七日後―02

文字数 10,473文字

 新たに得られた特権の、あの浮き立つような喜び! ……なんてものは、僕らにはなかった。冬休みが始まり、世の中で仕事納めも終わっており、臆病で世間知らずな十七歳の少女と少年には、二人で身を隠せる場所がまったく見つけられなくなっていた。道玄坂を登ればわずか数千円で手に入るではないか?と嗤われるかもしれない。それはわかっている。だけど僕らが欲しているのはそのような場所ではなかった。きっと君はそれも承知して嗤ってるんだろうな。
 最初に僕は「物語は年を越さない。」と宣言した。言明した。実際、「物語」そのものは年を越していない。そう強弁してもいいのではないかと思う。すでに「あとがたり」に移行しているのはおわかりだろう。だけど「あとがたり」において初めて「物語」の真の意味が明かされるなんて、そんなハリウッドの続編映画の宣伝文句みたいなことは僕は言わない。「あとがたり」は「物語」を都合よく書き換えることしかしない。「あとがたり」において真の意味が明かされたように思えるのは「物語」が書き換えられているからに過ぎない。そして同じように「あとがたり」のあとに現れる「あとがたり」が先行する「あとがたり」を書き換えて、「あとがたり」は「物語」に謂わば昇華する。そもそも

「物語」だって泉美が不登校に陥った夏の「物語」の「あとがたり」だった。そして泉美が不登校に陥った夏の

「物語」もまた七年前に〈明神池〉で起きた結衣の「物語」の「あとがたり」だった。そうして「物語」は「あとがたり」による解明を期待し、「あとがたり」は「あとがたり」による解明を通じて「物語」に昇華することを期待し、この運動には要するに終わりがない。なぜ終わりがないのかを詮索してはいけない。そのまま単に終わりのないことだけを素直に受け取るよりほかにない。僕らはそのようにしてしか「物語」というやつを取り扱うことができないというだけだ。
 衆人環視とまでは言わないけれど、いつでもそのような状況に移行可能な環境下にある結衣の部屋も僕の部屋も、自制を強いられる困難な牢獄へと姿を変えてしまった。酷い話だった。そんなことになるとは思ってもいなかった。僕らは年末に沸き立ち新年に浮き立つ街を当て所なく彷徨う、世界から放逐された亡霊のようにただひたすらに歩き続けた。最後はくたびれ果て、なにごとかに根負けするように、結局は数千円でわずかな場所と時間を買う。だけど僕らは言うまでもなく満たされはしなかった。むしろ酷く辱められ、貶められたような気分になった。
「そんな気分なのに

のはどういうわけなの?」
「きっとバイパスしてるか、まだ届いてないんだよ」
「なにが・なにを・なにに?」
「欲動が気分をバイパスしてるのか、気分がまだ欲動に届いていないのか」
「感性が理性から逃げ果せ(にげおおせ)てるか、理性が感性を支配しきれてないか」
「どうしてカント先生?」
「悟性が登場する場面はないの?」
「僕たちになにか理解を妨げるようなものがある?」
「玲央のことが大好きなとっても可愛い女の子がすぐ隣にいる」
「見たまんまだ。間違えようがない」
「そのすっごく可愛い女の子ったら四六時中なんだかうずうずしてるのよ」
「四六時中だとは知らなかったけど」
「それなのに……そのとんでもなく可愛い女の子はこんなところは嫌だって駄々をこねるんだ。僕だって決していいとは思ってないのにさ。ほんと困っちゃうよね」
「誰の真似?」
「先取りしてあげたのよ。――ああ、でも、お年玉がこんなところに蕩尽されてるだなんて知ったら、お祖母ちゃん、きっと卒倒しちゃうわ!」
 まさしくこれは

という形容にふさわしい。なにしろ僕らの渇望は底に穴の開いた鍋のように決して満たされる感じがしなかったのだから。実際、アルバイトもせず親からもらう小遣いで餓えを凌がなければならない僕らには、早急に究極的な解決策を見出す必要があった。しかし二人ともそろってアルバイトを始める気などさらさらなく(そのために働くなんて虚しいからだ)、それに問題が発見されてからまだほんの一週間しか経っていないのだから仕方がないと、今のところ結局は不本意な形ながらも欲動は満たされているわけであり、まだまったく暢気に構えてもいた。
