第1章 1

文字数 2,006文字

 夏が終わろうとしている。
 日が沈むとそれなりに涼しいと感じられるようになり、重くねっとりとしていた空気の粘度も下がるようになった。背中や尻の下の固いコンクリートにも、昼間の熱の名残りは無い。それでもなお窒息しそうなのは、この空のせいかもしれない。
 僕はビルの屋上に寝転がって、蓋のされたような夜の空を見上げていた。雲が厚く覆い、月も星も見えない。雲は街のネオンサインを吸収して、暗い赤に染まっている。地上の雑踏からのざわめきはごちゃまぜになって、ざらついた感じの波の音のようだ。そこに時々、緊急車両のサイレンの音が混じったりする。
 近づく足音がある。でも僕はそのまま寝転がって空を見ている。何も見えない空を見ている。
「亮ちゃん」
 声で瑠奈だと分かった。あー、やっぱり瑠奈は気づいたのか。今日は人数が多かったし、少しの間、一人になりたいと思ってしまった。杏も一緒だから大丈夫なはずだし。ちょっとして戻れば分からないだろうと思ったけれど。瑠奈、気づくのか。
「ここがよく分かったね」
 僕は瑠奈の方を見ずに言った。
「非常口が開けっぱなしだった」
「そうだった?」
「普通、そこから知らない雑居ビルの屋上に出る?」
「うん。そうだね、出ない」
 瑠奈は僕の横に、膝を抱えて体育座りしたようだった。
「急にいなくならないでよ」
「悪い」
「私が心配性なことは知ってるでしょ」
「すぐ戻るつもりだったんだよ」
 僕が言い終わる前に、ヴヴヴ、とくぐもった音が鳴る。断続的に何度か震えて、止まる。瑠奈のスマホだ。それに応えるように、僕のスマホもメールかSNSの新着を連続して伝えてくる。
「ねえ、杏のコミコミューン、行く?」
 本名は杏と書いて〈あんず〉だけれど、みんな彼女を短く〈あん〉と呼ぶ。コミコミューンは、コミケなんかと同様の、でも規模は小さめの同人誌即売イベントだ。
「瑠奈っちは?」
「うーん。遠いし、――混むでしょ」
「だよなあ」
「あー」
 瑠奈も、そのまま体を伸ばして、あおむけに寝転んだ。それで、
「疲れたなあ」
 と呟く。
「今年の夏はタガが外れた感じで暑かったよなあ」
 と僕。
「インターンシップ疲れしたよ」
 また、どこかでサイレンの音がした。
「結局、何件やった?」
「四社だよ。四社。夏休み、潰れたよ。完全に潰れた」
「手応え、どうだったんだよ」
「これで全部落とされたらお礼参りだよ」
 瑠奈は剣道の有段者で、何回か試合を見に行ったことがある。素早いし、遠いしで、大袈裟でなくてリアルに、剣先の動きが見えなかった。
「ペンより剣だ。殺せ、殺せ」
「殺さないよ。――で、どう、亮ちゃんは。インターンは」
「行けなかった。全部落ちた。インターンの書類選考段階で落ちた」
「マジ?」
「瑠奈っちは剣道とかあるし、慶應だし。俺はほら、所詮、マンモスだけが取り柄の三流大学だし、これといって何も無いから」
「――何か、嫌な世の中だねえ」
 瑠奈はそれで体を起こし、また体育座りに戻った。
 二人、しばらく黙っていた。その間も常に地上からはさざめきが届き、けたたましい音声をばら撒きながら風俗バイト誌の宣伝カーが忙しく通り過ぎて行った。
「亮ちゃんはインターン、どんなとこに応募したの?」
「金融系。いちおう、そっち系のゼミだし。別に興味あるわけでもないんだけど」
「サークル、なんていったっけ? 名前、いつも忘れちゃう」
「フィールド・マーケティング・アソシエーション。それっぽいけど、やってることはアド街とか王様のブランチの真似事だな」
「楽しそうじゃない」
「ま、それなりに、かなあ」
 また瑠奈の、そして僕のスマホがバイブする。断続的に、一回、二回、三回、四回……。こらえきれないように、瑠奈がスマホを見る。
「みんな、探してる」
 それで渋々、僕もスマホをみる。
「だな。――カラオケ、戻るか」
「だね」
 高校の時の友だちでカラオケに来た。発起人は杏で、コミコミューンの宣伝をしたかったらしい。このカラオケに杏が誰を誘っているのかを確認して、まあいいかと、来ることにした。
 僕は高校時代の同級生たちと、だいたい半年おきくらいで会っている。発起人は杏のことが多いけれど、違うこともある。グループLINEで繋がっていて、このメンバーだけなら問題ない。時々、拡大カラオケになったりするので要注意だ。グループLINEでは、杏のように常に書き込んでるようなのもいる一方、瑠奈や僕はほぼ見ているだけだ。せいぜい、スタンプを返すくらい。高一からグループを作り直したりの紆余曲折があって、やっと今のメンバーになって、それで安定している。
 そのメンバーの中でも、僕、瑠奈、杏には特別な繋がりがある。なぜなら、高二のあの日まで、僕たちはいつも四人だったから。そして、あの日以来、三人になってしまったから。僕と瑠奈は気持ちの行先を失い、僕と杏は瑠奈を見守り、僕たちは結局、喪失を埋め合わせることが出来ずにいる。

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