第4章 1

文字数 4,349文字

 六月になり、歳時記通りに雨が続いた。就活の面接もこの雨のようにひっきりなしに降って来ればいいのだけれど、逆だ。就活の雨は日照り続きになっていく。そのうち、もうどうでもよくなってくる。そのくせ僕は、木南さんのように完全に振り切った生活に向かうことも出来はしない。だから、日照りの中で気まぐれな俄か雨的に訪れる面接の機会には、いそいそと出掛けていく。そしてたいていは、もはや面接のさいちゅうから、あー、何か違ったなあ、これ、ないなー、と思う。こっちが思っている以上に向こうも「ないなー、この男は」と思っている。だから落とされる。その繰り返しだ。
 結局はバイト。木南さんとは、例の割烹で、あるいはセールス・プロモーションのブース設営で、引き続き時々顔を合わせる。映画で台詞を貰っても木南さんは変わらない。そうして毎日が淡々と繰り返し、卒業後の行先が決まらないままに僕の大学生活の残り日数が溶けていく。

「S水族館に行きたい。みんなで行きたい」
 言い出したのは瑠奈だった。僕と杏と瑠奈、三人のグループLINEで伝えてきた。そこはボンとの思い出の場所だ。ボンは水族館が好きで、僕たちの高校からのアクセスが良いS水族館には四人でよく行った。瑠奈からのLINEにはこう綴られていた。
「ボンのお気に入りだった水槽の前で、就職の報告をしようと思う。大丈夫だと報告したい。もう過呼吸も何年も出てないし、危ない感じにもならなくなったから」。
 瑠奈の自己診断と僕や杏からみた状況には若干の差があった。けれど、それでもボンが死んだ直後に比べれば随分と安定してきているし、ベクトルも改善方向を向いているように思えた。
 当日もやはり雨が降っていた。静かなしとしとが街を埋め尽くし、時に雨量が増してざあざあと音をたて、しばらくするとまたしとしとに戻り、止まない。待ち合わせ場所は、あの頃と同じ駅ビルの書店にした。そこに瑠奈は、なんとリクルート・スーツで現れた。
「瑠奈、なんだそりゃ」
 呆れた声を出した杏に、
「今日はほら、私的には正式報告、ご挨拶だから」
 瑠奈は大真面目だった。
 ああ、そうだよなと、僕は思う。瑠奈はだいたいがいつも大真面目だ。そして、やっぱり瑠奈はボンのことが好きで、今でも、というか、もしかしたら今の方が好きなくらいで、僕は敵わない。僕も瑠奈が好きで、ただあの頃、そういう瑠奈やボンと一緒にいることもまた好きだった。嫉妬などなく。あれは、あの日々は、いったい何だったんだろう。僕の中に、何が起きていたのだろう。
 水族館の中に入ると、僕たちは黙りがちになった。僕がそうであったように、瑠奈も杏も、ボンのこと、ボンとの時間のことを、それぞれに思い出していたんだと思う。雨の平日、水族館は人もまばらで、この空間自体もまた水で満たされているみたいだった。
 僕たちは、海月の水槽の前まで来る。ふわふわ漂う薄桃色の海月がボンのお気に入りだった。
「不幸の見本市なんだよ」。僕とボン、二人だけのタイミングでのことだったと思う。ボンは僕にそう語りだした。ボンの父親はバリバリの経済系弁護士で、母親はそれとほぼ真逆の人権系弁護士だ。母親の方は、特にDVや虐待の事件については、単なる弁護士の枠を超えて活動している人だった。
「母が、被害にあっていた女の人や子供たちを家に連れてくることもあってね。いろいろ見たよ。タバコの火を押し付けられた跡。ゆうに、千度に達するというよね。他にもいろいろ。ねえ亮ちゃん、どうしてこんなに酷いことが行われるんだろうね。みんなで守らなくてはならない弱い人たちが、一番、暴力に晒される。むきだしの。残酷な。だからかな、ここに来ると安らぐ。水族館の水槽の海月たち。ほら、万全の体制で守られているじゃない。そりゃね、ここは人工的な場所で本来いる場所じゃないよね。でも、たとえ偽の環境だったとしても、海月たちは適温に調整されたここの海水に安らかに抱かれている。それでふわふわ安心して漂っている。――海っていいよね。もちろん、実際の海の中は壮絶な弱肉強食だ。それでも海っていいなと思う。空気よりもしっかりとした実体あるものに抱かれているから。空気じゃ、不安だよ。手触りがなくて、みんな、不安になる。生物は陸になんか上がって来なければ良かったんだよ」
 瑠奈は頼りなさげな海月たちの前に、随分と長い間、佇んでいた。海月の向こうのボンに、まさに今、報告しているんだろう。
 僕もボンには言いたいこと、というか相談したいことが山積みだ。せめて一方的にでも、心の中でだけでも話しかけたいところだけれど、目の前に瑠奈がいて僕の百倍も真摯で真剣そうな様子でいるのを目の当たりにしていると、なかなか自分の想いなど展開する気にはなれない。
 十五分ほども、そうしていただろうか。それで瑠奈はスッキリした様子になって、少し雑談もしながらぐるっと中を一周し、「ちょっと」と言ってトイレに入っていった。
 杏と二人だけになると、彼女は小さなため息と共にボソッと言った。
「ボンには、マンガ止めることを報告できねえな」
「俺なんか、なんも報告することないよ」
 二人、虚ろに笑い合う。
「でさ」
 杏は少し真面目な表情になる。
「どうすんだよ、瑠奈のこと」
「え?」
「え、じゃねえよ。分かってんだろ? いいのかよ。瑠奈、もう東京にはいなくなるぞ」
 瑠奈は総合職採用で、新人は最初は地方に赴任と決まっていると言っていた。五、六年はそのままだという。杏は宣告するように続ける。
「こうやって頻繁に会うことは出来なくなる。そうすればやっぱり関係は自然に薄まり、消えていく」
「そうだろうな。でも、ボン、死んじゃったからな」
 高校の頃、有り体に言えば、瑠奈、ボン、僕は、三角関係にあった。でもボンも僕もそのことには触れずにいた。瑠奈が、ボンと僕のどちらの方が好きなのか、分からなかった。普通にいけば、ボンに圧倒的に分があった。ただ、恋愛ごとというのは、必ずしも普通が通るとは限らない。それに、ボンは瑠奈と近づきすぎるのを、誰にも悟られないように微妙に避けているようにも見えた。後になってみれば、まるで間もなく自分がいなくなることを予想していたかのように。そして瑠奈もまた、決定的になってしまうことを避けるようなところがあった。彼女自身、自分の気持ちを決めかねていたのかもしれない。
 そうするうちに、ふいに、ボンが死んでしまった。瑠奈とボンと僕の関係は、ボンが消えた形で宙に放り出された。三人の関係のままで二人になって凍結された。瑠奈の具合が悪くなる中で、溶かし方など分からなかった。やがて高校を卒業してそれぞれ別の大学に進学すると、関係は凍結されたまま化石化していく感じがした。僕なりに凍結を溶かそうと、前に進もうと努力はしてきたつもりだ。でも二、三か月に一度くらい会っても、SNSで繋がっていても、同じ空間にいなくなった僕と瑠奈はどうしようもなく化石化していく。このままで大学を卒業すれば、瑠奈が地方に行けば、もう完全に化石になる。
「亮ちゃんも、あらゆる方面、どんづまってるな」
「杏だって、結構どんづまりだろう」
「ちげえよ。わたしはもう捨てたんだよ」
「あ、うん、そうか」
「そうだよ」
 杏は、最後のところは僕の方を見ず、うつむいたままで言った。小さな子供が拗ねて石ころを蹴飛ばしている姿が思い浮かんだ。

