少なくとも観測記録上では)いちばんの寒さになった。このあと二月に二度ばかり雪が降り、観測記録上の最高気温の最低値は書き換えられるわけだけれど、そんなことはひとまずこの時点ではどうでもいい。世界と我々が新たに再創造されるには、天気が変わるだけで充分なのだ。
 昨日、始業式の翌日に泉美が欠席して、僕らは肝を冷やした。お馴染みのメンバーはもちろんのこと、クラスの恐らく全員が、なにかおかしなことが

ろうか?と考えた。あるいはより自発的・積極的に、なにかおかしなことを

ろうか?と考えた。
 その

に思い当たるところのある人間がここにいる。なにしろ僕は事件の発生現場に居合わせた。だけど言うまでもなく、もちろん言うまでもなく、僕はそれを胸の内に秘めたまま一日をやり過ごそうとしていた。当然である。印象的な出来事の継起がなにごとかを示唆しているだけであり、印象的な出来事の継起をもって因果に置き換えることほど、愚かな思考はない。
 ふたたび泉美の足がバス停のベンチから持ち上がらなくなってしまったわけではないことは、その日のうちに湊斗から僕らに共有された。しかし、そうではないと言う湊斗の報告は、いかにも(怪しむべきほどに)歯切れが悪かったのも事実である。なんだかわからないが帰宅後いきなり高熱を発し、朝には嘘のように下がったのだが、一日は大事を取って休むことにした――という話だった。
 そしてこの朝、泉美はバスと電車に乗り、自分の足で登校してきた。が、様子がおかしいのは誰の目にも明らかだった。休み時間になるたびに教室から逃げ出すように姿を消し、次の授業が始まるギリギリになってどこからか戻ってきた。昼休みにも消えてしまった。
「そういうわけで手塚、おまえにちょっと頼みたいことがある」
「え、僕!?
 大袈裟に驚いて見せたものの、遅かれ早かれ僕に声がかかるのだろうとは覚悟していた。さっきから湊斗と結衣の会話を聞く限りでは、思い当たるところのある人間はすでに僕ひとりではなく、総勢三人にまで増えている。そうであってみれば、僕にお鉢が回ってくるのを避けるのは難しいことだろう。パンデミックまではあともう少しだ。
「その場にいたんだろう?」
「いたね」
「例のブツを改めて貰い受けてきてくれ」
「マジで?」
「そこから始めないことにはどうにもならない」
「まあ、確かに」
「泉美は恐らく書架の奥に身を潜めているはずだ」
「僕が届けろ、と?」
「栂野と一緒でもいいぜ」
「まさに『レディ&オールドマン』になるね」
「ほかに適切な〈運び屋〉が思い当たらない」
「まあ、確かに」
 僕は急いで弁当を終え、教室の真ん中くらいで男四人のパッとしないグループを組んでいた植草真司に声をかけると、二人でクソ寒い校舎の外に出て、陸上部のトラックへ向かう途中にあるベンチに腰かけた。気温が上がらないまま陽射しが隠れてしまっているベンチは、座った途端に飛び上がりたくなるくらいに冷たかった。しかし、図書室に結界が張られてしまっている以上――いや、視聴覚室でも音楽室でも理科準備室でも、いくらでも候補はあったはずなのに、なぜか僕はそこを選んだ。
「おい、ここなのか?」
「人目に触れたくない」
「なにも表に出なくなって――」
「さっさと終わらせよう。その胸のポケットにはまだ例のものが入ってる?」
「どうするつもりだ?」
「入っているなら、僕に預けて欲しい」
「手塚を信用しろって?」
「あの刀矢湊斗が僕を〈運び屋〉に指名したんだよ」
「ああ、それなら間違いないか」
「じゃあ、出して」
「もうないよ」
「ない?」
「あるわけないだろう?」
「庭で燃やしたとか?」
「破り捨てたよ」
「そうか。まあ、そうだよね」
「だけど手塚、刀矢がそう言ったってことは、御堂さんは読んでくれるってこと?」
「そういう話なんだと思うよ」
「しかし結局は刀矢が現れることになるんじゃない?」
「その覚悟はしてたはずだよね?」
 植草はそこでちょっと難しい顔をして黙り込んだ。こんな寒い中で(僕が選んでしまった場所だけど)そんなふうに黙り込むのはやめて欲しかった。二人とも無意識のうちに膝を揺すっている。逼迫した状況のせいではなく、躓いた状況の苛立たしさのせいでもなく、ただもう寒いからだ。むろん思わぬ形で掛け違ったと言うか、先後がおかしくなってしまったわけだから、実際、状況は逼迫もしているし苛立たしくもあった。このような物事は、それなら明日また改めて…とはいかない。今ここでなんらかの決断を下さなければならない。――そして、植草が腰を上げた。ベンチの冷たさに耐え切れなくなったわけではない。