 それにしても、すでに日が暮れる時間だというのに、なんという人の多さだろうか。僕らは道玄坂を下ることはやめにして、神泉から井の頭線に乗った。車両はちょうど真ん中の三両目(前後いずれから数えても)――渋谷も下北沢も明大前も、井の頭線は他路線との乗り換え口が一方に偏った位置関係にある結果、一両目か五両目か知らないけれど、その端っこの車両は、人生において寸暇を惜しむべき使命を負った人間たちですし詰めになる。幸いにも、僕らはそのような「選ばれし民」ではなかった。しかし途中で乗り換えなければならない事情は同じであり、そのような人間がちょうど真ん中の三両目を選ぶ。
 要するに、そのとき、同じように自分たちを「選ばれし民」とは考えていない人間と遭遇する確率が高まっていたわけであり、さらに先方が、ランドマークと呼んでもいいくらいの一八八㎝もの大男であってみれば、僕らのほうで気づかないはずはなかった。見なかったことにしたくなる相手でもなく、思いもかけない取り合わせでもなかったから、僕らはそこで落ち合うことを約束していたかのように、下北沢のホーム上で互いに声をかけ歩み寄ったのである。
「おまえらこんなところでなにをしている?」
 きっとそんな第一声を発するのだろうとは思った。
「あのさ、湊斗――従兄妹だって聞いてたのに本当は兄妹だったとかいう二人組のほうが、どう考えてもその質問を受ける側だと思うんだけど?」
「いいか、栂野――俺たちには親族として果たさなければならない重要な用件が渋谷にあった。が、おまえらにはきっとそんなものはない」
「いやほんと、呆れて二の句が継げないわ」
 結衣のセリフには時々このようなおかしな言い回し――決して間違っているという意味ではない――が紛れ込む。付き合っていられないとばかりに結衣が先頭になって階段を降り始め、「先頭になって」との形容が示すように、そのあとを湊斗、泉美、僕という順序で追った。つまり僕らはこの時点で図らずも四人組となったわけである。十七歳の高校二年生の男女が四人――いやもうまったくどこにもおかしなところなどない。敢えて取り上げてみるとすれば、小田急線の下りホームに降り立つまで、僕らが縦一列になって歩いたのが気にかからないでもない。結衣が牧師、湊斗が葬儀屋、泉美が死者で、僕は墓掘り人というわけだ。――ちょうど五十年前にもそんなことがあったという話を聞いている。
「結衣ちゃん、これ見て」
 電車に乗り込み向かい側のドアの片側に集まると――湊斗がドアの脇、泉美が手すりに凭れ、結衣がひとつめの吊り革、僕がふたつめの吊り革――ロングシートの端で僕らに囲まれた大学生くらいのカップル(特筆すべき特徴のない)は二人ともイヤホンをしてスマートフォンを眺めている――泉美が紙袋から板切れを取り出した。僕には「板切れ」にしか見えない。きっと湊斗にもそうだろう。
「え、可愛い! これドアに掛けるの? てか泉美ちゃんとこって、これ要る?」
「お母さんの部屋だよ。狼が三匹もいるからね」
「あ、泉美ちゃんが使うんだ?」
「そ、週末だけね。インドネシアから輸入したラタンの椅子もあるの」
「セカンドハウス的なやつ?」
「そうそう」
「でもなんでわざわざ狼がいるほうに?」
「本やDVDがいっぱいあるから。インドネシアから輸入したラタンの椅子もあるし」
「インドネシアから輸入したラタンの椅子が重要なのね?」
「本やDVDがいっぱいあったら、インドネシアから輸入したラタンの椅子が要るよね?」
「うん、要るね。入っちゃダメ!のプレートもぜったいに要る」
 その「板切れ」が「入っちゃダメ!のプレート」であることを知った僕は、二人の女の子を挟んで湊斗と視線を交わした。湊斗は明らかに迷惑そうな顔をしている。僕らと出遭った予期せぬ出来事に対してではなく、その「入っちゃダメ!のプレート」が予告している事態を歓迎していない顔だ。しかし幸いにも僕と湊斗のあいだには少女が二人もいて、確かに湊斗にとって景気の良くない話をしているのかもしれないけれど、その可愛らしい(と少なくとも僕の耳にはそう聴こえる)おしゃべりが重たい青銅製の(あるいは軽いポリカーボネート製の)盾となってくれている。僕は湊斗から視線を外し、目の前に座るカップル――二人ともイヤホンをして各々自分のスマホを眺めてはいるが肩から腰に掛けてぴったりと寄り添っていた――の観察に移りつつ、耳では少女たちのおしゃべりを聴いた。指の動きが緩慢なところからも、カップルがゲームに興じていないことは確かだろう。しかし少女たちがいま話題にしているその部屋は、一方にとっては産まれてすぐに引き離された実の母親が過ごしていた場所であり、他方にとっては実の父親を誘惑し(誘惑され?)当時の家庭を崩壊させた女が過ごしていた場所なのだった。見ていると女のほうがちらちらと自分のスマホを傾けて注意を引こうとするのだが、男のほうは

