第3章 2

文字数 3,094文字

 三月一日。内々定を一つも持たずに、表向きの「解禁日」がやってきた。三社ほど就職説明会をはしごし、疲れ切って家に帰った。この日、瑠奈は大手電機メーカーで内定を貰った。増尾はH市に戻って「ちんけなスーパー」の正式な内定を貰い、四月第二週の履修登録まで東京には戻らないとLINEで僕に告げてきた。
 杏は父親のコネを使って大手住宅設備会社の子会社で内定を貰った。杏は父親から条件を突き付けられた。マンガを売ったりWEBにあげたりしないこと。二月に、高校の友だちで飲んだ時、杏は荒れていた。
「魂をさ、売るか売らないかっていう決断だったんよ」
「結局、売ったんだろ」
「売ったよ、売った。わたしさ、なんでマンガ描いてるのか、ちょっと分かんなくなったのもあるし」
「あれか。BLか」
「流行りに乗ってプチでいいからブレイクしないかなと、浅はかにも思った。本気のBL作者たちに失礼だったよ。もう黒歴史でしかない」
 杏は大袈裟に居酒屋のテーブルに突っ伏した。
「所詮、わたしのマンガは趣味の域か」
「それ、杏が決めることじゃないよな」
「子供の頃からずっと描いてきて、高校からは同人誌作って売ったり、WEBで発表したり、雑誌に投稿したり、まあ、出来る限りのことはやってきた。でも全然売れんかった。つまりは、わたしが決めたんじゃない。世間が決めたんだよ。要は、その事実を自分が認めるかどうかって話だ。嫌だ嫌だってぐずっていた。就活ってタイミングがあって、パパのコネっていう餌があって、とどめはあれだ、例の黒歴史本。なぜかパパが入手してて、で、リビングのテーブルに、主催者にNG出された例のシーンのページを広げて置かれてさあ。しかもその置き方がいかにもパパなんだけど、ドンって置いて、お前なにやってんだあ! みたいな、ドラマみたいな展開じゃなくてさ。すっと置いて、しずかーな感じでわたしを見て、で、『どうかな。もう、これでいいんじゃないかな』って言いやがった。『会社に就職すれば、エロじゃなくてもマンガとか表に発表するのは、しばらくの間はどうかな。描くなとは言わないけど、そこ守ってくれれば、どうだろう、この会社』って」
「それ、宜しくないな」
「宜しくないんだよ。まったく宜しくない。こんなふうにアプローチされたら、『うるせえ!』とか、いや、うちだったら、『パパの言うとおりには生きない!』って感じかな、とにかく、そんなふうに反撃できないじゃないか」
「――出来ないな」
「パパに見透かされてるんだよ。わたしがどっかで、ここまでだな、もう、いいな、って思い始めてたことを。さっきは魂を売ったって言ったけど、だから違うかもしんない。魂は、もう死んでたんだ。老衰だ。ろくに、葬式も出してやれずにさ」
 杏はしんみりとなって、日本酒をコップから啜った。