「御堂さんは今どこにいる?」
「図書室の書架のいちばん奥の隅っこのほう」
「わかった。行ってくる」
「マジで?」
「手塚、あとはもういいよ」
 確かに、僕はもう用済みだった。――つまりは初詣に恋愛成就を祈願した十七歳のひとりの少年が、善は急げとばかりに決死の覚悟で三学期の始業式を迎え、必死と言われていたチャレンジを敢行した結果、恋文の本編は読まれることなく破棄されたにもかかわらず、拙劣ながらも実直で真摯な態度が思いがけずも功を奏し、投げられたボールは避けるのが正解だと嘯いていた少女を発熱させてしまったのだが、しかし恐らく発熱以降はむしろ少女の側の問題に切り替わっており、少女の熱は下がりはしたものの翌日には欠席して、なにしろ件の少年は同じ教室にいるものだから、休み時間になるたびにどこへやら身を隠し気持ちを落ち着かせないではいられなかった。――という話だった。〈刀矢湊斗〉と呼ばれるハードルを超えなければならなかったのは、そう言われてみれば当たり前のように聞こえるけれど、少年たちのほうではなく御堂泉美のほうだったのだ。
 確かに、僕はもう用済みだった。――僕は冷え切ったベンチから冷え切った体を捻じ曲げて校舎を見上げた。そして校内案内図と実測とで教室ひとつ分ほど違っている図書室の書架のいちばん奥、すなわち校舎の建物のいちばん端へと視線を向けた。そこで今、(率直に言ってしまえば)ぱっと見これと言って取り柄のない少年が、校内随一の美女へと変貌した少女に向かい、いわゆる求愛の儀式に及んでいるわけである。――しかしながら、それは稿を改めるべき物語だろう。いずれ機会があれば、少年か少女いずれかの口によって語られることもあるかもしれない。とはいえ所詮は健康で健全な少年少女のロマンスなのだから、さほどおもしろい話になるとは思えない。いくら少女が驚くべき美女であったとしても、猫を猫と呼ぶように、恋は恋である。
 確かに、僕はもう用済みだった。――それでもどうしたわけか冷え切ったベンチを離れることができなかった。間断なく膝を揺するほど寒くて仕方がないはずなのに。先ほど校舎のほうに捻った首を正面に戻すと、今は誰の姿も見えないトラックを駆け抜ける愛莉の素晴らしい四肢のイメージが流れ込んできた。駆け抜けるイメージのほうではなく、素晴らしい四肢のほうのイメージだ。その後ろには歯を食いしばって追いかける美乃利の大きなおっぱいが揺れている。これもまた歯を食いしばっているイメージのほうではなく、揺れる大きなおっぱいのほうのイメージだ。――素晴らしい四肢のほうは僕らの文明が(いや文化のほうかもしれない)隠すべしと定めたひとつの二等辺三角形とふたつの円を、まるで駄菓子に付いているおまけみたいにキラキラするシールで隠しているし(きっとそれが流体力学的に最も空気抵抗を小さくしてくれるのだ)、揺れる大きなおっぱいのほうは流麗な走行を妨げるのは明らかであるにもかかわらず、なぜか小学生が着るような綿の白くて厚ぼったい体操着の下でヒリヒリする汗疹に悲鳴を上げている。――僕は考えてみればそれらを実見していないことにすぐに思い至った。イメージの流入(あるいは侵入)というやつは、妄想障害がそうであるように、あるいは夢もまたそうであるように、見たことのないものも見せるらしい。実在する人間と行ったことのない場所で交わした記憶のない会話を、あるいは実在する人間の見たことのない素肌と触れたことのない汗を、夢は初めての出来事として経験させることができる。愛莉の素晴らしい四肢は実在するし、美乃利の大きなおっぱいも実在するけれど、僕の中にはそれらが駆け抜けた記憶も揺れた記憶もない。――僕はそれをなぜか非常に(悲痛なほどに)残念なことのように思った。それらが駆け抜けたり揺れたりするのはきっと間違いなくこの十七歳の春や夏や秋や冬や朝や午後や夕暮れや晴天や曇天や雨天やの中においてのみであり、二度と反復され得ないのだという事実が乱暴に(暴力的に、無慈悲に、狡猾に)侵入してきたからだ。――酷い話だ。まったく酷い話だ。――まだ見ていないのであればこれからでも見ればいいだとか、まだ触っていないのであればこれからでも触ればいいだとか、そんな