というよりも単に感応が鈍いだけとも思える

とした反応しか見せない。その部屋の主はちょうど一週間前に「狂言自殺」をしくじって(あるいは今度は「狂言」にする考えがなく)一ヶ月ほどの治療の甲斐なく命を落としたばかりだった。よく見れば女は決して化粧が上手いだけとは切り捨て難い容姿の持ち主であって、それだけに男の髪型の不似合いさ加減と言い、バカのように見える口元のだらしなさと言い、がに股に開いた脚の短さと言い、見ているこちらのほうがこの世の不条理を嘆きたくなるような気分にさせられる。従って二人の少女はそれぞれになんらかの屈託を抱えているに違いないと思うのだが、少女たちは主を失った部屋をまるで元より主などいなかったかのように、あるいは主の名も性も生もまったく知らぬかのように、その部屋にどんな家具調度がそろっているかだとか、どんな本やDVDやCDがそろっているかだとか、新しくできた区立図書館の分室の話でもするかのような口振りであることを、僕はさすがに怪しみ訝しまないわけにはいかなかった。そうして見られていることをふと女のほうに気取られてしまい、逃げ遅れた僕はまず女の視線を、つづいて男の視線を無遠慮な感じで受け止めなければならなかった。ところが男の視線は長く僕の上にはとどまらず、すぐに隣りに並ぶ二人の少女たちへと無遠慮な様子のままに移動した。なにしろ僕の隣りに並ぶ少女たちは、学年一とも謳われる美少女と高校生とは思えないほどの美人である。男の眼差しがそこで落ち着きなく泳いでしまったのは無理もない。ほぼ同時に少女たちも男が顔を上げて自分たちを見ていることに気づき、二人が思わず顔を見合わせたところ、一八八㎝の大男が美人のほうの腕を取って歩き出し、数珠つなぎに引っ張られるようにして、美少女のほうもなにを思ったか僕の腕を引き、そのまま四人そろって大男の家の最寄り駅に降り立ってしまったのだった。
「どうしてここで降りたの?」
 電車がホームを離れるまで、僕ら四人は降りたその場所に突っ立っていた。……そう思ったのだけれど、突っ立っていたのは僕ひとりだけであり、残る三人はどうして僕が突っ立ったまま歩き出そうとしないのか、首を捻りつつ足を止めたのに過ぎなかった。
「みんなで湊斗の家にお邪魔してから〈Am-mE(アムミー)〉で晩御飯食べることにしたでしょ?」
「え、いつの間に?」
「玲央、聞いてなかったの?」
「この男は目の前に座る女をなにやら熱心に検分していたからな」
「ちょっと、それってどういうこと!?
「だって結衣も最後に見ただろう? この世の不条理の象徴みたいな組み合わせをさ」
「そこからなにか世界の謎のひとつでも解明できたって言うわけ?」
「そんなことは言わないけど」
「だったらあとで自分の顔をじっくり鏡に映して見たほうがいいわよ」
「……そうか。僕はそれであの二人が気になったのか」
 僕は髪型をおかしな具合に細工したりはしていないし、バカのようにだらしなく口を開けてしまう癖を指摘されたこともなく、がに股でもなければ脚の長さも標準的だと思うけれど、もちろん問題はそんなところにはない。結衣は自分の顔をじっくり鏡に映して見たほうがいいと言ったけれど、隣りに結衣も一緒に映ってもらわないことには、それは意味ある行為にはならないだろう。歩き出した三人に置いて行かれそうになりながら、それでも僕は追いつこうと足を速めることもなく、この世の不条理とも呼ぶべき事態が、まさに僕自身の上に顕現されている可能性の高さを測ろうとしていた。