 三月一日が過ぎ、そこからはもう毎日が潮が引いていくようにするすると過ぎていき、引き続き内定は取れず、恐ろしいことに会社訪問のスケジュールが入らない暇な時間が増えていった。やがてそれは暇な日になり、そういう日が続くようになった。時刻が、日にちが、過ぎていくのが恐怖でしかなかった。
 家にいても息が詰まるだけなので、控えていたバイトを再開した。赤坂のはずれにある、料亭とはまで言えないちょい高級な割烹の皿洗い。以前から月に数回以上はバイトに入っていた店だ。時給はまあまあで、接客みたいに気を使うことなく、でも雑にやるとやり直しにされるのであくまで手は抜かず、ただひたすら皿を洗う。無になれる感じがする。――座禅組んでるわけでもなく、ホントに無になっているわけじゃないけど。それでも気分だけは。
 さっきまた、「クマの子」からリプがあった。近頃、僕と「クマの子」は、Xとそのリプではなく、ダイレクトメッセージで対話を、かなり訥々とだけれど、少しずつだけれど、重ねているのだった。
 始めは僕が、小学生に言って聞かせるみたいに、就活について書いていた。そこから少しずつ話題が拡がっていった。「クマの子」は家が農家らしく、一面に広がる畑の朝の美しさを書いてよこしたことがある。「冷たい朝、霧の中を太陽が昇ってきます。とてもきれいです」。あるいは、庭先の林檎を食べた話。「冬にはリンゴがなります。商品じゃないので、もいでみんなで食べます。鳥もねらっています。食べられないように、いろいろ工夫します」。農作業の話。「みんなで並んで箱につめます。社長がいない時は歌をうたいながらです」。「クマの子」も手伝っているのだろうか。東京と同じ日に「クマの子」のところでも大雪が降った。関東かその近県なのかもしれない。「雪です、雪です! すてきです!」。子供らしい、はしゃぎぶりだ。「みんなで小さい雪だるまを作りました」。初めて写真が貼付されてきた。ホントに小さな雪だるまだった。仔猫くらいの大きさ。
 「クマの子」のSNSのことを思い出しつつも、皿洗いの手はずっと動いている。この割烹は高級を自称しているだけあって器は基本的に食洗機NGだ。とにかく次々に凝った感じの食器が運ばれてきて、僕はひたすらそれを手で洗い続ける。「クマの子」が送ってきた雪だるまや霧の朝や、そんなことをもやっと思い出し、情景を想像しながら洗い続ける。
 「クマの子」の住む農村は、文面からは良さそうな場所に思える。ユートピアみたいにイメージされる。分かっている、そんな良いだけの場所なんか、あるはずがない。でもまあ、いいじゃないか。「クマの子」は文句や愚痴は一切書いて来ない。美しいと思ったもの、きれいと感じたものだけ、送ってくる。そもそもは僕の就活アカ、文句と愚痴と呪詛にまみれた呟きから始まったのに、そこに付く意味のないトートロジーみたいなリプから始まったのに、いつのまにか質問と回答みたいになり、そして「クマの子」は汚染された僕を浄化してくれているかのように清らかなのだ。折角そうしてくれているのだから、僕はただ、それをそのまま受け入れていればいい。

 十二時近くになり、皿洗いの仕事がようやく全部終わった。終電までそんなに時間がない、と焦りながら店の従業員口を飛び出す。
「おっそい!」
 そこに、木南さんがいた。桜が散った後ではあるけれど、まだ「花冷え」という感じでひどく冷え込む夜だった。木南さんの寒そうにしている様子から、随分待っていたという気配がした。
「え?」
「遅いよ、山崎くん」
「ってか、何で?」
「あたし、今日、ホールでバイトに入っててさ、洗い場に山崎くんがいるの見つけたんだ。ここ、動線があれだから声掛けらんないけど、待ってれば出てくるって思ってたんだけど、遅い!」
「すんません」
 久々のポジティブ・サプライズ。論理的には謝るところではないけれど、世渡り的には謝るところだ。
「あのさ、あたしさ、今度、ちゃんと台詞のある役がついたんだ。今日、決まったって助監督からメール連絡もらって、で、誰かとお祝いしたかったんだけど、ほら、ホールのバイト入ってたし、そしたら山崎くん見つけたからさ、だから拉致しようと思ってずっとここで待ち伏せしてたんだよ」
 そういうことなら終電云々で断るわけにもいかない。
 どうせ明日も面接の予約はない。ホントはこんなことやってる場合じゃないんだろうけど。でも、エントリーシートはずっと出し続けているし、もうどうすればいいのか分からない。
「おめでとうございます! それはもう、お祝い、とことん行きましょう!」
 僕はそれで、まったく予想していないタイミングで、木南さんとツーショット飲みをすることになったのだ。
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