がまったく有効に働かないことは考えてみるまでもない。問題は僕がまだそれらを見ていないこと、それらに触れていないこと、あるいはありそうな予想としてこのまま見も触れもしないで卒業してしまうことにあるのではなく、それらが二度と反復され得ないという揺るがし難い(侵し難い)事実にある。正直それらが二度と反復され得ないのであれば、今ここで見ても見なくても触っても触らなくても、なんら変わらない話ではないか。そういう結論になるほかない話ではないか。どうせ二度と確かめようがないのだから。――言うまでもなく僕は湊斗と泉美の母親の話をしているのだ。〈刀矢雪乃〉という実在した(はずの)女の話をしているのだ。だが、その実在したという事実はもはや確かめようがない。――酷い話だ。まったく酷い話だ。神様はどうして僕らのようなものを創ったのだろう?
 そうは言っても予鈴が鳴れば、校舎に戻るほかなにない。階段の踊り場に結衣が待っていた。握った僕の手の冷たさに驚いて最も近い空き教室(理科準備室)に飛び込むと、そのあたたかで柔らかで香しい体でもって僕を包み込んでくれた。昼休みはまだすぐには終わらない。気分的にはこのまま結衣と二人で午後の授業をエスケープし、どちらかの部屋のベッドの中で(母親か姉か妹が帰ってくるまで)結衣のあたたかで柔らかで香しい体を(もちろん衣服をすべて剥ぎ取って)貪り尽くしたいところだった。けれども僕らは品行方正な少年と少女であり、すっかり牙を抜かれた少年と少女であり、予鈴が鳴るとともに互いの体を引き剥がし、それでも小さな抵抗をしてみたくて、憚ることなく手をつなぎ、廊下を歩き階段を昇り、手をつないだまま教室に入った。何人かの生徒が僕らに視線を向けた。そのうちの何人かはそのまま僕らの手を――それがなんらかへの抵抗であることの証として憚ることなく繋いでいる手を注視した。窓際まで歩み寄り、残念なことに僕らの座席は隣り合っていなかったので、そのささやかな抵抗は着席とともに終了した。それでなにごとか手に入れることができたのか?だって? バカだな。そんなことを訊いて、知って、君はなにが嬉しいんだい?
 泉美と植草はすでにそれぞれの席に座っていた。僕は去年の夏に初めて訪ねた御堂家の泉美の部屋と、数日前に初めて訪ねた刀矢家の泉美の部屋を頭の中に思い浮かべた。それらはトラックを駆け抜ける愛莉の素晴らしい四肢のイメージや、歯を食いしばって追いかける美乃利の大きなおっぱいが揺れるイメージと同じように、僕には抵抗する術もなく侵入してきた。そうであってみれば――そうであってみれば!――つまり泉美は植草の求愛を受け入れたのである!
 僕はそれとなく隣の湊斗の様子を窺った。教師はまだやってきていない。湊斗は右手で頬杖をつき窓の外の冷え切った曇天を眺めていた。
 僕はそれとなく斜め後ろの泉美の様子を窺った。教師はまだやってきていない。泉美は教科書を開きそれに集中しているふりをつくっていた。
 僕はそれとなく植草の様子を窺った。教師はまだやってきていない。植草は腕を組んで目をつむり天を仰いで虚空になにかを探していた。
 教師が入ってくる前に僕はそうして今そこに実在する人々を眺めることで、これ以上の制御不能なイメージの侵入を抑え込んだ。真後ろに座る結衣が脚を伸ばして僕の椅子を一回、二回と蹴った。別に意味などない。モールス信号みたいなものではない。私はすぐ後ろにいるよ…と僕に伝えてくれている。僕は片方の手で頭の後ろを掻く仕草でそれに応える。結衣はまだ僕のことを心配してくれている。――これは素敵な話だ。酷い話ばかりじゃない。素敵な話だってある。
 やがて教壇に立った数学の教師は、貧困の撲滅や戦争の放棄や犯罪の一掃や、そして宇宙や生命の謎の解明へとつながる入り口の扉の前に僕らを誘っているのだという自覚を、果たして持っているだろうか? きっとそんなものは持っていないだろう。きっとインフルエンザに罹っている子供のことや、昨夜しっかり収めずにしまった夫婦喧嘩のことや、あと二十年以上も残っている住宅ローンのことや(冬のボーナスから少しでも繰り上げ返済をしておくべきだろうか?)――きっとそんなことを考えているのに違いない。――つい先ほどまでの僕が、トラックを駆け抜ける愛莉の素晴らしい四肢のイメージや、歯を食いしばって追いかける美乃利の大きなおっぱいが揺れるイメージや、去年の夏に初めて訪ねた御堂家の泉美の部屋の記憶や、数日前に初めて訪ねた刀矢家の泉美の部屋の記憶や、それらの制御不能な侵入に抗しきれなかったのと同じように。――ああ、そうだ。僕は美乃利を見るのを忘れていた。けれども美乃利は教室の真ん中の列の前のほうに座っているから後ろ姿しか見えないのだった。すなわちあの大きなおっぱいが揺れる様子を見ることができないのだ。もちろん授業中にそれが揺れたりはしないだろうけれど。
 五限目が終わった短い休み時間、きっとそうしてくれるだろうと期待していた通り、僕は結衣に誘われて図書室に入り、書架の浅いところで向かい合った。
「さっきはどうしたの?」
「なんでもない」
「なんでもなくなかった」
「ほんとになんでもないんだ。たぶん、あれだよ。なんて言えばいいのかな――」
「思春期みたいなやつ?」
「そう、それだ。思春期みたいなやつ」
「さっきお母さんからメッセージがあってね、ピアノ教室の親子面談だから晩御飯が遅くなるって。だから玲央、今日は部活サボってうちにきて」
「僕にはサボるような部活はないよ」
「そうだった。サボるのは私のほうね」
「ねえ、結衣。――あのさ、キスしてもらっても、いい?」
「いま? いまここで?」
「うん」
「いいわよ」
 結衣は淫猥度合を五段階レベルで評価すれば三・七くらいのキスをしてくれた。
「満足?」
「とっても」
「よかった。――でも、本当にどうしたの?」
「わからない。なんだか神様に物凄く腹が立って、それから酷く悲しくなって、最後はすっかり寂しくなって。――だけど今は素晴らしく幸せだよ。問題はなにひとつ解決してはいないけどね」
「私ね、玲央のそういうとこが好き」
「そういうとこ?」
「うん、そういうとこ」
「ふ~ん」
 まったく、「ふ~ん」としか言いようがない。けれども、僕のそういうとことは、今が素晴らしく幸せであるほうではなく、問題がなにひとつ解決していないほうであることは、そこだけは間違いない。そうでなければ、結衣がそれを「好き」だなんて口にするはずがない。結衣のキスが素晴らしく幸せなのは