 湊斗の家は商店街を抜けた先の路地を入ってすぐのところにあった。途中で〈Am-mE(アムミー)〉の前を通り過ぎるとき、あとで四人でやってくることを、湊斗が叔母の真奈美さんに伝えた。明日、真奈美さんの小学生の娘さんの冬休みの宿題を見てくれるなら御馳走すると言われ、いったんカフェに入った湊斗がドアから顔を出してそれを伝えると、午前中に結衣と泉美が二人で請け負うと約束した。ふたたびカフェに入り交渉を成立させて戻ってきた湊斗は、泉美では心配だけど結衣がいるなら安心だと、明らかに余計なことを口にした。言っても小学生の宿題である。泉美に務まらないはずがない。
「いいだろう、泉美、あとで漢検五級の問題を解いてみろ。小学校卒業レベルだ」
「え!? 私、漢字はちょっと……」
「ほらな? だから明日は栂野に任せておけ」
「それで湊斗はなにしてるの?」
「あの人の蔵書目録を作る。やっぱりあの部屋で週末を過ごすことにしたんだろう?」
「うん、そうする。…あ、そうしてもいい?」
「おまえが決めたのなら文句は言わない。ただし、俺の邪魔はするな。自分ですべて解決しろ」
「ケチ……」
 どこかで話したかどうか忘れてしまったので触れておくけれど、湊斗の家に学校の人間が上がり込んだことはこれまでになく(むろん泉美は除いて)、僕と結衣が初めての客人となったわけだ。お兄さんの隼斗さんと弟の優斗くんとは――それに湊斗の父親にも――僕らは一週間前に病院の待合室で顔を合わせている。
 この日の僕と結衣の訪問は(はっきり言ってしまえば結衣の訪問は)驚嘆をもって迎えられた。あとで湊斗から聞いたところによると、週末に泉美がここで過ごすと聞いた時点で、すでに刀矢家にはいくらか落ち着かない空気が漂い始めていたそうであり、そこにいま泉美が戻ってきたばかりか結衣までもが一緒に現れたことで、このときの刀矢家はもはや祝祭的とも呼ぶべきあの祭りの前夜の昂揚に満ちたステージへと引き上げられたらしい。男三人兄弟というやつは、そのようにわかり易く、かつ御し易いという話を僕は今しているんだよ。
 僕らは食事の支度に取りかかっていた刀矢家の三人(湊斗の父親と兄と弟)に挨拶をして、そのまま二階に上がり、湊斗と泉美の母親が使っていたという南東向きの洋室へと案内された。湊斗がドアを開け、泉美がまず中に入り、結衣は僕の肘をつかみながら一緒に足を踏み入れた。泉美が廊下から弟の優斗くんを大声で呼びつけ、ドアにつけるフックがないかと尋ね、バタバタと階段を上り下りしてどこからか粘着テープで取りつける白いフックを見つけてきた優斗くんは、ドアの中央にそれを取り付けると、泉美からありがとうと言われて顔を赤くしながら姿を消した。泉美はそこに買ってきたばかりのプレートを「使用中」または「入室中」を示すウサギのイラストを表にして掛けてから、ドアを閉めた。
 長方形の部屋の北面の西側の端のドアから入ると、正面となる南面の窓とその前に置かれたラタンの安楽椅子、左奥の東面の窓とその前に置かれたベッド、そして左手の北面の壁には奥から洋箪笥と書棚が並び、目の前の右手の西面の壁には左右をDVDやCDを入れる細長いラックに挟まれた大きなテレビとDVDプレイヤー、そしてステレオコンポがある。毛足の長い深いグリーンのカーペット、白地に赤と黄色のデザイン的な蔓性植物を配した遮光カーテン、壁や天上は白、ベッド周りは淡い赤紫、なんの変哲もないシーリングライト、林の中を馬の親子が歩いている一枚の版画――見る側で勝手に解釈させてもらうなら、母と小さな娘になる馬の親子だ。
 僕は結衣に言われた通りここに大きな姿見を期待して探したのだが、入り口に立って見回したところそれらしきものは見当たらない。きっとクローゼットの扉の内側にあったりするのだろうけれど、稀代の美女とも聞いていた女の部屋にわかりやすく姿見が置かれていないことに、いささか虚を突かれた感は否めなかった。問い掛ければ忖度なく「あなたです」と答えてくれただろうに。
