第8章 1
文字数 1,988文字
いつも冷静で客観的に物事を見ていて、いわゆる「大人」だからこそ、強気に行きそうでいても実は無茶なことや強引なことはしない。それが杏だった。それなのに、この段階での内定辞退に就職中止。しかもコネなのに。ここまでど真ん中から突破するとは。話を聞いてもう三日も経つのに、いまだ衝撃冷めやらない。
僕は赤坂見附駅で降りると、しばらく歩いてから角を折れて坂を上っていく。バイト先のいつもの割烹までの道すがら、杏とのやり取りを思い出していた。
杏は、既に自分で内定先の会社に行って丁寧に詫びを入れていて、父親はただ呆れるだけだったそうだ。杏は「けじめだから」と家を出るのだと言う。「バイト増やして先輩とルームシェアすれば何とかなりそうだし。絵を活かしてのバイトもみつけたんだ」。新生活の準備をぐいぐい進め始めている。
杏は言っていた。
「マンガの上達にもなるし、普通に絵も描き始めたよ。今更だけど。キャンバス張って。絵具買ってきて。実際に、アクリル絵の具をキャンバスに置いてみて、よく分かった。わたし、思っていた以上に絵も好きみたいだ。今度、描けたらみせる」
「杏、おめでとう、だな」
と僕は言い、杏と握手をしてきたけれど、もちろん一人になるとすぐに、「じゃあ、俺はどうすんだよ」がやってきた。どうにもする宛てはなかった。僕はただ、流れで決まった会社に就職して社会人になる。
今日のバイトのシフトは早番で、午後三時から八時まで。このところドラッグストアのレジのバイトが中心になっていて、割烹は久しぶりだった。割烹に着いて、裏手の小さな従業員口から中に入る。シフトが始まる一〇分前。木南さん、来てないかな、などとちょっと思う。もうずっと会っていない。たぶん、一カ月以上になる。
男子更衣室に向かう途中、
「あれ? 聞いてない?」
ホールのパートさんたちが話す声が耳に入ってきた。
「何? 木南ちゃん、どうかしたの?」
木南さん?
僕はさりげなく立ち止まり、聞き耳を立てる。
「お母さんが倒れて大変らしいよ」
パートのおばちゃんが続ける。
「脳梗塞みたいなこと言ってたかな。助かるかどうか分かんないって。二週間くらい前かなあ。だから、もうバイトに来れないかもしれないって。ほら、木南ちゃん、母一人子一人でしょ」
母親が倒れた。脳梗塞。生死不明――。
木南さん、今度の映画はちゃんと台詞のある役だって張り切っていたのに。どうしただろう。ビールを飲み続ける彼女、くつろぎつつ、淡々としつつ、でもしっかりと嬉しさが滲んでいた様子が浮かぶ。収録、終わったんだろうか。
いや、それどころじゃないのか。母一人子一人で母親の面倒を見る人が誰もいないのなら、それはつまり、実家に戻らないといけないということだ。つまり、もう二度と会える機会が無いのかもしれないってこと、なのか?
僕は木南さんのアパートで二人、夜を過ごしもしたけれど(何も無かったわけだけれど)、それでも彼女の実家の住所なんて知らない。繋がっているのはSNSだけだ。木南さんが実家に戻り、SNSも止めてしまったら、繋がりは消滅する。
パートさんたちの噂話が終わり、僕は更衣室に入った。細いロッカーを開け、ダウンジャケットをかける。木南さんとの記憶が走馬灯になって回る。大学に入ってすぐのバイトで言葉を交わしているから、もうすぐ四年だ。実はそれなりに長い付き合いなのだ。
店の制服をはおってしまってから、ロッカーを閉めずにスマホを取り出した。そういえば木南さん、このところSNSに全然ポストしていなかったなと思い出す。確認してみると、パートさんたちの言っていた通り、最後のポストは二週間以上前だ。そこから途絶えていた。
ダイレクトメッセージを開く。何か、言葉を送りたいと思う。けれど、何て送ればいいのか、浮かんでこない。もし切羽詰まった状況なのだとしたら、却って迷惑かもしれない。間違った語彙を選択したら、怒らせてしまうかもしれない。傷つけてしまうかもしれない。変なことになってしまうかもしれない。ここは少しの間は様子を見た方が良いのかもしれない……。
ってこれ、もし、ボンだったら? ボンだったら迷いなんかしない。迷わずに、ただありのままに、でもしっかりと同じ高さの目線で向き合って、言葉をかける。
僕はいつもいつも思っていた。ボンのように、出来たらって。
たとえば、今。
もう、シフトに入るまで、数分もなかった。でも、気の利いた言葉なんて、何も浮かばなかった。
せめて、バイト終わってからでいいんじゃね? と、日和りかける。
いやいや、今だ。今やるんだ。ボンなら、そうする。