 水族館の後、カラオケして解散までのルートも昔通り。カラオケ店を出ると雨が上がり、晴れ間が拡がっていた。雲が切れてその向こうの空を望めるのは何日ぶりのことだろう。ただ空の色はもう青ではなく、黄色っぽく熟して来ていて、茜も滲んでいる。晴れてはきても既に時は過ぎてしまい帰らず、僕たちは今日の青空を仰ぐことは出来ないのだった。
 駅まで三人で戻り、そこで別々の路線に乗る。
「じゃあまた」
 そんなふうに僕は瑠奈を見送り、杏を見送り、さてと、と思う。ボンがいた時は、この時点で僕とボンの二人だけになった。毎回じゃない、時にボンは、「男子会やろう」と僕を誘った。
 僕はデパートの屋上に出た。線路の向こう側に、デパートや商業ビルの灯りや、黄色のアルファベットの大きなロゴが見える。カラオケの後にここで佇むのは昔通り。違うのは、隣にボンがいないこと。
 遅れてきた日差しは、早くも息絶えようとしていた。夏至が近く随分と日は長くなったけれど、もうおしまいだ。代わって広がり出したまだ色浅い夜空に、星が瞬き出す。
 こうしていると、ここで二人、過ごした時の空気が、気配が、さざめきが、今もそのままに思い出される。それに、僕はまだまだいろんなボンを知っている。思い出すことが出来る。
 こんなことがあった。僕はボンと、どこかのあまり太くない川の緑道を延々とダラダラ歩いていて、そうしたらダウン症の子たちが何人か集まって話をしていた。近くにいた老人が、「迷子になっちゃったらしいよ」と言った。気候の良い時期の昼下がりで、人通りも多かったから、僕はちょっと気になりつつもでもスルーしても問題ないと思った。あー、でも、後できっと、あの子たち大丈夫だったかなあって気になるんだろうな、なんてことも短い間に頭を過ぎった。それでも僕はやっぱり、面倒なことに巻き込まれてもなあという漠然とした不信みたいなものに占拠されていき、結局、そこを通り過ぎようとした。ほんの一秒くらいの間のことだ。
 ボンはすっと立ち止まった。それで何の躊躇いもなく、その子供たちに近づいていく。少し背を屈めて目線を合わせ、微笑みながら話し掛け、尋ねる。それからスマホで何か調べ、てきぱきと連絡を取る。通話を切るとまた子供たちに話しかけ、大丈夫だよと頷き、子供たちとの会話を続け、やがて数分もしないうちに、おそらくはこの子たちの学校の先生なのだろう、中年の女性がやってくる。彼女の顔が見えたら、子供たちは今までとは違う、抱かれたような笑顔になった。
 そこまで見届けると、ボンは僕のところまでの七、八歩を駆け戻ってきて、
「ごめん、待たせちゃったね」
 そう言って、小さく拝んで見せた。
 中学の頃からずっと、僕の心の中での口癖は「死ね」だった。でも、ボンにそう思ったことは、一度もない。それなのに、ボンは死んだ。
 高二の春休み、ボンではなく、僕が死ねばよかったのだ。そうすれば、ボンは、不信にまみれた僕なんかより何百倍も世界を良くするだろう。不幸な人々を救うだろう。瑠奈だって、きっとあんなふうに傷つくことなどなかったろう。たとえ僕が死んでいくらかは瑠奈が傷ついたとしても、ボンなら、きっとうまく彼女を癒したことだろう。
 僕が死ねばよかったのだ。
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