 結衣は部屋に入ってきたときのままに僕の肘をつかんでいる。泉美がラタンの安楽椅子に身を沈めた。湊斗は書棚の検分に取りかかっている。僕は結衣の顔を見た。結衣が僕の顔を見ているのがわかったから。結衣はくるりと泉美に背中を向け、僕の腕の中に潜り込んだ。僕の腕が回しやすいように滑り込んだ。結衣の頭の右側から安楽椅子に腰掛ける泉美と目が合った。左手にいる湊斗の様子は窺えない。葬儀は十二月三十一日に親族のみを集め一日葬で終えているはずだった。小さく微かに始まった結衣の嗚咽が小さく微かなままに続いている。この部屋で結衣は誰のために、あるいは何のために泣くのだろう? 故人のためにか、失われた家族の風景のためにか、それともあの日の明神池で終えるはずだった十歳の女の子の未来のためだろうか? 泉美が不思議そうな顔をしている。それを「不思議そうな顔」と見るのは僕の理解が及ばないせいだ。僕が今この状況を不思議なものと感じているせいだ。安楽椅子は泉美には大き過ぎるらしい。背中や脇を大きめのクッションで埋めたほうがいい。結衣の髪の匂いが、首筋にあたるあたたかな吐息が、押しつけられる小さな胸のふくらみが、落ち着かずに動く背中の手が、抑制不能な勃起を惹き起こして行く様を、僕は誰か自分のものではない生き物のみっともない振る舞いを嘲笑うかのように放置した。もしもいま泉美と湊斗が部屋を出て僕と結衣を二人きりにしてくれたなら、僕は間違いなく結衣をこのまま一週間前に亡くなった人のベッドへと誘うだろうと思った。その様子を想像してしまい、僕の勃起は確かな欲情を伴う意志を持ち始める。そうだ――僕らはそのための誰にも邪魔されずに過ごせる場所をこの一週間ずっと探して歩いていたのだ。でもここはそこではない。ここは泉美のための場所だ。泉美がここでなにをするのか知らないけれど、ドアに「入っちゃダメ!」のプレートを掛けて、三人の兄弟の気配を感じながら、亡くなった母親のベッドの上で、あるいは自慰に耽るのかもしれない。生きている人間の、生き残った人間の、それも若い十七歳の肉体で、謂わば凱歌を奏するように。
 結衣の体が離れた。じっと僕の顔を見て、手だけはまだつないだままでいる。思いがけず速やかに僕の勃起が鎮まって行く。結衣はそれを待ってくれている。泉美にそれを見せたくないから。泉美のためにではなく、僕のためにでもなく、結衣自身のために。やがてすっかり首が下に降り切ったところで、結衣は僕の唇に

キスをしてから、握っていた手を離し、泉美を振り返った。
「泉美ちゃん、その椅子ちょっと大き過ぎるね」
「うん。でもいいの。私は女王様じゃなくて王女様だから。ちょっと大きいほうが可愛いでしょ?」
「いつ即位するの?」
「即位はしないわ。刀矢の男の子たちは、女王様に(かしず)くより、王女様にドキドキしていたいのよ」
「わかるような気がする」
「玲央はわかっちゃダメ」(え、どうして?)
「ダメって言われても……」
「あなたは刀矢の男の子じゃないでしょう?」
「まあ、確かにそうだけど」(だから、どうして?)
「湊斗はなにしてるの?」
「R18指定の本を取り除いておく」
「え、なんでそんなことするの!?」(泉美が跳び上がった)
「おまえはまだ十七だからな」
「あと半年ちょっとで十八だよ」
「それまでは俺が預かっておく」
「湊斗も一緒じゃん! 誕生日一緒じゃん!」
「俺はおまえの兄だ」
「こんなときだけ〈兄〉を持ち出さないでよ!」
「亡き女王から言付かっているんだよ」
「嘘だよ! 私そんなの聞いてないもん!」
「おまえもしかしてそいつを期待してこの部屋にくるとか言い出したのか?」
「ち、違う!」
「ははあ、なるほどそれで『立入禁止』のプレートが必要になるというわけだ」
「違うったら!」
 思わず安楽椅子から立ち上がった泉美だったが、その抵抗も虚しく、なんでこんなものがあるかなあ…とか呟きながら、湊斗はたとえば『ブリキの太鼓』、『ロル・V・シュタインの歓喜』、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』、『存在の耐えられない軽さ』、『アーダ』、『百年の孤独』までをも次々と書棚から引き抜きベッドの上に放り投げて行く。すなわち、それらをR18指定だと断定する知見を湊斗は有しているわけであり、泉美と同じ日に生まれたはずの湊斗がすでにそれらを読み終えていることは明白であるにもかかわらず、しかし泉美からはなぜか取り上げられてしまい、だから泉美は呆然の体でベッドの上に乱雑に散らばったこの上なく魅惑的な書物に魅入られている。僕もマルケス、グラス、ナボコフ、クンデラは読んでいるけれど、それらをR18指定だと断定する根拠がどこにあるのかわからない。湊斗はきっと「世間知らずの可愛い妹」なるイメージを、一方的に泉美に押しつけようとしているのだ。