僕はダイレクトメッセージに短く書く。
「お母様の話聞きました。出来ることがあったら何でも言ってください」。
それを送信してスマホをロッカーに放り込み、更衣室を出て洗い場に入った。
僕は赤坂見附駅で降りると、しばらく歩いてから角を折れて坂を上っていく。バイト先のいつもの割烹までの道すがら、杏とのやり取りを思い出していた。
杏は、既に自分で内定先の会社に行って丁寧に詫びを入れていて、父親はただ呆れるだけだったそうだ。杏は「けじめだから」と家を出るのだと言う。「バイト増やして先輩とルームシェアすれば何とかなりそうだし。絵を活かしてのバイトもみつけたんだ」。新生活の準備をぐいぐい進め始めている。
杏は言っていた。
「マンガの上達にもなるし、普通に絵も描き始めたよ。今更だけど。キャンバス張って。絵具買ってきて。実際に、アクリル絵の具をキャンバスに置いてみて、よく分かった。わたし、思っていた以上に絵も好きみたいだ。今度、描けたらみせる」
「杏、おめでとう、だな」
と僕は言い、杏と握手をしてきたけれど、もちろん一人になるとすぐに、「じゃあ、俺はどうすんだよ」がやってきた。どうにもする宛てはなかった。僕はただ、流れで決まった会社に就職して社会人になる。
今日のバイトのシフトは早番で、午後三時から八時まで。このところドラッグストアのレジのバイトが中心になっていて、割烹は久しぶりだった。割烹に着いて、裏手の小さな従業員口から中に入る。シフトが始まる一〇分前。木南さん、来てないかな、などとちょっと思う。もうずっと会っていない。たぶん、一カ月以上になる。
男子更衣室に向かう途中、
「あれ? 聞いてない?」
ホールのパートさんたちが話す声が耳に入ってきた。
「何? 木南ちゃん、どうかしたの?」
木南さん?
僕はさりげなく立ち止まり、聞き耳を立てる。
「お母さんが倒れて大変らしいよ」
パートのおばちゃんが続ける。
「脳梗塞みたいなこと言ってたかな。助かるかどうか分かんないって。二週間くらい前かなあ。だから、もうバイトに来れないかもしれないって。ほら、木南ちゃん、母一人子一人でしょ」
母親が倒れた。脳梗塞。生死不明――。
木南さん、今度の映画はちゃんと台詞のある役だって張り切っていたのに。どうしただろう。ビールを飲み続ける彼女、くつろぎつつ、淡々としつつ、でもしっかりと嬉しさが滲んでいた様子が浮かぶ。収録、終わったんだろうか。
いや、それどころじゃないのか。母一人子一人で母親の面倒を見る人が誰もいないのなら、それはつまり、実家に戻らないといけないということだ。つまり、もう二度と会える機会が無いのかもしれないってこと、なのか?
僕は木南さんのアパートで二人、夜を過ごしもしたけれど(何も無かったわけだけれど)、それでも彼女の実家の住所なんて知らない。繋がっているのはSNSだけだ。木南さんが実家に戻り、SNSも止めてしまったら、繋がりは消滅する。
パートさんたちの噂話が終わり、僕は更衣室に入った。細いロッカーを開け、ダウンジャケットをかける。木南さんとの記憶が走馬灯になって回る。大学に入ってすぐのバイトで言葉を交わしているから、もうすぐ四年だ。実はそれなりに長い付き合いなのだ。
店の制服をはおってしまってから、ロッカーを閉めずにスマホを取り出した。そういえば木南さん、このところSNSに全然ポストしていなかったなと思い出す。確認してみると、パートさんたちの言っていた通り、最後のポストは二週間以上前だ。そこから途絶えていた。
ダイレクトメッセージを開く。何か、言葉を送りたいと思う。けれど、何て送ればいいのか、浮かんでこない。もし切羽詰まった状況なのだとしたら、却って迷惑かもしれない。間違った語彙を選択したら、怒らせてしまうかもしれない。傷つけてしまうかもしれない。変なことになってしまうかもしれない。ここは少しの間は様子を見た方が良いのかもしれない……。
ってこれ、もし、ボンだったら? ボンだったら迷いなんかしない。迷わずに、ただありのままに、でもしっかりと同じ高さの目線で向き合って、言葉をかける。
僕はいつもいつも思っていた。ボンのように、出来たらって。
たとえば、今。
もう、シフトに入るまで、数分もなかった。でも、気の利いた言葉なんて、何も浮かばなかった。
せめて、バイト終わってからでいいんじゃね? と、日和りかける。
いやいや、今だ。今やるんだ。ボンなら、そうする。
僕はダイレクトメッセージに短く書く。
「お母様の話聞きました。出来ることがあったら何でも言ってください」。
それを送信してスマホをロッカーに放り込み、更衣室を出て洗い場に入った。