第11章 1

文字数 1,923文字

 ボンの母親と会うのは、ボンの葬儀の時以来だった。ただ、今日これから会う場所は家ではなくて、母親の事務所だ。正月明け、電話で用件を手短に説明したら、そういうことなら早いうちがいいから事務所でお会いしましょう、ということになったのだ。
 ボンの家は目黒の閑静な住宅街の豪邸だったので、さぞ立派な事務所かと思っていたら、実態は池袋西口の古ぼけた雑居ビルの四階の、手狭な一区画でしかなかった。小さな会議室に通されるとすぐに、ボンの母、牧浦恵理子先生が現れる。グレイのスーツは野暮ったく見えかねないタイプのものだけれど、恵理子先生のきびきびした所作と合わさると、むしろ丁度よい取っ付きやすさを醸し出していた。
「山崎くん、久しぶりね」
 ごくごく自然で人を寛がせる微笑みは、ボンと良く似ている。話していると、時に、ボンを前にしているような錯覚に陥る。就職先のことなど近況を少しだけ報告すると、すぐに本題に入った。何しろ、多忙な恵理子先生には時間が無いのだ。
 瑠奈の思い付きは正しくて、恵理子先生は「クマの子」の件を相談する、まさにライト・パースンだった。先生はこの手の問題が専門というわけではなかったけれど、関連した案件を多く手掛けているようだった。そして何より、ボンの母親なのだ。彼女は僕から状況を詳しく聞き出すと、問題となりそうな点を分かりやすく列挙して、NPO法人など、相談すべきいくつかの連絡先を教えてくれた。「どこも、牧浦から紹介されたって言ってくれればOKだから」と。
 ただ、いずれにしても「クマの子」がどこにいるのかが分からなければ、どうにもならない。それを唯一聞き出せる人間がいるとすれば、僕なのだ。とりあえずは、僕が「クマの子」とやり取りを続けていくしかない。それで、「クマの子」の居場所を聞き出す。
 話が一段落したところで、恵理子先生は眼差しや声のトーンを、職業人から母親に変えた。
「聡はいつもあなたのことを話していたのよ。亮ちゃんは葛藤するんだって」
「葛藤、ですか?」
「そう。葛藤してそれで勝つんだって。自分は何にも考えずに反射神経でやってしまうけれど、亮ちゃんはそうじゃないからこそ、立派なんだよって」
 何言ってるんだ、ボン。僕が立派なはずがない。
「いや、立派でもなんでもないです。単に、優柔不断で逃げ腰なだけですから」
「でも、逃げないんでしょう?」
「逃げますよ、しょっちゅう」
「で、戻ってくる」
「はい、まあ、大体そうです。バカみたいですよね。後手後手になるし。何やってるんだって、いつも思います」
「聡は、そういう山崎くんを全部ひっくるめて、立派だって尊敬していて、親友と思っていたのよ」
 ボンに尊敬されていたなんて。僕は自分にそんな価値を与えたことは一度も無かった。ボンは僕のことを買い被っていたのだろうか。いや、ここは素直に恵理子先生の言葉を受け取ろう。僕が唯一信頼したボンが母親に語った評価なのだから。
 先生から貰っていた三十分の時間が過ぎようとしていた。先生と話していて、僕の中に、ふるふると浮かび上がってくる思いがあった。
「牧浦先生」
 僕は、席を立ちながら言った。
「『クマの子』の件をうまく進められるように、似たようなケースのこととか、いろいろ知りたいと思うんです。もし『クマの子』が自分の居場所を教えてくれたら、会いに行ってみたい。だから、さっきのNPOに早速連絡してみようと思います」
「勿論構わないけど、山崎くん、もうすぐ就職でしょ? そうしたら自分で会いに行くとかは難しいんじゃない? こういうことには慣れてもいないんだし。NPOの人に引き継いで貰えるかどうか、お願いしたら?」
「うーん、そうですね。それなら、せめて出来るところまで。来年の三月末まででも」
 ふと、従兄の雅ちゃんが言っていたことを思い出した。雅ちゃんは、もっと我儘でもいいんじゃね?と言ってくれた。別に就職なんかしなくてもいいというのは、無責任にも聞こえた。でも、「そうしないと亮ちゃん、自分が何したいんだったかも分からなくなってるんじゃないかな」。これが滲みてくる。きっと、その通りなのだ。
「いや、やっぱり」
 僕は顔を上げ気味にして、恵理子先生に言ってしまった。
「僕がずっと関与したいです」
「会社の初任地は地方なんでしょう?」
「はい、そうです。そうですけど――、例によって、葛藤します。葛藤して、どうするべきなのか悩んで、それで決めます」
「そう。分かったわ」
 恵理子先生は晴れの笑顔になった。
「無理はしないで。困ったら、いつでも連絡してね。それで、自分の思うようにやってみて」
 恵理子先生は、体温のような温もりある言葉で、僕の背中をそっと押してくれた。
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