「再審を請求したい!」
「一冊ずつなら吟味してやろう。どれが読みたいのか言ってみろ」
「え? ああ、う~んと、ちょっとそれは、あとで……」
 逃れるように(なにから?)結衣の手を取って泉美が部屋を出た。湊斗との騒々しいやり取りが始まる前に、泉美は結衣の泣いた顔を見ているのであり、二人は階段を降りて洗面に向かったのだ。…という程度の、大きく外れる心配のない想像が、このところ僕にもようやく身についてきた。こうした想像能力の経験的獲得は、どうしたんだろう?なにをしてるんだろう?僕のせいだろうか?といった類いの、不毛であるにもかかわらず精神的に大きく疲弊する状態に陥る事態から、僕らを救ってくれるものだ。肝要なのは、想像の正否を確かめないことである。それをやるとプルースト的消耗に突入し、やがて僕のアルベルチーヌたる栂野結衣の失踪を促す結末へと至る。マルセルはそれを抑制することができなかった。その不毛な消耗戦に延々と付き合わされる覚悟をもって臨まないと、そしてその

を皮肉にかつ自虐的に愉しむ心持ちを抱けないようでは、結局は「ゲルマントのほう」の途中で挫折することになる。公爵夫人のサロンで辟易しているようでは、とてもじゃないが「ソドムとゴモラ」に、そして「囚われの女」に耐えられるはずがない。
「栂野はなぜ泣いた?」
「僕は三つ考えた」
「教えてくれ」
「崩れ去ったあの日の家族のために、生き残ってしまった自分のために、この部屋に暮らしていた人の魂のために」
「詩人だな。どれも正解だろう。ひとつに絞り込む必要はない」
「だけどもうひとつ問題がある。「立入禁止」のプレートに関わるやつだ。――ねえ、湊斗。変なこと訊くけど、愛莉とはいつもどこでしてる?」
「あいつの部屋だよ。両親とも七時前に帰ることがない」
「一人っ子だっけ?」
「なるほど、そいつはご愁傷様なことだ。しかし図書室ではキスまでにしとけよ」
「ほんとに困ってるんだよ」
「恐らくだから高校生には推奨されないんだろう」
「一日中していたいし、場所さえあればきっとできてしまう」(僕はなにを言っているのだ!?
「道理で地上に人類が溢れ返るわけだ」
「解決策が見当たらないんだよ」
「答えのない問いなんて山ほどあるぜ。たとえば貧困の撲滅、戦争の放棄、犯罪の――」
「他人の不幸を愉しまないでくれ」
「ボレロでも流してみたらどうだ? あれは音量と興奮とがうまい具合にシンクロしつつ高まって行くと言うぞ」
「真面目に言ってる?」
「栂野がよほどデカい声でも出さなければバレやしない」
「なんの話!?
 二人は本当に洗面所で顔を洗うくらいの時間で戻ってきたのだった。
「会話の最後だけを聞き齧って想像を膨らませると思わぬ怪我をするのは知ってるだろう?」
「だからなんの話?て訊いてるの!」
「泉美、栂野もそれとおんなじプレートが欲しいそうだ。買った店を教えてやってくれ」
「うちじゃこんなの意味ないし」
「栂野、よく聞け。こいつには特別な(まじな)いがかけてあってだな、俺以外の人間にはドアを開けることができなくなるんだよ」
「湊斗も開けちゃダメだよ」
「ん、そうなのか?」
「湊斗が『鍵をかけるな』て言うから買ったんじゃない。開けちゃうなら鍵かけるよ」
「わかった。――栂野、よかったな」
「なにが?」
(まじな)いは例外なく効くらしい」
 湊斗に殴りかかろうとする結衣を――殴った手のほうが壊れてしまうはずだから――僕と泉美は全力で押しとどめた。同席しているのが泉美でなく愛莉であれば、この問題はきっと〈Am-mE(アムミー)〉に場所を移してからも、徹底的に議論・検討が尽くされたことだろう。ひょっとするとなんらかの結論を得られた可能性だってあったかもしれない。しかし残念ながら泉美にはまだ問題の所在に関する具体的・実際的・経験的な手触りというやつが決定的に欠けていた。マルケスやナボコフをR18指定されてしまうくらいに。――ああ、そうか。いずれも近親婚に触れられているからか。
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