であり、それは

とは位相が違う。――そういう話を、ここまでずっと

語ってきたつもりだ。
 教室に戻ると僕の机の脇に植草が立ち、座ったまま顔を上げる湊斗と話をしていた。泉美は下を向いて教科書をめくり(またもや)忙しそうなふりをしている。湊斗と話す植草の背中に生徒たちの視線が集まって焼け焦げそうだ。いったいなにが起きたのか、当事者のほかにそれを理解し得たのは、そこへ図書室から戻ってきた結衣と僕の二人だけに違いない。きっとこの週末か、いずれ近々に、僕らはカフェ〈Am-mE(アムミー)〉で顔を合わせることになるのだろう。
 要するに植草真司は新たに今ここで、遠慮なく湊斗に声をかけることのできる五人目の生徒になったというわけだ。御堂泉美、須藤愛莉、栂野結衣、手塚玲央(僕)に続いての五人目である。――ああ、違った。六人目だ。井森加奈を忘れていた。でも井森加奈が僕らと一緒に〈Am-mE(アムミー)〉のテーブルに座ることは絶対にない。そんなこと、結衣が許すはずがない。僕は嫌じゃないけどね。こないだ湊斗に揶揄われて赤面(というか沸騰)していた井森加奈は、ちょっと可愛らしかったし。
 教科書をめくる泉美の手は少し震えているように見えた。人は自分のためにしか――いや、愛する人のためにしか震えない。自分の幸福が相手の手の中に移ってしまえば、誰だって、もはや冷静に、自由自在に、大胆には振る舞えなくなるものだ。
 さて、ここまでで序章が終わり、いよいよここから本編が始まる。退屈な前置きはこれくらいにしておこう。ここに〈稀代の美女・御堂泉美〉の物語がいよいよ幕を開けるわけだ。しかし残念なことに紙数が尽きてしまった。僕もいい加減ちょっと疲れてきた。あともう少し、六限目が終われば、結衣の部屋で素敵なことが待っている。 (了)
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