第2章 1

文字数 2,693文字

 杏の同人誌が警察に摘発されたと瑠奈がLINEで知らせてきたのは、十月も後半になろうかという頃だった。
 グループLINEではなくて宛先が僕だけということもあり、瑠奈はストレートに書いてきた。
「杏のマンガ、中身読んでこれはヤバイと思ってたんだよね」
 僕は杏から買った後、そのままで開封すらしていなかった。
 僕が「まだ読んでない」とリプしたら、すぐに瑠奈から驚愕のスタンプが返ってきた。続けて、「すぐ読んで。で、電話ください」とメッセージが続いた。
 やれやれ、放っておくわけにもいかない。
 杏は大丈夫だとは思うけれど、瑠奈が。
 僕は、それで書棚の隅に押し込んであった杏の同人誌を取り出した。個包装してあるうち、一冊を開封する。
 増尾のこととか、インターンシップ応募の締め切りとかバイトとか、同人誌を手にしてからいろいろあって忙しく――というのは本当ではあるけれど、所詮は言い訳だ。もちろん、杏には漫画家になってほしいと願っている。でも、そのまま読まずにおいてしまったということが、何より今の杏の限界を示しているのだろう。
 ページをめくる。
 絵の技術は着実に上がってはいるんだよなあと感じる。高校の頃とは段違いになっている。それでも、杏の言う通り、いまどきのアマの絵師さんたちの技術水準は半端ない。杏は特別巧いとまでは言えない。
 じゃあ、ストーリーはどうか。
 いつもの杏のストーリーは、僕がモデルにされた作品もそうだったけれど、なにげにブンガクテキだった。それが本当に「文学」なのか、僕なんかには分からない。でも、ブンガクテキではある。ただそれは、一般受けしないとも言えた。
 本作もまた、そんな感じで始まる。けれど……。
 男子高校生の主人公は強く頭を打って臨死状態になり、なんとそこで三島由紀夫の霊に憑依されるのだ。退院後、主人公が三島の霊と対話しながら向かう先はゲイのAV撮影現場で、何と監督はニーチェに憑依されている。主人公はそこで三島とニーチェの批評を浴びながら主演俳優として脱ぎ始め……。
 本作は衒学的かつブンガクテキでありながらも、初めてのBLであり、かつエロマンガだった。
 杏的には売れ線に寄せたつもり、なのかもしれなかった。いや、そうだろうと思った。でもそこからの展開は、あるあるなエロマンガを踏襲しているに過ぎない感じだ。過激なエロシーンの中で交わされる台詞が妙に衒学的かつブンガクテキなのは杏のせめてもの意地なのかもしれないけれど、単に滑稽だし、滑っている感じしかしなかった。
 ページをめくり終えての感想は、杏には悪いけど「あーあ」というものだった。この前、この本を僕に渡した時の杏の、「ここで読むな」という強いNOの表情が蘇る。クールっぽくしてはいても、中途半端なままに大学三年の夏を終えた焦りが、そりゃあ、あるよなあと、しみじみ思った。
 それから改めて、「摘発」されそうなシーンを見返してみる。まあ、露骨っちゃあ露骨だけれど、エロマンガとしては別に取り立てて一線を越えたみたいな印象はない。僕にその辺のボーダーラインの知識は無いけれど、この感じで摘発されるんだろうか。何より、杏が、警察に捕まるような下手を打つとも思えない。
 瑠奈に電話しなきゃと思ったら、待ちきれない彼女からかかってきた。
「亮ちゃん、読んだ?」
 やっぱり瑠奈は警戒域に入っている感じがする。
「読んだ、読んだ。瑠奈っち、本人に摘発されたって聞いたわけじゃないんだろ?」
「違う。茜に聞いた」
 茜も高校のクラスメイトで、杏とはマン研繋がりではあるけれど、同じグループではないはず。瑠奈は顔が広いから、あちこちとSNSや何かで繋がっている。
「見た感じ、エロは確かにエロだけど、別に普通だろう」
「そうなの?」
「たぶん。だから、小島茜の話ってのがデマじゃない?」
「そうかな。でも、杏、今までああいうエロマンガは描いて来なかったし、何かあったのかなって。そのうえ、もし捕まっちゃったりしたら、さらにヤバイよね。杏、大丈夫かな。私たち、どうしたらいいだろう。想像していたら心配になってきちゃって」
「まずは事実を確認しよう。俺が杏に聞いてみる」
「直接連絡しても平気な状況かな?」
「杏のことだし、構わないと思うよ」
「そう思う? そうしたら、すぐに連絡してみてくれるかな?」
「分かった。で、瑠奈っちに電話する」
「ありがとう、亮ちゃん」
 通話を切ると、すぐに杏に掛けた。幸い、三回、鳴ったところで杏が出た。
「今、いいか?」
「あー、いいけど?」
 落ち着いた、いつもの杏の声。やっぱり。「摘発」はデマだ。
「杏のこないだのマンガ、警察に摘発されたって噂が流れてるぞ」
「は? 何それ?」
「違うんだろ?」
「警察なんか出てこないよ」
 杏の苦笑いが伝わる。
「主催者だよ。ちょっと、描写の仕方に問題があったらしい。念のためこれは売らんでくれって言われた。わたしにしちゃ油断した、ってか過信してたんだけど、もう刷っちゃったし、金ないし、コミコミューンでは売れなくなったよ」
「そうなの? 別にエロマンガとしちゃ、よくあるレベルじゃねえの?」
「いろいろお約束があるんだよ。わたしもエロは初めて描いたからさ、一応、調べてガイドラインを踏み外さないようにとはやったんだけど。どうせエロやるならギリギリ攻めないと意味ねえとも思ったから、攻めたら、攻め過ぎた」
「だよなあ。そんなことだと思ったよ」
「亮ちゃん、そのデマ、どっから聞いた?」
「瑠奈っちだよ。瑠奈っちは小嶋茜からだって。瑠奈っち、パニくりかけてたぞ」
「マジか。拙いな」
 杏の声に少しだけ後悔が混じる。それで、
「でもこれくらいなら、『あれ』は出て無いよな?」
 と尋ねてきた。
「それは、大丈夫そうだ」
「そうか。なら良かった。――わたしから瑠奈っちに連絡する?」
「いや、俺がするって瑠奈に言ったから、俺からしとく」
「そういうの、亮ちゃんの方が上手いしな」
「杏もあとで連絡しとけよ」
「そうする。しっかし、小嶋茜はどこから聞きつけたんだ。あいつのことだから悪意はないんだろうけど。でも、あいつ、とにかく迂闊なんだよ。一度、締めとくか」
「それは杏に任せるけど。でも――」
「何だよ」
 ちょっと躊躇したけれど、杏相手に遠慮しても仕方ないかと思い、言葉にした。
「いまさらのBLか」
「――悪いかよ」
「悪かねえよ。悪かねえけど」
「それ以上は言ってくれるな」
 杏は、僕を押し止めるような低く苦し気な声を作って言った。
「模索か」
「だから言ってくれるな、言ってくれるなよ」
「うん、そうだな」
 僕はそれで、静かに通話を終えた。
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